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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第四章「剥落」
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 打ちおろすような蝉時雨が聞こえる。開けた窓から入ってくる風は少しも涼しくなくて、グラウンドの砂ぼこりとプールの塩素の匂いを運んでくる。クラスの半分は机に突っ伏し、残りの半分は下敷きで顔をあおいでいる。


 怜奈は仕事へ戻っていった。いるあいだの怜奈は昼と夜が逆さまで、洗面台にはまだピンクの染料が残っている。梓さんはそれを見つけて、これは血じゃないのね、と訝しげに確かめていた。


 あの夜から、父の夢は見ていない。代わりに、黒が濃くなった。怜奈の顔も、朝の洗面台の鏡に映る自分の顔も、墨を落としたみたいに塗り潰されている。本当に濃くなったのか、僕がよく見るようになっただけなのか、確かめようがない。


 今までは、黒をあまり見ないようにしてきた。見ても仕方がないからだ。人の首から上には何もない。空が青いのと同じで、いちいち確かめるようなことではなかったのに。


「進路希望調査、配るぞー」


 朝のホームルームで、担任が教卓を叩いた。前の席から、プリントが回ってくる。


「金曜の放課後までな。三者面談の資料になるから、家の人とよく話して、第一希望から第三希望まで、ちゃんと埋めてこい。適当に書くなよ」


 回ってきた紙には、四角い欄が三つ並んでいた。三つも書かせるのは、最初の欄に本当のことを書かない人間がいると、学校が知っているからかもしれない。シャープペンを持ったまま、空いた欄を見ていた。


 第一希望の欄に、美、と一字だけ書く。書いたところで、上からぐしゃぐしゃに塗り潰した。黒くなった四角の横に、付属の大学の名前を書く。学部の名前だけ変えて、三回。学費なら私が出すから好きなとこ行きな、と怜奈は言ってくれた。


 顔の見えない僕が美大に行って、四年間、毎日人を描く。考えただけで、指先が冷たくなった。去年の冬に、予備校の資料を取り寄せたことがある。受験科目のページで『人物デッサン』の文字を見つけて、その日のうちに捨てた。読んだのは、たぶんその一行だけだ。


 書き終えた紙を折りたたんで、鞄の底に押しこんだ。


「なあ、朔」


 昼休み、いつもの空き教室で、奏多がパンの袋を破った。中原さんは今日もいない。撮影が続いているらしい。


「進路、どうすんの」

「……付属で出した」


 奏多は焼きそばパンをひと口かじって、長いこと噛んでいた。


「奏多は、どうするの」

「親父が医者だから、そっちの流れ」

「やりたいの」

「別に。でも、嫌でもねえし」


 牛乳のパックに、ストローを刺す音がした。


「嫌でもねえって、けっこうでかいと思うんだよな。世の中、嫌なことやってる人のほうが多いだろ」


 奏多は、空いたパンの袋を細く折って、結んでいる。


「……なんで美大じゃないのか、とか、聞かないんだ」


 こっちから言った。


「聞いてほしいの」

「……別に」

「じゃあ聞かねえよ」


 話はそれで終わった。その日の奏多は、いつもより食べるのが遅かった。三つ目のパンを開けかけて、途中でやめて、鞄に戻している。奏多が食べ物を鞄に戻すところなんて、見たことがなかった。


♢♢♢


 木曜日、中原さんが美術室に来た。古いエアコンが唸っているだけで、部屋はちっとも冷えない。安田さんと室井先輩は、夏休み前に部誌を出すとかで、別の教室にこもっていた。前に中身を見せてもらったら、半分が漫画の感想だった。


 窓から入る光が強くて、床に二人ぶんの影がくっきり落ちている。僕はキャンバスに、下地の白を塗っていた。隣の椅子で、中原さんは深く腰かけたまま動かない。下地を半分ほど塗り終えたころ、小さなため息が聞こえた。


「……ねえ、神崎くん。私、向いてないのかな」


 いつもの跳ねる語尾が、どこにもなかった。


「……何かあった?」


 筆を止めずに聞いた。


「オーディション。また落ちた。最終まで残るとさ、期待しちゃうじゃん。……監督さんの反応、悪くないと思ったんだけどな」


 椅子がきしんだ。中原さんの顔は、僕には見えない。低くなった声と、衣擦れの音が届く。


「前に言ってた、おっきいやつ?」

「それも。……それが、いちばん残ってたんだけど」

「いくつ受けたの」

「この一ヶ月で、四つ。全部だめ」


 筆を、パレットに戻した。


「言っとくけど、これでも少ないほうだからね」


 軽く言おうとしているのは分かった。四つ落ちたということは、四回、自分を見せて、四回、要らないと言われたということだ。


「そういうものなの」

「慣れるよ、そのうち」


 言い終わりに、息がふっと抜けた。


「慣れたふりが、うまくなるだけだけど」


 パレットから筆を取り直して、また動かしはじめた。


「……昨日のドラマ、見たよ」


 ゆうべ放送された恋愛ドラマに、中原さんは脇の役で出ていた。


「うそ。どこまで」


 彼女の声が小さくなった。


「最後まで。たまたまだけど」

「最悪。……きもかったでしょ。自分でも見てらんなかったんだけど」


 ヒロインの友達の役だった。画面のどこにいても愛想を振りまいていて、クラス中から好かれている。


「いや、大変そうだなと思って。声、いつもよりずっと高かったし。息の吸い方とか、笑うときの声の出し方とか、全部決めてるみたいだった。わざとあざとくやるのって、たぶん難しいよね」


 隣から、返事が来なくなった。


「神崎くんの感想って、ときどき変」


 少しして、噴き出す声が聞こえた。張りが戻ってきている。


「ごめん。変なこと言ったよね」

「ううん、ありがと。みんな、可愛かったしか言わないから。……ちゃんと見ててくれたんだね」


 上履きが床を鳴らして、中原さんが立ち上がった。窓のほうへ歩いていく。


「あーあ。夏休みかあ」

「嬉しくないの」

「レッスンとオーディションばっかりだもん。みんなが遊んでるの見ると、いいなってなる。神崎くんは?」

「家で描くくらい。いつもと変わらない」

「いいな。そういうのが、いちばん羨ましい」


 窓に背中を預けて、中原さんは長く息を吐いた。吐ききるまで、時間がかかった。


「一日くらい、夏っぽいことしたいな。……あ、あの喫茶店、夏だけラムネフロートやってるんだって。グラスの中が真っ青で、上にアイスがのってるやつ」


 こっちを向いたらしく、髪が揺れた。


「今日このあと、付き合ってよ。夏休みの作戦会議」

「作戦会議って、何決めるの」

「夏っぽいことリスト」

「絶対消化できないやつだ」

「作るのが大事なの」


 逆光の中で、中原さんの体の縁が白く光っている。首の上の黒が、光のせいでいっそう濃く見えた。


「……いいよ。ラムネフロート、飲もう」


 まっすぐそっちを向いていられなくて、窓の外の空に目を逃がした。筆を洗いに立ったところで、呼び止められる。


「あのさ、神崎くん」


 振り返ると、中原さんは鞄の持ち手を両手で握っていた。何か言いかけた気配がある。僕はその続きを待たなかった。筆の先から絵の具が垂れそうになって、そっちに目を落としてしまったのだ。顔を上げたときには、もう間が抜けていた。


「……ううん。やっぱ、あとで言う」

「なにそれ。今言えばいいのに」

「だめ。ちゃんと言いたいから」


 ちゃんと、のところに力が入っていた。


「今じゃだめなこと?」

「うん。筆持ってるし」

「置くけど」

「いいの。あとで」


 中原さんは笑って、それで終わりにした。僕も重ねては聞かずに、流しへ向かう。水道の水が、白い絵の具を溶かして排水口へ流していく。背中のほうで、鞄の持ち手を握り直す音がした。

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