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打ちおろすような蝉時雨が聞こえる。開けた窓から入ってくる風は少しも涼しくなくて、グラウンドの砂ぼこりとプールの塩素の匂いを運んでくる。クラスの半分は机に突っ伏し、残りの半分は下敷きで顔をあおいでいる。
怜奈は仕事へ戻っていった。いるあいだの怜奈は昼と夜が逆さまで、洗面台にはまだピンクの染料が残っている。梓さんはそれを見つけて、これは血じゃないのね、と訝しげに確かめていた。
あの夜から、父の夢は見ていない。代わりに、黒が濃くなった。怜奈の顔も、朝の洗面台の鏡に映る自分の顔も、墨を落としたみたいに塗り潰されている。本当に濃くなったのか、僕がよく見るようになっただけなのか、確かめようがない。
今までは、黒をあまり見ないようにしてきた。見ても仕方がないからだ。人の首から上には何もない。空が青いのと同じで、いちいち確かめるようなことではなかったのに。
「進路希望調査、配るぞー」
朝のホームルームで、担任が教卓を叩いた。前の席から、プリントが回ってくる。
「金曜の放課後までな。三者面談の資料になるから、家の人とよく話して、第一希望から第三希望まで、ちゃんと埋めてこい。適当に書くなよ」
回ってきた紙には、四角い欄が三つ並んでいた。三つも書かせるのは、最初の欄に本当のことを書かない人間がいると、学校が知っているからかもしれない。シャープペンを持ったまま、空いた欄を見ていた。
第一希望の欄に、美、と一字だけ書く。書いたところで、上からぐしゃぐしゃに塗り潰した。黒くなった四角の横に、付属の大学の名前を書く。学部の名前だけ変えて、三回。学費なら私が出すから好きなとこ行きな、と怜奈は言ってくれた。
顔の見えない僕が美大に行って、四年間、毎日人を描く。考えただけで、指先が冷たくなった。去年の冬に、予備校の資料を取り寄せたことがある。受験科目のページで『人物デッサン』の文字を見つけて、その日のうちに捨てた。読んだのは、たぶんその一行だけだ。
書き終えた紙を折りたたんで、鞄の底に押しこんだ。
「なあ、朔」
昼休み、いつもの空き教室で、奏多がパンの袋を破った。中原さんは今日もいない。撮影が続いているらしい。
「進路、どうすんの」
「……付属で出した」
奏多は焼きそばパンをひと口かじって、長いこと噛んでいた。
「奏多は、どうするの」
「親父が医者だから、そっちの流れ」
「やりたいの」
「別に。でも、嫌でもねえし」
牛乳のパックに、ストローを刺す音がした。
「嫌でもねえって、けっこうでかいと思うんだよな。世の中、嫌なことやってる人のほうが多いだろ」
奏多は、空いたパンの袋を細く折って、結んでいる。
「……なんで美大じゃないのか、とか、聞かないんだ」
こっちから言った。
「聞いてほしいの」
「……別に」
「じゃあ聞かねえよ」
話はそれで終わった。その日の奏多は、いつもより食べるのが遅かった。三つ目のパンを開けかけて、途中でやめて、鞄に戻している。奏多が食べ物を鞄に戻すところなんて、見たことがなかった。
♢♢♢
木曜日、中原さんが美術室に来た。古いエアコンが唸っているだけで、部屋はちっとも冷えない。安田さんと室井先輩は、夏休み前に部誌を出すとかで、別の教室にこもっていた。前に中身を見せてもらったら、半分が漫画の感想だった。
窓から入る光が強くて、床に二人ぶんの影がくっきり落ちている。僕はキャンバスに、下地の白を塗っていた。隣の椅子で、中原さんは深く腰かけたまま動かない。下地を半分ほど塗り終えたころ、小さなため息が聞こえた。
「……ねえ、神崎くん。私、向いてないのかな」
いつもの跳ねる語尾が、どこにもなかった。
「……何かあった?」
筆を止めずに聞いた。
「オーディション。また落ちた。最終まで残るとさ、期待しちゃうじゃん。……監督さんの反応、悪くないと思ったんだけどな」
椅子がきしんだ。中原さんの顔は、僕には見えない。低くなった声と、衣擦れの音が届く。
「前に言ってた、おっきいやつ?」
「それも。……それが、いちばん残ってたんだけど」
「いくつ受けたの」
「この一ヶ月で、四つ。全部だめ」
筆を、パレットに戻した。
「言っとくけど、これでも少ないほうだからね」
軽く言おうとしているのは分かった。四つ落ちたということは、四回、自分を見せて、四回、要らないと言われたということだ。
「そういうものなの」
「慣れるよ、そのうち」
言い終わりに、息がふっと抜けた。
「慣れたふりが、うまくなるだけだけど」
パレットから筆を取り直して、また動かしはじめた。
「……昨日のドラマ、見たよ」
ゆうべ放送された恋愛ドラマに、中原さんは脇の役で出ていた。
「うそ。どこまで」
彼女の声が小さくなった。
「最後まで。たまたまだけど」
「最悪。……きもかったでしょ。自分でも見てらんなかったんだけど」
ヒロインの友達の役だった。画面のどこにいても愛想を振りまいていて、クラス中から好かれている。
「いや、大変そうだなと思って。声、いつもよりずっと高かったし。息の吸い方とか、笑うときの声の出し方とか、全部決めてるみたいだった。わざとあざとくやるのって、たぶん難しいよね」
隣から、返事が来なくなった。
「神崎くんの感想って、ときどき変」
少しして、噴き出す声が聞こえた。張りが戻ってきている。
「ごめん。変なこと言ったよね」
「ううん、ありがと。みんな、可愛かったしか言わないから。……ちゃんと見ててくれたんだね」
上履きが床を鳴らして、中原さんが立ち上がった。窓のほうへ歩いていく。
「あーあ。夏休みかあ」
「嬉しくないの」
「レッスンとオーディションばっかりだもん。みんなが遊んでるの見ると、いいなってなる。神崎くんは?」
「家で描くくらい。いつもと変わらない」
「いいな。そういうのが、いちばん羨ましい」
窓に背中を預けて、中原さんは長く息を吐いた。吐ききるまで、時間がかかった。
「一日くらい、夏っぽいことしたいな。……あ、あの喫茶店、夏だけラムネフロートやってるんだって。グラスの中が真っ青で、上にアイスがのってるやつ」
こっちを向いたらしく、髪が揺れた。
「今日このあと、付き合ってよ。夏休みの作戦会議」
「作戦会議って、何決めるの」
「夏っぽいことリスト」
「絶対消化できないやつだ」
「作るのが大事なの」
逆光の中で、中原さんの体の縁が白く光っている。首の上の黒が、光のせいでいっそう濃く見えた。
「……いいよ。ラムネフロート、飲もう」
まっすぐそっちを向いていられなくて、窓の外の空に目を逃がした。筆を洗いに立ったところで、呼び止められる。
「あのさ、神崎くん」
振り返ると、中原さんは鞄の持ち手を両手で握っていた。何か言いかけた気配がある。僕はその続きを待たなかった。筆の先から絵の具が垂れそうになって、そっちに目を落としてしまったのだ。顔を上げたときには、もう間が抜けていた。
「……ううん。やっぱ、あとで言う」
「なにそれ。今言えばいいのに」
「だめ。ちゃんと言いたいから」
ちゃんと、のところに力が入っていた。
「今じゃだめなこと?」
「うん。筆持ってるし」
「置くけど」
「いいの。あとで」
中原さんは笑って、それで終わりにした。僕も重ねては聞かずに、流しへ向かう。水道の水が、白い絵の具を溶かして排水口へ流していく。背中のほうで、鞄の持ち手を握り直す音がした。




