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蛇口を締めると、耳の奥で自分の脈が鳴っていた。洗面台の鏡のほうは見ないまま、脱衣所を出る。湿った髪をタオルで適当に拭いて、部屋のドアを開けたところで、立ちつくした。
「……何してんの」
床に積んであった本や画材が、壁ぎわに寄せられていた。空いたところに、布団が二組、隙間なく並べて敷いてある。シーツの皺を勢いよく伸ばしていた怜奈が、振り返った。
「今日はこっちで寝るの。あんなうなされ方されたら、ほっとけないし」
「大丈夫だって。もう落ち着いたし。それに狭いし」
「だめ。またあんな声出されたら、隣の部屋で私が寝れないっしょ。ほら、四の五の言わずに入る」
なかば押しこまれるようにして布団の端に収まると、怜奈も隣に潜りこんできた。怜奈の着ているTシャツから、あの強い香水が匂う。
「またうなされたら、ビンタで起こしたげる。なんならトイレもついてってあげよっか」
「いいよ、それは。逆に出なくなる」
「あはは、ウケる。冗談だって」
笑いながら、枕元のスイッチに手を伸ばす。明かりが消えて、部屋が暗くなった。音がなくなると、冷たい水で流したはずの夢が、足元のほうから戻ってくる。
「ねえ。さっき、どうしたの」
ふざけた調子が抜けて、低い声になっていた。
「……あいつの夢」
隣で、シーツが鳴った。
「最悪じゃん。よりによって、あいつなの」
「はっきり見えたんだ。顔、全部」
両手で、自分の顔を覆った。乾いた皮膚の感触がする。
「……おかしいんだよ。起きたら、怜奈の顔は見えないのに」
見えるのは、消してしまいたい顔だけだ。育ててくれた人の顔も、隣にいる姉の顔も、まんなかはいつも黒く沈んでいる。
「絵、描こうとしたんだ。……この前のドラマの子」
少し間があった。
「へえ」
短い返事の途中で、声の高さが一度上がって、すぐに沈んだ。
「へえ、じゃなくて」
「いや、へえ、だよ」
怜奈は続きを待っている。暗いほうへ向かって話した。まわりのものは、全部描けたこと。グラスも制服も、影まで描けたこと。まんなかが空いていて、そこへ鉛筆を向けたとたんに、全部が崩れたこと。話しているうちに、声がかすれてきた。
「……ずっと、壊されたままなんだよ」
外の道を、車が一台通り過ぎていく。時計の秒針の音が、二人のあいだに入りこんできた。
「さくさ。あの子、これから忙しくなるよ」
思っていたのとは、違う方向から来た。
「……なんで、そう思うの」
「見れば分かる。ああいう子は、ある日いきなり持ってかれるから」
布団の中で、怜奈が寝返りを打った。
「そういうの、何回も見てんの。現場で会って、次の年には全然会えなくなってる子。悪い意味じゃなくてさ、住む場所が変わるんだよね。会う人とか、寝る時間とか、全部。本人は、変わったつもりなんかないんだけど」
怜奈の声は淡々としていた。
「だからまあ、今のうちに描いといたほうがいいんじゃない」
「描けないって言ってるんだけど」
「知ってる。でも、そういうもんだから」
どちらも、そのまま黙った。やがて衣擦れの音がして、怜奈がこっちを向いたのが分かった。
「あのさ。今まで言わなかったけど。っていうか、言う必要ないと思ってたんだけどさ」
怜奈の声は、天井のほうへ向いていた。
「私も、同じだったんだよ」
顔を覆っていた手を、ゆっくり下ろした。暗さに慣れてきた目で、怜奈のいるあたりを探す。
「……怜奈も、見えなかったの?」
「うん。誰の顔見ても、のっぺらぼうっていうかさ。肉の塊にしか見えなかった。学校の先生も、さくの顔も。マジでこの世の終わりだと思った」
いつも強気で、何でも笑い飛ばす姉の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。明るすぎる髪の色も、次々に変わる香水も、そうやって自分をこっちにつなぎとめておくためのものだったのだろうか。
「いつから」
「あんたと同じころ」
夢の中で、僕と父のあいだに割って入った背中を思い出した。あれが本当にあったことなのか、夢が作ったものなのかは、僕には分からない。聞こうとして、やめた。
「なんで、言わなかったの」
「言ってどうすんの。あんたが小四で、私が高二だよ。二人とも人の顔が見えませんって、梓さんに言えると思う? あの人、絶対自分のせいだと思うでしょ」
「……思うかもしれない」
「でしょ。だから黙ってた。あんたも、黙ってるでしょ」
梓さんに言わずにきたことを、怜奈は知っている。言わないと決めた覚えはないのに、僕もずっとそうしてきた。
「梓さんの話に、そうだねって返事してんの見てれば分かるよ。私もそれ、やってたから」
テレビの前で、何度そう返してきたのか分からない。返事さえしておけば、たいていの話はそこで終わってくれる。そのやり方は、自分で見つけたつもりでいた。
「それに、あんたのは治んなそうだったし」
「ひどいな」
「事実じゃん」
笑いまじりだった声が、そこから低くなった。
「……私だって、全部治ったわけじゃないんだよ。疲れたり、限界きたりするとさ。信号の赤とか、コンビニの看板とか、全部灰色になるんだよね。色が、どっか行っちゃうの」
怜奈の声は震えていなかった。
「完全に元通り、なんて嘘。私は今でも、そういう無理を抱えたまんま、毎日笑って生きてるから」
怜奈の手が、布団の上から僕の腕を探して、掴んだ。痛いくらいの力だった。指先が冷たい。
「あのくそったれに壊されたまんまで人生終わるとか、だるいじゃん。……だから、今日はもう寝な」
腕を掴む力は弱くならない。黙っていると、やがて、怜奈がもう一度口を開いた。
「さっきの話だけどさ。忙しくなるって言ったやつ。あれ、脅かすつもりで言ったんじゃないよ」
声が、眠そうに崩れはじめている。
「間に合わないかもしれないから、始めたほうがいいって話。……描けるようになってから描こうとしたら、たぶん一生始まんないよ」
返事をする前に、腕を掴んでいた手から、力が抜けていく。
「……ありがとう、怜奈」
小さく言うと、寝言みたいな、おやすみ、が返ってきた。
♢♢♢
目が覚めると、隣の布団はもう畳んであった。枕元に、水のペットボトルが一本と、走り書きのメモが置いてある。
『打ち合わせ行ってくる 冷蔵庫にプリンあるよ』
スマホには、通知が二件たまっていた。夜のうちに届いていたらしい。
『明日からしばらく撮影で、学校あんまり行けない』
『でも来週、一日だけ空きそう』
返事を打って、消して、また打った。結局、待ってる、とだけ送った。
起き上がって、机の前に座る。いちばん下の引き出しを開けると、ゆうべ入れたものが、入れたときのままそこにあった。一枚ずつ広げていくと、皺だらけの紙が机の上に重なっていく。どれもまんなかが黒く潰れていて、人に見せられるものではないけれど、まわりだけを見れば、悪くなかった。
グラスの水滴も、制服の襟の影も、ちゃんと描けている。僕はずっと、こういうものを描いてきた。まんなかを空けたまま、そのまわりだけを丁寧に。いちばん下から、破りかけのページが出てきた。
裂け目は、グラスを掴んでいる手の少し上で止まっている。短い爪と、人差し指の絆創膏。そこには、黒いところがひとつもない。その紙を、長いこと見ていた。皺を伸ばして、デッサン帳のいちばん後ろに挟む。残りは重ねて、引き出しに戻した。
下の階から、梓さんの声がした。朝ごはん、と呼ばれて、いま行く、と返す。カーテンを開けると、机の上に朝の光が落ちてきた。窓の外ではもう蝉が鳴きはじめている。




