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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第三章「陰影」
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12

 酒と煙草の匂いがする。湿った畳と、閉めきった部屋の澱んだ空気。天井の蛍光灯は切れかけていて、ちらつくたびに部屋の隅が暗くなる。畳の上に転がった潰れた缶のまわりには、濡れた輪がいくつも重なっていた。


 低い怒鳴り声がして、体が床へ転がった。両腕で頭をかばって、できるだけ小さく丸くなる。物の壊れる音が、いつまでも続いた。


 体が小さい。膝を抱えると、腕が余らずにぴったり収まる。息の音を聞かれたくなくて、僕は両手で口を押さえていた。息を止めたところで、ここにいることは向こうに聞こえている。あのころの僕は、それを知らなかった。


 重たい足音が畳を沈ませながら、近づいてくる。頭の上で舌打ちがした。涙でにじんだ先に、大きな影が立っている。逃げなければと思うのに、指一本動かない。荒れた大きな手が伸びてきて、首を掴まれた。


 指が喉に食いこんで、息が入ってこない。持ち上げられて、むりやり顔を上に向けさせられた。


 それは、僕の父だった。


 目も鼻も口も、はっきりそこにある。左の眉の上に、古い傷がある。前歯が一本欠けていて、笑うときに右の口の端が上がる。この顔なら、世界中の誰よりも正確に知っている。


 横から、細い影が飛びこんできた。高校の制服と、ほどけた髪。痩せた背中が、僕と父のあいだに割って入る。やめて、と叫ぶ声がした。


 その背中が、視界から消えて――


 耳のすぐそばで、ぱん、と音が弾けた。遅れて、頬がじんと熱くなる。息が喉に引っかかって、かすれた声が漏れた。


 吸いこんだ空気は、エアコンの効いた部屋の匂いがした。ぶれていた視界が、ようやく定まる。ベッドの縁に、右手を振り抜いた格好で怜奈が座っていた。下ろした手が、膝の上で小刻みに震えている。


「いって……普通、ビンタで起こす?」


 叩かれた頬に手を当てる。じんじんと熱い。


「どんだけ揺すっても起きなかったんだもん。さく、死んじゃうかと思った」


 最後のほうで、声が揺れた。


「……死ぬ前に、そっちのビンタで死ぬって」


 冗談のつもりで言ったのに、声がうまく出ない。心臓はまだ暴れていて、背中の汗でシーツが湿っていた。


「怖い夢でも見た? ほら、水」


 ペットボトルを差し出されて、怜奈の顔が近づいた。息に、まだ少し酒の匂いが残っている。体が強張って、怜奈の手が途中で止まった。怜奈は何も言わずに、ペットボトルだけを僕の手に押しつけて、元の場所へ下がった。


 キャップをひねる指に、力が入らない。なんとか口に含んで、飲みこんだ。冷たさが喉を下りていくあいだに、少しずつ、ここが自分の部屋だと分かってくる。


 息をついて、怜奈を見上げた。夢とは別の寒気が、背中を走る。


 怜奈の顔を覆う黒が、見たことがないくらい濃くなっていた。黒の上に、さらに黒を塗り重ねたみたいだ。


 ペットボトルを握る手に、力が入った。怜奈のほうは、汗だくの僕を見てあきれた声を出す。


「めっちゃ汗かいてんじゃん。シーツまで濡れてるし。シャワー浴びてきな」

「……うん。そうする」


 目をそらして、ベッドから立ち上がった。Tシャツが肌に張りついて重く、膝に力が入らない。脱衣所でTシャツを脱ぐと、二の腕の内側の、古い痕が目に入った。


 何年たっても消えないこの痕があるから、夏でも半袖は着ない。梓さんも怜奈も何も言わないし、小学生のころに一度だけ見てしまった奏多も、それきり何も聞いてこなかった。


 見なかったことにして、浴室に入る。


 レバーを水のほうへ倒しきって、頭から浴びた。刺すような冷たさに、全身が縮む。髪をかき回して、顔を洗っているうちに、指が額から眉へたどっていた。眼窩の縁から鼻筋を下りて、唇の合わせ目で止まる。自分の顔の形なら、指で分かる。分かるのに、それがどう見えるのかは一生知らない。


 手を止めた。水はまだ落ちている。目を閉じても、怜奈の顔を覆っていたあの黒が、まぶたの裏に残っていた。

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