降らなかった矢
帝国の砂州守備隊は王国側の丘に弓兵が集まったと報告した。クラウスは奇襲を防ぐため先制射撃を進言したが、レオンハルトは距離と風向きを確認させた。丘の兵は弓を構えておらず、荷車から木材を運んでいるという続報が届いた。
サビーネは現地へ伝令を出し、兵を岩陰へ退かせた。帝国側から先に矢を放てば、橋材を運ぶ王国兵まで戦闘へ引き込む。皇帝は彼女の判断を認めたが、相手の意図を善意と決めつけることも戒めた。木材は後で防柵になる可能性がある。
夕方、王国側は丘の斜面に短い柵を作った。砂州へ向かう弓の射線を遮る位置だった。帝国軍の中には撃たなかったことを悔やむ者が出た。レオンハルトは防御工事を見抜けなかったと責めず、見えた範囲と見えなかった範囲を報告させた。
サビーネは反対岸の動きを見ながら、自軍の舟を水際から引き上げた。柵が完成すれば位置を変える必要がある。皇帝は事前に舟を失わずに済んだことを評価し、兵へ無理な挑発を禁じた。戦いが始まれば互いに矢を放つだろう。しかしその日はまだ誰も弦を引かなかった。
王国側の柵が作られる間、帝国の若い弓兵は何度も弓に手を伸ばした。隣の古参兵は「命令のない矢は自分の持ち物ではない」と諭した。サビーネは二人の報告を読み、警戒を緩めたわけではないと皇帝へ伝えた。戦わなかった兵も一日中働いていた。目で測り、風を読み、合図を待ち続けた疲れは記録へ残された。
夜、斥候は王国の柵の寸法を測って帰った。皇帝は紙に描かれた高さを見て、丘からの視界がどれほど変わるかを考えた。撃たなかった矢は倉庫に残る。だが撃たなかったことで失った見通しも、確かに存在していた。




