若い書記の拒否
帝都の軍務院で、若い書記が上官の命令に署名することを拒んだ。峠で得た関所の補修費を、本来は民間道路の費用として計上するよう求められたからだ。上官は予算を通すための形式だと言ったが、書記は用途が違うと譲らなかった。
レオンハルトは報告を受け、書記と上官を別々に呼んだ。帳簿を調べると、補修した石門は軍用だけでなく牧畜民も使う道に面している。費用を民間と軍事で分けること自体は可能だった。しかし上官は全額を民間予算へ移していた。
「結果がよければ書き方など」とクラウスが漏らした。皇帝は「記録が嘘なら、次に何を直すべきか分からぬ」と答えた。上官には修正を命じ、書記は現職のまま保護した。告発した者を英雄と祭り上げれば、翌日から普通の仕事をしにくくなることも考えた。
書記の机には、母が持たせた小さな焼き菓子が置かれていた。上官の命令に逆らったあと食べる気がせず、固くなっていたという。皇帝はその話を聞いて、事情を尋ねる者はいても、見世物にする者が出ないよう配慮させた。正しい記録を残すには、書いた人間が明日も机へ戻れることが大切だった。 母親には書記が無事に勤めを続けているとだけ伝えられた。政治の争いに巻き込まれたのではと怯えていたが、息子は翌朝いつもと同じ道を通って出勤した。皇帝はその日常を壊さず制度を直したかった。
書記は退室の前に、母が帝都で小さな店を営んでいると話した。軍費の名を隠して民間予算を減らされれば、いつか店の前の道路も直せなくなる。その想像が、署名を止めさせたのだという。
皇帝は後日、軍務院の経理を扱う全員へ同じ説明を送った。一人の勇気に頼って帳簿を守る仕組みは弱い。別の上官に命じられても拒める規則を整える必要があった。




