帰らなかった狼
王国の山沿いで、夜ごと狼の遠吠えが聞こえるようになった。避難民は家畜を奪われると心配したが、セイルは足跡を見て、群れがいつも同じ沢を避けていることに気づいた。狼が歩かない場所には、人間に分からない危険があるのかもしれなかった。
猟師は帝国軍が罠を仕掛けたと考えた。しかし沢へ向かうと、地面がゆるく沈み、湧き水が泥を浮かせている。罠ではなく、春にできた湿地だった。狼の群れはそこを避け、別の尾根へ移ったのだろう。
セイルは家畜の囲いを移すよう村へ伝えた。ところが村長は新しい囲いを作る木材がないと困った。軍は砦の補修で材を使い切っている。セイルは古い納屋の柱を見て、使えるものと腐ったものを分けることを提案した。木工職人が点検し、短い柵なら作れると分かった。
猟師は湿地の端で、ひときわ大きい狼の足跡を見つけた。群れを率いる個体だろうという。セイルは追跡を勧めなかった。家畜を襲っていない狼を追えば、かえって村に近づくかもしれない。灰環島の獣たちも、放っておけば人を避けるものがいた。彼は島での冬を思い出し、猟師へその話を少しだけした。 柵を作った村人たちは、湿地から離れた場所に小さな水桶を置いた。家畜が水を求めて危険な沢へ戻らないためである。狼の話から始まった仕事は、ようやく牛の水飲み場を決めて終わった。
夜、遠吠えが一度だけ聞こえた。セイルは灰環島にいた頃、知らない生き物の声を頼りに水場を避けたことを思い出した。恐怖はすべて敵意とは限らない。狼も人間も、危険から離れる道を探している。
翌朝、家畜小屋には被害がなかった。猟師は湿地の位置を地図へ記し、狼の通る尾根を別に描いた。帝国の兵が近づくかもしれない山でも、獣たちは自分たちの理由で歩いていた。




