逃げた牛の向こう
帝国の砂州から矢が飛んだ午後、王国の避難地で牛が囲いを破った。驚いた家畜が軍路へ飛び出し、荷車を止めてしまう。セイルは伝令とともに現場へ着いた。牛の鼻息が荒く、兵が綱を投げるたび余計に暴れていた。
川から遠ざけるなら左へ追えばよい。しかし左側は急な坂で、牛が転べば脚を折る。セイルは低い声で御者へ声を掛け、荷車を道の端へ寄せてもらった。牛が向かう先に広い草地ができると、追われなくなった家畜は少しずつ歩調を落とした。
飼い主の少年は泣きながら駆け寄った。父親が軍に出ており、家の牛を自分が預かっていたという。兵は家畜一頭で補給路を塞いだと怒ったが、セイルは少年へ、囲いがどこで壊れたか尋ねた。矢の音に驚いた牛が板を蹴ったと分かり、修理する場所が見つかった。
家畜の囲いを直すのを見ていた老兵は、牛が落ち着くと兵も静かになると笑った。セイルは言われて周囲を見た。怒号が止み、荷車の御者が手綱をゆるめている。軍路の混乱は敵の攻撃だけで起こるわけではなく、生活の音と重なり合う。静かになった道には、ようやく予定していた車が通り始めた。 少年は夕暮れに飼葉を運ぶと、牛が静かに鼻を鳴らした。板を直した人々へ礼を言う前に、角の布を結び直した。
軍用馬を率いた騎兵隊が通る予定だったため、セイルはその通過を少し遅らせた。指揮権はないが、道が塞がっている事実を伝えることはできる。騎兵隊長は苛立ったが、牛を見て事情を理解し、迂回を選んだ。
夜、少年は牛の角に柔らかい布を結んで寝た。セイルは囲いの板をもう一度確かめ、川向こうの矢の音がここまで届く距離になったことを思った。前線が少し動いただけで、家畜の眠る場所まで変わる。




