船腹の泥
レオンハルトが受け取った戦報には、下流へ向かった帝国の舟が予定どおり戻ったとあった。ただし舟底には想定より濃い泥が付き、漕ぎ手の腕が腫れていた。工兵長は浅瀬を通るたび川底へ船腹が擦れ、舟の速度が大きく落ちたと報告した。
「王国軍に見られたか」と皇帝が尋ねると、「間違いなく」と答えが返った。隠すことを目的とした行動ではない。敵に複数の渡河点を警戒させるための示威だった。しかし示威のための舟が壊れては本末転倒である。
クラウスは舟の数を増やすよう求めたが、皇帝はそれを退けた。王国が兵を分散したかどうかは、まだ確認できない。舟を追加すれば工兵と木材がさらに要る。示威が敵を動かすまで待つのも一手だが、待ちすぎれば王国側の観測が進む。
舟の漕ぎ手の一人は、帰還してから手の皮がむけ、綱を握れなくなった。皇帝は医務官へ治療を任せ、舟の配置を調整した。疲れた者を同じ仕事へ戻しても、川の調査が進むとは限らない。漕ぎ手が回復するまで、経験のある者が若い兵に川の流れを教える時間を作らせた。 修理用の板にはそれぞれ削った日付が記され、舟ごとの損耗を比べられるようになった。別の川では必要な補修も違うはずだった。
レオンハルトは別の方法を選んだ。峠へ向かう輸送隊に新しい旗を持たせ、川とは無関係の軍の動きを目立たせた。旗に偽の命令を書くのではない。本当に峠の修理へ向かう部隊が、敵に見える位置を通るだけだ。
作戦を聞いたリディアは、敵の目を欺くために村の道を封鎖しないでほしいと念を押した。皇帝は承知し、商人の通行を妨げぬ時間に軍を移した。兵に見せるための旗が、暮らす人々の往来を奪うなら、帝国は自分の足を切っている。




