一枚の退却許可
帝国の前線指揮官サビーネから、雨天時の独自撤退権限を求める上申が届いた。所属する歩兵隊は浅い支流のそばに陣を張り、上流で雨が降れば伝令より先に水が来る。クラウスは規律を損なうと反対したが、レオンハルトは現地の水位記録を取り寄せた。
サビーネは部隊を動かすたびに皇帝の許可を待ちたいわけではなかった。どの水位で撤退するか、事前に境界を決めておく許可が欲しいのだ。レオンハルトは水位標の数字を読む。過去三度の増水では、同じ水位でも濁流の到着に差があった。
「数値だけでは足りぬ」と皇帝が言うと、リディアは「では現場が迷います」と応じた。皇帝は数値に加え、上流の監視隊が出す旗の色を条件へ加えさせた。どちらかが危険を示せば撤退できる。事後に理由を報告する義務は残す。
サビーネは退いた夜、兵を一列に並べて靴の中を確かめさせた。水で濡れた足をそのまま眠らせれば、朝の行軍に差し支える。報告書には兵を退かせた理由だけでなく、後から行った手当ても記された。レオンハルトはその細部に目を留めた。権限を与えた指揮官が、退く命令の先まで考えていた証拠だった。
許可が届いた晩、サビーネは軍を一度だけ後退させた。豪雨でも敵の攻撃でもない。上流の小さな堰が崩れ、泥水が押し寄せたのだ。兵は乾いた高台へ移り、武器と食料も持ち出せた。帝都への報告には、失ったものとして夜営用の鍋三つだけが記された。
クラウスはその結果を聞き、現場へ権限を渡しすぎる懸念が消えたわけではないと言った。レオンハルトも同意した。ただ、命令が届くまで動くなと言うことは、水に沈むまで待てと言うのと同じ日がある。




