4.試合をした。
虎口の屋敷では侍女、侍従、女中と忙しく働いていた。もちろんそれはこれから始まる宴会の為だ。
庭に面してひらけた部屋を宴会場に仕立て、そこで虎口は庭を見ながら腕を組んで頷いていた。
「これで正炎を叩きのめし、智姫が俺を少しでも格好が良いと思えば俺の勝ちだ。今週中に祝言を上げて晴れて俺達は夫婦になれると言うわけだ。そうだ、これこれ、これを先に食べさせておかなければな。」
和紙に包まれた角砂糖に似たあの薬を見つめて虎口は口元をニヤニヤとさせながら興奮していた。
「虎口様、智姫様がお着きになりました。いかがなさりますか?」
「おお、早く入れろ入れろ。」
ニヤニヤとして角砂糖に似たあの薬を袖に入れた。
ドスドスと足音がして人が入ってくる。
「虎口殿、久しぶりですね。元気でしたか?」
「き、貴様許音。」
虎口が思いきり嫌な顔をする。しかしその後から入ってきた智姫を見るとすぐに鼻の下を伸ばした。
“相変わらずわかりやすい男だ…。”
許音はそう考えながらそれは顔に出さずに言う。
「智姫が一人では寂しいというので私が駆り出されたのです。虎口殿は私と一緒ではお嫌ですかな?」
許音がにやけながら言った。案外性格の悪い男である。
「いやいや、とんでもない。丁度良かったよ。お前の側近の正炎を勝手に呼び出したから、お前にも来てもらおうかと思っていたんだ。歓迎するぜ。」
“嘘も見え見えと言う所がなんとも哀れな奴だな”
許音が表情に出さずにそう思った。
虎口は予定に無い来客に慌てて、「ちょっと失礼」と断って席を外した。それを見送って許音と智姫は庭に面した場所に腰を下ろし、その立派な庭を眺めた。
「虎口には似合わない立派な庭だな。」
「何でも高名な庭師を手に入れたと前におっしゃっておりましたよ。私の為に大金をはたいて来させたと。でも、そういう所が嫌いなのよね。押し付けがましくて。」
許音は苦笑いをした。
「同情してしまうよ、虎口にな。奴は奴なりに一生懸命なのだろうに。」
「そうですか?私には父親の権力と金を使い女の気を引こうとするあの方に同情の余地は無いと思いますが。」
「同情するのは奴の一生懸命な所だけだよ。後は俺も気に入らん。特にわがままな所がな。まあいいさ。後は正炎がどうやって奴を倒すかという事だな。」
「あら、兄上は正炎様が勝つとお思いですか?あの野獣に。」
「思っているよ。あいつの強さは凄いよ。もっともあいつは自分を過小評価するのでな、それが奴の良い所では有るが、たまに苛つく。ま、自分の実力をここで示せばあやつも自分に少しは自信を持つだろうよ。」
智姫はその言葉をいまいち信用できなかったが、それでもいい試合をするだろう事はなんとなく予想できて楽しそうに笑った。
虎口は許音の存在に困った。どうやって角砂糖に似たこの薬を智姫に飲まそうか。それを考えている。突然渡してもどうかと思うし…。屋敷の厨まで考えながら歩いて来てしまった。
厨では料理人達が突然虎口が現れたので慌てている。また無理難題を押し付けていくのではとの警戒の為だ。しかし、虎口は厨の端の柱まで来るとそこに背を預け腕を組み下を向いて考え込んでしまった。
厨では皆が虎口が何を言うのか手を止めて待っていた。すると、突然何かを閃いたようにパッと顔を上げた。ビクッと皆がする。
「そうだ!!そうしよう。」
ビクビクとしている料理人を無視して虎口が厨から飛び出して行った。
部屋に料理が並びはじめ、暇そうに庭を眺める許音と智姫の所にニコニコと笑いながら虎口が帰ってきた。手に何やら小さな篭と酒瓶を持っている。篭の中は角砂糖の山である。
「おふた方にこんな物を持って来たぞ。酒は許音に、角砂糖は智姫殿にだ。料理が準備できるまでこれを摘みにしてくれ。」
虎口が二人の前に篭を置く。そこには赤と白の角砂糖が並んでいた。
「ちなみにこの角砂糖は白が男糖で赤が女糖と言って、それぞれに別れているのだ。間違えて食べぬようにな。」
もうお分かりと思うが、赤い角砂糖の一番上にあの薬が置いてある。薬も角砂糖も元々白い物だったのに赤い食粉をまぶしたのである。万が一に許音が摘む時の警戒で白と赤を作ったのだ。
智姫はヒョイと角砂糖を摘むと口にほうり込む。しかし、それは本物の角砂糖であり、虎口は心の中で舌を打った。
「所で客は俺と妹だけなのですかね。」
許音が酒を盃に注ぎながら言った。虎口は神経を角砂糖に向けていたので突然の質問にビクッとする。
「そ、そうだ。後、余興の正炎のみだな。ま、うちの侍女達がお相手をするので盛り下がる事は無いぞ。」
許音は怪訝な顔をした。
“なるほど、恐らくこいつは正炎を打ちのめした後、自分の力を誇示し智姫を無理矢理襲おうとしていたな。既成事実を作ってしまえば結婚も断れまいと…。付いて来て良かった”
許音はそう思い盃の酒を飲み干して虎口を睨んだ。もっとも虎口は好きな女を無理矢理襲おう何て事は考えていなかったし、ま、薬を使おうとする所の卑劣さは似たようなものではあるが。
「何だ許音。俺の顔になんか付いているか?」
虎口は自分の顔を撫でた。その間も次から次へと酒を飲み続ける許音に少し苦い顔をする。
「俺も試合が終り次第付合うから残して置けよ。その酒は良い酒なのだから。」
白い角砂糖を口に入れながらそう言った。その間にも智姫がもう一つ角砂糖を摘む。虎口が期待に表情が変わる。智姫が摘んだのはあの薬だ。智姫はそれを口に入れようとした。その時、侍女が虎口に声をかけた。
「正炎様がお付きです。いかがなさりますか?」
「正炎様がいらした?」
智姫はそう言って摘まんでいたそれを口の前からはずした。
「あああああ。」
虎口が悲壮な声を出す。そして侍女を睨む。
「どうしました?虎口殿。」
「いや、何でもないぞ許音。あ、ああ正炎は庭に回ってもらってくれ。料理が出来たら余興を始めて、早速試合を行なうか。」
平静を保ちながら虎口が言った。その時、手に持っていたあの薬を智姫は口に入れた。
“よっしゃー!!!”
虎口は声が出そうな位の喜びを必死に押さえて平静を保つ。
「はははははは、さあ俺もそろそろ準備をしようかな。」
虎口は薬を意識して声まで畏まった声色になった。そして部屋に飾ってあった大きな槍を手にしてブンブンと振り回し、足袋のまま庭に飛び出す。
“少しだけでいいんだ。ただ少しだけ俺の事を格好良いと思ってくれれば…。”
そう考えただけで彼の思考は浮かれていた。彼は智姫の目の前で槍を振り回し格好をつける。
「変なの。」
智姫はそんな彼を見て凄く変に見えたらしい。思わず聞こえるように呟いてしまった。虎口はその呟きに一瞬落ち込むがこれではいけないと反省し、とりあえず落ち着こうと考えた。そこに正炎が庭に現れた。
彼は余興とはいえ、勝負なので顔が険しく緊張している。そしてすでに庭で構える虎口を見て益々険しくなった。がそこに面した部屋でそれを見る許音と智姫を見て、思わず表情が緩んだ。
「許音様!来てらしたんですか。するとこの試合は本当に宴会の余興と言う事で…。」
「おお正炎、応援しているぞ。負けても良いが本気でやれよ。」
「正炎様、私もいますよ。ちゃんと見ていますからね。」
智姫が正炎に手を振る。
「智姫様、昨日の今日でございますが、負けてもあまり私めを苛めないで下さいね。」
智姫がクスクスと笑った。
その様子に虎口がプルプルと震えだした。表情は怒りに満ち真っ赤になっている。
“こいつはどういう事だ。この平民出の屑が智姫殿と面識があるのか。いや、許音の側近などをやっているのだそれはいい。しかし、何故あんなに親しそうにっ!”
虎口の怒りが頂点に達した。虎口はいきなり正炎に襲い掛かる。
「ウワッ!」
正炎が身を沈めた。虎口の矛先は正炎の頭をかすめて、そのまま円を描く様にまた正炎を襲う。
「まだ試合の始めを聞いていませんよ!」
正炎は更に避けながら叫んだ。しかし、その叫び声も空しく虎口の攻撃は止む事は無い。更に更に攻撃を仕掛けていく。
「落ち着いて下さい虎口様!!」
正炎が叫ぶ。
「卑怯よ!!」
智姫が立ち上がり叫んだ。が、我を忘れてしまっている虎口には全く聞こえない。
「ククク、良い余興だの。正炎がんばれ。」
許音がすでに酔っ払い、横になって楽しそうに言った。そこに虎口の女中達がバタバタと走って来た。
「あ、もう始まっている。」
「虎口様がんばって!!」
口々に応援しはじめる。どうやら虎口の応援隊の様だ。中々女中達には人気があるようだ。
「あんた達!まだ試合は始まっていないのよ。あの卑怯者が勝手に攻撃しているだけなの。何とかしなさい!」
智姫が女中に怒鳴った。とても高貴な者とは見えない姿だ。
「え、そうなんですか?でもあの状態の虎口様をどうやって…。私達、応援をする賃金は戴いていますけど、止めるなんてお金貰っても出来ませんよ。」
女中達が顔を見合わせて頷いている。しかし、金で応援をさせるというのは虎口は何とも情けない。
「いっそう、このまま試合と言う事にしてしまえばよろしのでは?」
一人が言うと他の女中達がまた頷いた。
「兄上、何とかして下さい。このままでは正炎様があの卑怯者の手にかかって殺されてしまいます。」
智姫の言葉に許音は酔っ払いながら頷いた。
「正炎!試合始めだ!思いきりやってよいぞ!」
許音は酔っ払って試合の始めの号令をしてしまった。
「兄上!なんて事を!!正炎様が、正炎様が、殺されてしまう!!」
智姫が両手を顔に持って行き、困り果てた。しかし、その号令を受けた正炎は頷くと、虎口の連続攻撃をかわしてから、小さな隙を見つけ一瞬で槍の矛先に付いている革の鞘を外した。そこに虎口の矛先がまた襲う。皆が息を呑んだその瞬間、正炎は虎口の矛先を紙一重で避け、虎口の槍の柄の部分を自分の槍で突き刺した。そしてそれを自分の槍ごと後ろに放り飛ばすと、拳を握り彼の鼻っ面に打ち込んだ。
「ウガッ!!」
虎口はその衝撃で後ろに飛ばされてた。そして痛みにのた打ち回る。
見ていた者達が皆その神技に魅了されて身動きをせずに見とれている。その中の女中の一人が呟いた。
「素敵…。」
その声で皆が我にかえる。
「凄い!!正炎様凄い!!」
女中達が虎口の事を忘れて歓声を上げた。それを当たり前の様に見る酔っ払っている許音。そして、目を大きく開けたまま未だ放心状態の智姫がいた。
「虎口様!!大丈夫ですか?」
正炎が駆け寄る。とんでもない事をしてしまったという表情だ。
「だ、大丈夫ですか?虎口様。」
虎口が鼻を押さえて正炎を睨み、正炎の手を跳ね除ける。鼻にやった手の間から血がダラダラと流れていた。
「女中の方!!早く治療を。早く早く!!」
その時女中が気付いたように慌てて動き出した。
智姫が呆けたままペタンと座り込んだ。頬が赤く染まっている。
「どうした智姫?」
許音が寝転んだまま盃の酒を飲み干し、呆けている智姫に聞く。
「…凄い…。」
小さく呟く。何を言っているか許音が聞こうとすると、智姫が急に許音の方に向いて大きな声で言い出した。
「凄く強いじゃないですか兄上!!」
「だからそう言ったろう?」
「だってあれほどとは。それに、あんなに、あんなに……。」
「あんなに何だ?」
智姫の最後の言葉が聞こえず聞き直す。
「あんなに凄く素敵だとは…。」
智姫が真っ赤になって声がさえずる程までに小さくなった。その言葉に許音がガタッと起き上がった。
「おい、もう一度言ってくれ。良く聞こえなかったぞ。」
智姫は真っ赤になったまま黙ってしまった。
「クアーッ、そうか、あいつが素敵と。うんうん、やっと俺の考え通りに行きそうだ!!」
許音は興奮して酒瓶に直接口をつけて一気飲みをしはじめた。そして半分ほど飲むと袖で口を拭き大声で命令する。
「宴会だ!宴会の用意をしろ!!」
まるで自分の屋敷にいる様な気分で命令をした。しかし、虎口の治療をしている者を除いた女中や侍従達が一斉に返事をした。
「はーい。ただいま!」
わらわらと人が動きだし、部屋の床の真ん中に全ての料理が並べられていく。
「うん!!めでたい!!」
許音が叫んで、また酒瓶に口をつけ酒を飲んだ。
宴会は夜になっても続けられていて、許音はベロンベロンになるまで酔っ払っていた。正炎はチビチビと酒の器に口をつける程度で、何やら緊張をしているようだ。
「正炎様、もっとどうぞ。」
正炎の緊張の原因が酒を注ぐ。智姫である。彼女は正炎の隣に彼の方を向いて座り、料理や他の人の方を見る事無く、終始正炎の方を伺っていた。
「あの、智姫様…何故こちらを向いているのですか?正面を向きましょうよ。」
正炎が困りながら恐る恐る言った。緊張で料理や酒どころでは無い。
「あら、私がご不満ですか?こんなに尽くしたいと思っていますのに。」
「いえ、そういう訳では…。でも、ほら、皆が見てますし…。」
「まっ、それでは皆がいない場所ではよろしいのですね?」
「そ、そういう事では…。な、何か変ですよ?」
智姫は慌てる正炎を見てクスクスと笑う。実はすでに酒がかなり入っているのだ。初めて殿方を素敵と思った智姫は緊張をほぐす為に許音の飲んでいた酒を横取りし、すでに少量しか入っていなかったが、それを一気に飲み干したのだ。
それを知っている許音はニヤニヤしながら二人を見ていた。
「正炎!俺は負けたわけじゃないぞ!!」
二人の正面で両脇に侍女を置き酒を継がせながら不機嫌な虎口が怒鳴る。彼はこんな状態になった二人を見て怒りが絶頂なのだが、今はまだ大人しくしている。ここで暴れたらまた自分の株が下がるからだ。
「分かってますよ。虎口様が本気だったら今ごろは瀕死の状態で家で寝てますよ。」
これが謙遜でなく本気で言っているのだから始末が悪い。そう許音は思ったが口にはしなかった。もちろん虎口が怒ってしまうからだ。
「ふん。いつかもう一度やるぞ。俺が強いと言う事を思い知らせてやる。」
「勘弁して下さいよ。私は気が弱いのですから。」
実際気は弱いかも知れない。智姫に迫られてこれ程緊張するとは…。許音が酒を飲み干した。
「正炎様、他の方は見ずに私だけみていて下さいな。次は何を食べますか?」
智姫が正炎に料理を取ろうと箸を持った。
「いや、別に食べいたい物は無いです。」
「私がよそう物が食べられないんですか?正炎様は酷いお方です。」
智姫が袖で目を覆った。泣き出したのか。
「いや、そんな事は無いです。あの魚の刺し身を…。」
「はい。」
智姫がにこやかに返事をする。泣く真似だったようだ。そしていそいそと皿に刺し身を盛る。そのイチャつきを見て益々虎口が苛つく。それで正炎は小さな声で許音に助けを求めた。
「許音様、助けて下さいよ。」
「知らぬ。俺はこの侍女達が可愛いからね。お前は好きなようにしなさい。」
許音がやはり両脇で酒を注ぐ侍女達にちょっかいを出していて正炎を無視した。
「正炎様、兄上は関係ないのですよ。私達は私達。あら、私達だって私ったらもうやーね。」
一体何を照れているのか、酔っ払いの考える事は分らない。困り果てる正炎を睨んで怒りの頂点に達しようとしている虎口は思った。
“これは、あの薬のせいだ。俺に惚れさせようとして奴に惚れてしまったに違いない。ちくしょう、本当は智姫の隣に座っていたのはこの俺のはずだったのに…。いっそう薬の事をばらしてしまうか…いや、それでは益々俺の株が下がってしまう。とりあえずあの薬の効果を解く薬を神官長に貰ってこよう。正炎、それまでだ。それまでは智姫をお前に預けよう”
その時、智姫がよろけて正炎の胸に倒れた。わざとらしかったが、それが余計に腹が立ち、虎口は思わず持っていた盃を握り潰した。
「あらあら、大丈夫ですか?虎口様。」
そう言って侍女達がこぼれた酒や盃の破片を片し始める。虎口の手には傷が付いてはいなかったが侍女達が心配そうに手を撫でた。が、彼は怒りの為そのままブルブルと震えていた。
いちゃつきと怒りとただの酔っ払いの宴会は夜中近くまで続けられて、その後酔っ払って眠ってしまった許音と智姫を彼らの牛車で送り、朝方近くにやっと自分の家に着いた正炎は疲れきってそのまま昼過ぎまで眠ってしまった。なんとも貧乏籤を引いた正炎であった。
虎口は自分の蒔いた種で有るのにその責任を神官長に文句を言いに行った。
神の家ではいつもの如く神官達が調べ物をしていて、その最奥ではやはり幹部達が王族の事を調べていた。
その最奥に虎口は怒涛の如く責めていく。若い神官達が止めるのも聞かず、その神官達を数人引きずってその扉を叩き開けた。
「神官長は何処だ。何処にいる!」
「困ります、困りますってば虎口様。」
神官達の叫びが響く。そこにいた幹部達はそれにも全く動じず、というか無関心の様で、本から目を離さず指を動かしある場所を指した。そこは最奥の更に奥、禁断の扉と神官達が呼んでいる場所である。神官長以外は全く入る事を許され無い場所。誰も知ってはならぬ物。
虎口は指差された場所にドカドカと歩いて行ってその扉を前にした。引きずられていた若い神官はその扉に対しての恐怖ですでに逃げてしまっている。
虎口はおもむろにその扉を開いた。そこにあったのは地下に続く光の無い階段で、冷たい風がピューと彼の顔に流れた。
彼は躊躇いも無くその階段を降りて行った。彼に怖い物は無いのだ。
かなり下りたか、入り口の光さへも見る事が出来ない。そんな真っ暗闇の中を彼はただ階段を下りていく。自分が降りている階段さへも全く見えず、この空間が本当にあるのかどうかさへ分からなくなっていく不思議な感覚。しかし、虎口はあまり考えずにそこを下り続けていった。
数十分か下りた所で遥か遠くの下に光が見えてきた。
「やっと出口か。」
虎口は呟いて足を速めた。しかし、その出口であろう光は自分が下りる速さより早くこちらに近付いて来た。そしてその明かりは虎口の前に立った。
「おや、虎口殿、こんな所に何故おられるのですかな?」
神官長であった。彼の持っている松明の光を出口の光と思っていたのだ。
「神官長、この階段は何だ?この先には何がある?」
「さあ、私も好奇心で入ってみましたが、いっこうに出口に着きませんで、諦めて引き返したと言うわけです。一体何が有るのやら。」
神官長は後ろに続く階段を照らしながらそう言った。
「まあどちらにしてもあまり長くは居たく無い場所では有りますな。さあ戻りましょう。」
虎口は納得の行かない顔をしたがそれは素直に従った。彼の目的は探検では無く、あくまで神官長に会う事だからだ。
長い長い階段を今度は上りながら虎口は状況を説明し、智姫が正炎に心を寄せてしまった事を伝えた。
「どうしてくれる。あの薬のせいで智姫は正炎に、あの下賎出の者に心を寄せてしまったのだぞ。早く解毒薬をよこせ!全く人騒がせな物を俺に渡しおって。」
全く自分勝手な言い分である。あれだけ注意したにも関わらず失敗してその責任を神官長に押し付けてくるのだから。しかし、神官長は全く表情を変えずに言った。
「そうですか、それは災難で。しかし、あの薬に解毒薬は有りませぬぞ。」
「な、何だと!!貴様、そんな物を俺に渡したのか!それでは智姫はあの下賎でのものに!」
虎口は感情をむき出しにして神官長の胸座を掴んだ。
「落ち着いて下さい。大丈夫ですって。」
神官長がなだめる。それでとりあえず掴んだ胸座は放した。
「まず、智姫殿は下賎の者に嫁ぐ事は有りません。」
「そ、そうか。うむ、安心した。」
虎口の表情が和らいだ。
「何故なら正炎殿は下賎出の者ではないからですな。つまり彼と結ばれても智姫様は下賎出の者との結婚では無いと言う事ですな。」
神官長は何やら情報を手に入れている様だった。しかし、虎口にそんな情報は関係無く、また表情が険しくなる。そして再び神官長の胸座をつかんだ。
「貴様!!何を訳の分からぬ事を言っている。俺は正炎が下賎の出の者であろうとなかろうと、智姫が奴の手に渡るのが許せないのだ。分かるか?!」
虎口の手に益々力が入る。それに合わせて神官長の顔が赤くなり表情が苦しそうになっていった。
「苦しい…落ち着きなさい。まだ続きが有るのだから。」
虎口が手を放す。すると神官長は何度かゴホゴホと咳をして深呼吸をした。
“全く、この方は頭が悪いのだから…。正炎のこの情報がどれだけ重要か分かっていない。この情報は覇口の王継承の是非がかかっているかも知れないほどの情報なのに。ま、それはそれでやりやすいか。”
神官長はニヤリと笑って言う。
「智姫様のお心でしたな。それなら簡単です。正炎殿をお殺しなさい。それで彼女の薬の効き目が無くなりましょう。」
「何?正炎を殺せと…。」
「そうです。あの薬はその対象が死ぬまで続きます。正炎殿が死ねば効き目が無くなり智姫殿はきっと今度こそはあなたを好きになるでしょう。」
虎口が鼻の下を伸ばす。本当に扱いやすい男である。
「そうか、正炎が死ねば智姫がやっと俺の物に…。しかし、奴は許音の側近、奴を殺すとなると色々と面倒な事に…。」
「この間ぼろ負けした再戦と言う事にすれば良いでしょう?」
虎口の表情が驚きに包まれる。
「何故それを知っている。あ、あれは俺が油断しただけだ!!」
「分かってますよ。だから今度は事故に見せ掛けて殺してしまいなさい。そうすれば全てあなたの物になるのだから。」
虎口はまた鼻の下を伸ばして頷いた。
「それから、父君に近々土産を持って参上するとお伝え下さい。」
神官長がそう言った時、遥か彼方に入口の明かりがポツンと見えて来た。二人はその後何も言わず各々の気持ちを胸に秘めただ明かりを目指して歩いていった。




