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3.偉い人の屋敷へ訪問

 ピンと張り詰めた朝の空気。もう春が過ぎようとしているのにさすがに朝はまだ寒い。正炎は白い息を吐く馬を撫でながら家の中に怒鳴る。

「桜恋、まだか!」

「はい!兄様、今行きます!」

 家の中から声がすると御姫様の様に着飾った桜恋と、自慢気な母、香奈枝が出てきた。

「どうだい正炎、可愛いだろう。この着物は私の若い頃に着ていた物を桜恋の丈に合わしたんだ。いいだろう?桜恋は私の若い頃に似ているよ。」

 桜恋の着物は白と薄い桃色を基本にした布地に紅い華の柄をあしらっていて、見た目は少し派手であるがその中にも上品さを保っている。髪の毛は結って髪飾りを付け全体的に可愛らしくまとまっていた。

 正炎は腕を組んで嬉しそうにその桜恋の姿を鑑賞した。

「母さん子供の頃がどうだったかは、まあ置いといて。桜恋、本当によく似合っているよ。いやいや、これなら俺も鼻が高いな。」

  桜恋は少し照れて顔を赤らめた。

「さあさあ、早く行っておいで。都の端と端ではかなり時間がかかるのでしょう?」

「そうだった。さあ桜恋。」

  正炎は桜恋を馬上に乗せて自分も跨った。桜恋は横向きに座らされて少しの揺れでフラフラと落ちそうになる。

「兄様、私も跨らないと落ちそうです。」

「その着物では跨る事は出来まい。大丈夫。俺がしっかり抱きかかえて行くから。」

  二人は香奈枝に手を振って、ゆっくりと許音の屋敷へと向かった。

 

  馬をゆっくりと歩かせ、少し遠回りをして街外れの茶屋で軽く食事をすると目的地に急いだ。走らせれば一時間半程でつく許音の屋敷までゆっくり半日ほどかけてやってきたのだ。 

 許音の屋敷に着くと正炎は早速桜恋の手を引いて中へと入っていく。途中に許音の女中や侍女、それに許音の親衛の者達がいたが、彼を許音の側近と知っているので別段何も言わない。許音の部屋はこの屋敷の最奥にあるのでその前にその準備を整えるべく、先に許音の所に行こうと正炎は思った。それで奇麗に整えられた中庭の見える広縁に桜恋を座らせた。

「桜恋。少しの間ここに居てくれ。許音様に私たちが来た事を知らせてくるから。大丈夫かい?」

  桜恋はチョコンと座って正炎の方へ笑顔を送る。

「大丈夫ですよ兄様。ここはいい匂いといい風がありますから落ち着けます。兄様は心配せずに許音様の所にいらして下さい。」

「そうか。それでは少し待っていてな。」

 正炎は桜恋の頭を撫でると許音の部屋へと歩いていった。

  正炎が許音の部屋に入るとそこは無人であった。厠にでも行ったのか読みかけの書物が開きっぱなしである。

「あれ?おかしいな。いつもはいるのだが…。」

 正炎はいったん部屋を出て他を捜す事にした。すでに自分の家の様に隅々まで知っているこの屋敷だ。彼は許音が行きそうな所を重点的に捜す。

  色々な部屋をまわって、ハッと思った所に正炎は走った。案の定そこに許音はいた。この屋敷の離れにある蔵物倉だった。許音はそこで文献を調べていたのだ。恐らく自分の部屋にあった書物を読んでいて調べたい事が有ったのだろう。

「許音様、ここにおいででしたか。」

 正炎に声をかけられて始めて正炎の存在に気付く。

「アッ、正炎。どうしたんだ?」

「どうした、じゃないですよ。お忘れですか?」

「いや忘れてはいないが…、もうそんな時間か。」

  正炎の呆れ顔を見ながら許音は苦笑して、読んでいた書物を棚にしまった。

「もう待っているのか?お前の妹は。…桜恋だっけ?」

「はい。中庭の所で待たせております。さあまいりましょう。」

 二人は並んで屋敷の方へ戻っていった。許音は自分の部屋に入るとおもむろに座る。それを見て正炎が桜恋を連れてくる旨を伝えその部屋から出た。

 正炎は部屋から出て中庭に続く廊下に出た。左側が中庭に続く廊下だ。そちらに行こうとしてフッと右を見ると、桜恋の顔が目に入った。桜恋が少し離れた部屋から出てきてそのまま向こう歩いていくではないか。

「あれ、桜恋の奴、飽きて屋敷内の探査に出たか?目も見えぬのに全く仕方の無い奴だ。」

 正炎は小走りでそれを追いかけた。そして、おもむろに手を取り言った。

「何をしておるか。許音様がもう待っておるのだぞ。」

「キャーッ!!何をする無礼者!」

 バチッと平手が正炎の頬に飛ぶ。正炎は何が起こったか分からず、叩かれた頬を押さえた。桜恋の顔が怒っている。しかし、その目はしっかりと自分を睨んでいた。

「あ、あれ?」

 正炎が痛みさえも忘れる程に呆けていると、桜恋は怒った表情のまま、歩いていってしまった。

「あ…桜恋?」

 正炎は夢でも見ているような呆けた表情でその方向をただ見つめていた。すると、後ろから声がした。

「兄様何処ですか?兄様。」

 後ろを向くと、ヨロヨロと壁伝いで歩いてくる桜恋の姿が有った。正炎は何か化かされた感じでボーとその姿を見詰めた。

  やがて、匂いで正炎の姿を見つけた桜恋が正炎の胸の前に立つ。そして、顔を上に向け正炎に言う。

「兄様、今の声は何だったんですか?何か有ったのですか?」

 正炎は心配そうにしている桜恋の顔を見て初めて我に返った。

「…あれ、桜恋。今ここに居なかった?」

「何をおっしゃっておられるのですか?兄様。」

「いや、いや…。何だったのかな。」

 正炎は何が起こったか分からず頭が混乱して何度も首を傾けた。

「兄様?大丈夫ですか?」

 桜恋が更に心配そうな顔になる。

「だ、大丈夫だよ。そうだ、許音様が待っているから早く行こうか。」

 正炎は恐る恐る桜恋の手を握る。それを逆に桜恋がぎゅっと握り返して言った。

「私の手がどうかしましたか?」

「いや、何でもない。」

 正炎は反対側の手で叩かれた自分の頬を撫でながら言った。


  正炎と桜恋は許音の部屋の横の客間に入り用意が出来ると正炎が許音を呼んだ。許音はその声で部屋に入ってくる。

「おお、そなたが正炎自慢の妹御か。」

 桜恋は頭を床につける位ひれ伏していて、顔はまだ許音には見えていない。許音は久しぶりにワクワクしている自分を押さえていた。すぐに二人の前に座り、軽く深呼吸をすると落ち着いた声で言う。

「顔を上げなさい。それでは正炎自慢の可愛らしい妹御の顔が見えないでは無いか。」

 許音の言葉で桜恋は顔を上げた。その途端にこやかにしていた許音の顔が険しくなった。

「何だ正炎。お主俺をからかっておるのか?」

  急に怒り出した許音に正炎が慌てる。

「いえ、そんなつもりは。」

  何が気に召さなかったのか分からず正炎が困った顔をした。しかし、それより桜恋の方がおろおろとした。

「すみません、すみません。兄様は何も悪くないのです。お許し下さい。」

 その言葉に許音が目を凝らす。

「いや、違うのか。声も多少違うし、そう言えばまだ小さいな。」

  何やらブツブツと言い始めた。

「許音様、何を…。お気に召さなかったのであれば、下がらせますが。」

「いや、違う違う。すまなかった。別に怒っておるのでは無い。桜恋殿も気にせぬようにな。」

  正炎が安堵のため息を吐いた。桜恋も少し安心したのか背筋を伸ばして前を向く。

「なるほど、目が見えぬのであったな。いや桜恋殿、お主は奇麗だぞ。というかなるほど可愛いと言ったほうが良いな。」

 やっと許音のいつもの笑顔が出たので正炎は完全に安心した。正炎の安堵感を感じたのか桜恋もニコリと笑った。

「はははは、これは驚いた。笑顔までそっくりとはな。」

「何をおっしゃっておられるのですか?許音様。」

  正炎が怪訝な顔をする。

「うむ…。そうだな、百聞は一見にしかずだ。どうせもうすぐここに現れるだろう。」

 許音は益々訳の分からぬ事を言った。が、そこへドスドスと歩く音が響いてきて許音の後ろの襖が乱暴に開けられた。

「兄上!この家には鬼畜でも飼っておられるのか!!」

 そう言って入ってきた少女。それを正炎が見る前に言う。

「俺の妹の智姫(ちき)だ。」

「廊下でいきなり手を握る男がおりますのよ!!」

そう言いながらフッとそこに座る正炎の顔を見た。

「この男!無礼な男です!兄上は何故にこんな男をこの家に入れられるのか。」

 そう言った少女の顔はまさしく桜恋と同じ顔であった。正炎は彼女の顔を見て驚いた表情をしていたが、すぐに我に返り許音の不可解な言動の意味が分かったと同時に、無礼を働いた自分の行動を思いだした。

「も、申し訳有りません。無礼の謝罪をいたします。この上はこの私を煮るなり焼くなり好きな様になさって下さい。」

  正炎が平伏した。すでに平伏している桜恋と二人並んで小さくなっている。

「智姫、落ち着いてこっちに座りなさい。そんなはしたない行動は高貴の子女がやるべきでは無いでしょう。」

  智姫は正炎を睨んだまま許音の横に座った。

「大体の事情は分かった。つまりこの男が智姫の手をいきなり握ったのだな。」

 智姫はフンッと横を向いた。

「二人とも顔を上げなさい。智姫、そちらの少女を見なさい。」

 智姫は不機嫌そうに顔を上げた桜恋の顔を見た。

「あ、私だ。いえ、そっくり。」

「この子は目が見えぬのだ。」

  智姫は目をつむったままの桜恋を見て不憫そうな顔をした。

「分かったか?」

「何がですか?全然説明になっておりませんが。」

「だから、この男の妹御が目が見えぬので手を引いて歩いておるのだが、お前を妹御と間違えてその手を取ったのだ。ただの間違えだ。」

 智姫は案外素直というか単純な性格らしく、なるほどと頷いた。

「いえ、智姫様の手を握ってしまったのは事実です。私の罪は明白で、それで免罪と言う事にはなりません。どうぞ好きなようになさって下さい。」

「兄様の罪は全て私の目のせいです。私を罰して兄様はお助け下さい。」

 桜恋がまた平伏した。それを見て、智姫はさっきまでの怒りは何処へやら、コロコロと笑い出した。

「勘違いであれば仕方ないでしょう。それが本意からの行動ならば許しませんが、私は間違えを許さないほど心が狭くは有りませんよ。」

「そういう事だ、正炎。桜恋殿も顔を上げよ。罪はないのだ。しかし、手を握ったくらいで煮るなり焼くなりとは、お前の命はそう軽いものでは無いぞ正炎よ。」

「は、はあ。ありがとうございます。」

 智姫は機嫌が直って思考がまともになった所で許音が目の前のこの男を正炎と呼んでいる事に気付く。

「あっ、あなたが正炎様でしたか。これは初めまして。」

 智姫が改めて深々と頭を下げた。つられて正炎も頭を下げる。

「あなたの噂は宮中の女達からよく聞きますよ。真面目な剣士、お堅い性格、知己に飛んだお話。大変人気がありましてよ。」

「ご冗談を。私程度の者など何処にでもおりましょう。私はただ許音様についているだけで…。」

「智姫、この男は自分を軽視しておってな、それに関しては俺の言葉でさえ信じぬのだ。」

「あら、そうですの?ならば一度女官なりにお声をお掛けになればよろしいのですわ。皆ほいほいと付いていきましょう。」

 桜恋は兄が誉められている事がとても嬉しいらしく、内容もよく分からず喜んでいる。

「ほほう、そんな笑顔まで智姫に似ているな。どうだ智姫。」

「そうですか?自分ではよく分からないのですけど、桜恋殿の笑顔は好きですわ。母上の笑顔に似ておられますから。」

 なるほど、智姫は母親似だと、正炎は思った。智姫と許音の母上は若い頃宮中の華と言われる程の美貌で男達を狂わせたと言う。許音の亡き父、朱拳と結婚してからは奥に引っ込み表に出なくなったと、前に聞いた事があった。朱拳が死んだ時も、嫉妬に狂った者が暗殺したのではと噂になった程だったらしい。

「しかし、桜恋殿は何処で作法を習ったのかな?正炎もそうだったが、きっちりとした作法が身についておるが。」

「母様です。作法や学問は全て母様に教わっています。」

「ほう、母君に…。正炎、初耳だな。そなたの武術はどうだ?」

「はあ、これも母に教わったものであります。母は何処で教わったのか、何かしらと詳しいので…。」

 許音の好奇心が頭を持ち上げ始めた。

「そなた達の故郷は農村であったな。何処でそなたの母はそんな事を覚えたのだ?」

「さあ、分かりません。が、若い頃は色々な事をやっていた様です。都にも何度も来ていた様ですし。」

「そなたは疑問に思った事は無いのか?」

「有りません。私たちにとってはただの母親ですから。昔何をやっていようと母は母。それに…。」

「それに?」

「もし、昔犯罪者だったら、聞かなければ良かったと思いますでしょ?そして、私達の母はその可能性もあるような者でして。ここだけの話ですがね。」

 正炎が笑った。もちろん冗談だ。その表情を見て許音と智姫も笑って、この部屋が和やかになった。

「それにしても、正炎様が都に住んでおられるのですから、桜恋殿も母君も都に移って来られれば良いでしょうに。そうすれば、桜恋殿ともっと仲良く出来ますのに。」

「すみません。母は都があまり好きでは無いようでして…。」

 正炎は実は過去に何度も都に移るように説得をしたのだが、断られ続けていた。

「桜恋も、目が不自由ゆえ、田舎の方が暮らしやすいし。」

 正炎が呟く様に言った。

「智姫様、お心づかいありがとうございます。本当に嬉しいです。」

 桜恋がペコリと頭を下げた。

「そうか、そうだな。しかし、桜恋殿もたまには都に遊びに来て正炎と一緒にこの屋敷にちょくちょく遊びに来るがいいぞ。」

「そんなに遊びに来られたら私の生活費が無くなってしまいますよ。この子達は中々の浪費家ですからね。」

「まあ、兄様酷いです。」

 桜恋がプーと頬を膨らました。

「はははは、桜恋殿。今のは私にもっと給金を上げよと言っておるのだ。こいつは策士でな、言葉の表と違う所に含みをいれるのを得意にしておるのだ。」

「ばれましたか。そんな訳で許音様、よろしくお願いします。」

 そう言った時、四人は一斉に笑い出した。四人は飽きる事無く雑談を夕刻まで続けた。皆がこの時間をこの上なく楽しく感じていたのだった。

 部屋が暗くなりかけた時、正炎が気付いたように言った。

「許音様、もう時間が経っておりますゆえ、ここでお開きにさせていただきたいのですが。」

  許音と智姫が表情を曇らせた。

「何だ正炎、飯も食っていけ。酒も交して夜更けまで話そうぞ。」

「許音様、お心は有り難いのですが、母が家で桜恋の事を待っておりますゆえ…。心配症の母でして…。いや、私の信用が無いのか目の不自由な桜恋を心配しておりましょう。」

  許音が苦笑いして仕方なく頷いた。横でクスクスと智姫が笑っている。

「それではまたの機会に…。」

「今日は本当に楽しかったです。本当にありがとうございました。」

 桜恋が頭を深々と下げてニコリと笑った。

「そうか、それでは気を付けてな。桜恋殿もまたいずれ会いましょう。」

「はい。」

 桜恋が元気良く返事をする。

「また、こんな時があれば良いですね。それではお気を付けて。」

  智姫がニコリと笑った。本当に桜恋と同じに笑う。

 二人はその部屋から再度お辞儀をして出ていった。

「どうだ?噂の正炎は。面白い男であろう?」

「はい。最初は嫌な男と思ったのですが、まあ誤解も有りましたし。話しをしてみて噂通りの人だと分かりました。」

  許音はニヤニヤと笑いながら智姫の顔を見た。

「で、どうなんだ?前にも言ったが、あやつこそお前の夫に相応しと俺は思っておるのだぞ。」

「そうですね。好きという感情はまだおきませんが、好ましい人だとは感じました。これから何度も会えばもっと大きな感情になるかもしれませんし、駄目かもしれません。」

 智姫は平然として言う。許音は苦笑いした。

「お前にしては最大級の誉め言葉だが、相変わらず厳しいな。」

「それは兄上のせいですよ。小さい頃から兄上を見て育ってしまって、兄上以下の男は目に入りません。」

「あやつは俺と同等とお前も感じたのだな?」

「兄上以上かもしれませんよ。人間としては。」

「うーん。彼奴と親友と思っている俺としては喜んで良いのか悪いのか。」

「お喜びなさい。私が初めて兄上から離れるかもしれない存在なのですから。」

 智姫はニコリと笑った。

「それよりも、あの桜恋殿は妹に欲しいですわね。とっても可愛い。」

「同感同感。顔はお前とそっくりだが、中身は清楚で穏かだな。」

「私が清楚では無く穏かでは無いと言うのですね?……同感です。」

 二人が声を合わせて笑った。


 暗くなってきた道を馬上の二人が家路を急ぐ。

「桜恋、緊張したか?」

「はい。でも、兄様も緊張なさっていましたね、智姫様に。」

「分かったか?いやあ、緊張した緊張した。お前とそっくりなのに凄まじく怖かったよ。さすがは許音様の妹御。」

  桜恋はクスクスと笑った。

「何ていっても、痴漢行為を働いてしまいましたからね。仕方有りませんね。」

「そう言うなよ。本当に間違えたんだから。しかも、思いきり平手を受けたしね。」

「そうなんですか?痛かった?」

「ああ。しかし、さすがは虎口様をふった女丈夫。平手もそうだが誤解に気付くとすぐにお許しになられるとは。俺はあの時、許音様の側近の首宣告も仕方ないと思っていたのだからな。」

  桜恋は正炎の胸元に顔を埋めた。

「どうした桜恋?疲れたのか?」

 桜恋は首を横に振った。そして、呟く様に言う。

「私なら怒らないのに。兄様なら何をされても全然怒らないのに。」

「何だ?何か言ったか。大きな声で言ってくれよ。」

「何でも無いです。それより母様がきっと待ちくたびれていますよ、兄様。」

「そうだな。それじゃとばすぞ。しっかし捕まっていろ!!」

 正炎は馬を思いきり走らせて家路と急いだ。

“何だろう、この感情。兄様を誰にも取られたくない、ずっと兄様と一緒に居たい。”

  桜恋は初めて感じるほのかな恋心に戸惑って、その感情を消そうとする様に下唇を噛みギュッと正炎に抱き付いていた。


 次の日の朝早く、香奈枝と桜恋は村に帰っていった。別に村で何をしているわけでも無いのでもう少しいれば良いと正炎は引き止めたが、どうも都は落ち着かぬと言って帰っていったのだ。

 ただ一人残された正炎の住む家に、山の様に積んである荷物だけが部屋を占領していた。これを村に帰る度に少しずつでも持っていかねばならないのかと思うと正炎は気が重かった。しかも、持って帰る順番に番号がふってある懲りようで、間違えたり捨てたりしたらお仕置きが待っているのである。

「何て母親だろう。全く。」

 正炎は途方に暮れるしかなかった。

 家の前で母と妹を見送った後、そうやって途方に暮れていると見かけ無い男が目の前に現れた。服装からして何処かの侍従だとは感じられた。

「あの、正炎様でいらっしゃいますか?」

「そうですけど。あなたは?」

 その男は正炎の言葉に一礼してから答える。

「私、虎口様の侍従をしている小久と申す者です。文をお持ちしました。それで返事を戴きたいのですが。」

  正炎は文を受け取ると早速それを開いた。それは礼節を全くわきまえない文で、虎口らしいと言えば虎口らしい。

“正炎、久しぶりだな。とりあえず今日の昼過ぎに俺の屋敷に来い。宴会の余興に試合をする為の準備がしてある。お前が本当に強いのか見てみたいのだ。来なければお前の負けを言いふらし卑怯者として宮中に顔を出せない様にする。”

 その文は幼稚で他には見せられないほどみっともない物である。

「何だこれ。」

 正炎が首を傾けた。確かに虎口は武術大会にも出ない男で、正炎は彼と戦った事が無い。もっともそれだから正炎が優勝を重ねる事が出来たのだと、人は噂したし、彼自身そう思っていた。それが、今になって戦いたいから来いとは…。頭を悩ませる。

「分かりませんが、昨日から今日の為に宴会の準備をなさっておられる様で…。必ず来るとの返事を貰ってこいと。」

 正炎としては別に負けと言いふらされてもかまわぬが、卑怯者のそしりは許音の側近として受けるわけには行かない。ここは負けると分かっていても行くしかないか…。

「分かった。昼過ぎに虎口様のお屋敷に行くとお伝え下さい。」

 正炎が渋い顔をして従者の方に言うと、従者は大喜びで帰っていった。恐らく良い返事がなければ酷い仕置きが待っていたのだろう。虎口はそういうわがままな人物であった。

「虎口様も仕方の無いお方だな。」

 正炎は呟き家に入ると自分愛用の長槍を掴み、片手で何度か素振りをした。


 こちらは許音の屋敷。朝から書物を読んでいた許音の部屋にドスドスと足音が聞えた。と思うといきなり襖が開かれる。

「兄上、こんな文が届きましたがどうしたら良いでしょう?」

 智姫だった。智姫はヒラヒラと文を振って不機嫌そうに言った。彼女は昨日は遅くなったのでそのままこの屋敷に泊まっていて、今はすでに帰り支度をして帰ろうとしていた所だった。その矢先に文が届いたらしい。

「なんだい、朝から騒がしい。一体何があったんだ?」

「これですわ兄上。」

 智姫が文を乱暴に許音に渡した。許音はその乱暴さを注意しようとしたが、その前に文の下手な字が目に入りそのまま好奇心に負け読み出した。

“親愛なる智姫殿。今日、俺の家で宴会を行なう。余興に俺と正炎の試合を行ない、どちらが本当の武術王であるかお前に見せてやる。ぜひとも来るように。”

 許音が文を見て大笑いし始めた。

「はははは、何だこれ、ククククッハハハハハハハ、凄い、文だ。いやクスクス、脅迫状みたいクククだな。ははははは。」

 許音はこれ以上無いと言うくらい腹を抱えて笑い続ける。そうとう笑いのつぼに入ったらしい。彼は少し落ち着いたかと思うとまた大笑いしてそれはかなりの間続いた。

やがて本当に落ち着くと袖で涙を拭き、大きく何度も深呼吸をした。

「いや、面白い奴だとはずっと思っていたが、こんな人を笑わす才能が有ったとは。クククッいや、驚いた。」

  許音は込み上げてくる笑いを押さえて押さえてやっと真面目な顔になった。

「で?これが?」

「私、どうしましょうか?」

 ずっと許音の笑いを呆れて見ていた所為か、感情が落ち着き平静の表情になっている。

「別に行かなければいいんじゃないか?婚約も破棄したし、合わない方がいいだろう。あいつは結構しつこいからな。また言い寄ってくるぞ。」

「でも、ほら、正炎様がいらっしゃると…。」

「ああそうだな。何だあいつ。何で虎口の宴会何かに…。あ、そうか。正炎の方は本当に脅しで呼んでいるんだな。あいつはお人好しだから仕方なくでも頷くしかないだろうな。」

「どうしましょう?兄上。」

「俺が動けばこの宴会を潰す事も出来るぞ。」

 許音がニヤニヤしながら言った。

「え?でもほら…その、ねえ。」

「正炎の武術の腕も見ておきたいと思っているな。あいつの強さは噂高いからな。」

 智姫は袖で顔を隠しエヘへと笑った。

「まあ、あの野獣に勝てるとは思っていませんけど、それでもどの位の強さなのかは知りたいですしね。」

「よし、それでは俺も行ってやろう。正炎に何かあったら親友として助けねばなるまい。」

「とか言って、兄上も虎口様を苛めて楽しむつもりの癖して。」

智姫が呟いたが、そんな事を気にせず、許音は外出の準備をするように家の者に告げた。


 神官長に新たなる情報が耳に入った。それは昨日許音の屋敷に智姫にそっくりの者が入っていったという物で、それが正炎の血の繋がらない妹だという情報もすぐに入ってきた。

 神官長はその娘の詳しい情報入手と正炎の実家の監視を陰と呼ばれる数人の人間に命令した。

「何か匂いますね。神の啓示が無い事と突如現れた王家に似ている娘。それに正炎も平民出となっているが、平民出にしては貴族特有の物腰であるし、これも何かの繋がりがあるのか…。」

神官長は前から覇口の邪魔になりそうな許音その側近正炎を調べていた。それで正炎が平民出というわりに貴族に近い人間だと感じていたのだった。

 神官長は覇口にこの報告をする為、神の家から出て覇口の屋敷に向った。

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