2.都へいく
正炎は二十一歳になってもまだ結婚もせずにいた。
若いうちから王族の側近として仕えている彼が女に不自由するわけも無い。実際、女官や宮に出入りする貴族達の娘達にも人気は高い。容姿では王族一の美貌と噂される許音が人気の的だが、勤勉で武術も強くそれでいて少々間抜けの正炎が許音と並ぶ人気を保っていた。
「正炎、お主ももう少し女遊びをせぬか。それとも貴様は男の方が良いのか?」
宮殿の桜の舞う広い庭先で許音が正炎をいつもの通りにからかっている。ここは許音の預かっている宮殿の一画の庭で、蹴鞠を楽しむ若い貴族達や、広縁では貴族の姫達や女官達がそれを楽しそうに静観していた。
それを後ろに許音と正炎は少し離れた桜に囲まれた池の所で談笑していた。
許音は藍を主とした上下揃いの上品な着物をまとい手に杓を持ち、長い髪を後ろで結っている。衣服を女性の物にしたら美しき姫と見まごう程の美形である。しかし、目は切れ長で唇は薄く、笑っていなければ見ただけで寒さを感じる程の怖さを感じられた。
「ご冗談を。私は案外助平ですよ。ただ、見える所では女嫌いを装っていた方が、もてない男としては色々と都合が良く。」
「クックククク謙遜か?お前目当てに女官や女中が良くここに集まって来るではないか。それに、お前もその者達から贈り物をよく貰っているようだが?」
「あれは、許音様を一目見ようとした者達で有りましょう。私はそれの出しにされているだけで…。ま、 それで贈り物を戴いて許音様には感謝しております。」
平静とそう言う正炎を見て、謙遜などでは無く本気でそう思っていると感じた許音は呆れて言う。
「お前は自分という者をもう少し客観的に見る必要があるな。俺を見に来た者が俺に贈り物をせずにお前にするか?あれはまさしくお前に贈ったのだ。」
「ご冗談を。いつもお側に仕えさせて貰っているので、私に近付けば許音様にも近づけると思っているのでしょう。許音様が女達に冷たくなさるから、私が出しにされるのですよ。もっとも贈り物は許音様のおすそ分けと考えてありがたく戴きますが。」
正炎はニコリと笑った。その笑顔で許音は笑い出した。
「はははは、まあいいや。それより、俺の妹の智姫がお前の噂を聞いて会いたがっているのだが、会ってみぬか?」
「どういう噂なんですか?私は道化としてはまだまだ未熟者ですよ。」
許音はまた大笑いした。しばらく笑ってから涙を裾で拭いて言う。
「違う違う。ま、噂はどういう物か分らぬし、お前は道化としても十分だと思おうが…、そうでは無い。俺としては見合いと思っておるのだがな。」
「はあ?」
正炎はとんでもない単語が出てきて顔を歪めた。
「何の御冗談ですか?」
「冗談では無い。俺はお前なら妹をまかしてのよいと考えておるのだぞ。それとも俺の弟になるのは嫌か?」
正炎はますます顔を歪める。
「いえ、それはとても嬉しい事なんですが…。しかし、私は平民の出。身分が違いすぎますし…。」
「俺は実力主義だ。身分など気にしないと知っておるだろう?それとも何だ?他に誓い合った女子でもおるのか?」
「いえ、そういう訳では。ただ、許音様の妹御と言えば、その美しさに見初めた虎口様との婚約の話が有ったはずでは?」
虎口は未だ王が決まらぬこの国の第一継承権を持つ覇口の長男だ。武力では右に出る者がいないと言われる程の剛の者で、性格も豪気だ。
「ああ、あれは智姫が嫌がったのでな、白紙に戻した。その智姫がお前に会いたいと言っておるのだ。悪い話ではなかろう?」
正炎は慌てた。
「すみません。遠慮させて下さい。私には荷が重過ぎます。」
「何だ?とりあえずは会うだけだぞ。別に気にせずいつもの様にしてれば良い。」
「勘弁して下さい。虎口様との婚約さえも簡単に断る豪気な姫君に会うなんて、私は会った後ぼろぼろになってしまってますよ。」
正炎が半べそかいた。許音はそんな正炎を見て少し顔を顰めたが、すぐに笑い出した。
「まあ良い。が、好奇心の強い智姫がそう簡単に諦めるかな?」
「脅かさないでください。私は気が弱いのですから。」
「…武術大会でここ数年間優勝をとり続けてるお前が気が弱い?すると他の者達は木々でさえずる小鳥よりも弱くなってしまうが。」
「苛めないでくださいよ。それより、この間口説くと言っていた敬宗様の孫娘、琴理様はどうなりました?まさかまたやる事だけやって…。」
正炎は話を変えたが、その話になると許音は真剣な表情になり口に指を持っていってシーッと言って回りを見渡した。かなり後ろでの蹴鞠で女達の歓声が上がっているが、此方の話しが聞える気配は無い。
「いや実はな、この間夜這いをかけたのだが、先着が有ってな…。それが、宮中でも有名な堅物、炭打だったんだ。いや、驚いたよ。慌ててその場から離れて館に逃げ帰った。恐らくあいつの事だ。じきに縁談の話が宮中に噂になろうよ。」
炭打は塩剣という大臣の一人息子で年は正炎より二つほど若く、真面目だがぱっとした所の無い人物だ。許音の取り巻きの中にいつもいるが陰が薄く、女の話になると顔を赤らめる程の純情男である。今、後ろで蹴鞠をしている中にその炭打がいて、正炎は思わずそちらを見た。
「炭打殿がね…。人は見かけによりませんね。彼は父親の持ってくる縁談で結婚をする者かと思っていました。」
「そうなんだ。いや、意外意外。」
許音が腕を組んで真剣に言った。正炎はそれを見て、ニヤニヤと笑いながら言う。
「それでは許音様も負けずに結婚をいたさなければなりませんね。年下の、しかも自分の取り巻きが先に結婚では許音様の名が廃りますよ。」
「ははん?お前この間母上に呼ばれていたかと思ったら、それを吹き込まれたのだな。早く結婚をしてもらいたいって言っておったのであろう。」
正炎はギクリとして顔を背けた。
「しかし、それはお前も同じだぞ。何といっても我々は同い年なのだからな。」
「はあ、さようで…。」
正炎が苦笑いをして下を向いた。
「ククククッ、ま、俺も次の王が決まる頃までには結婚もするさ。何年後かは分らぬがな。」
まだ決まらぬ王の話になった。もちろん継承権を持っていない許音には関係の無い話ではあるが、あまり不用意な言動は彼の立場を悪くする。継承権は持っていないと言っても彼の宮中での発言権は大きいのだ。
「許音様。あまり不用意な事はおっしゃらないように。」
正炎は真面目な顔で側近らしくいさめた。が少しの好奇心があった。
「しかし、何故未だに王が決まらないのですか?第一継承権を持っておられる覇口様が継がれるのは決まっておられるのでしょう?」
「お前のその言動の方がよっぽど不用意だが…。まあいい。どうせ誰でも知っている暗黙の了解事だ。いいか?王という位はな、それを継ぐ者が神からの啓示を受け取るんだ。それが来ない限りは王は継げない。叔父貴の覇口にはそれが来ない。って訳なんだ。」
「はあ、それで何年も王が不在なんですね。…でもそれでは第一継承とかあまり関係ないのでは?」
「そうだよ。でも、この数百年の間、間違いなく第一継承者がその啓示を受けていたんだ。第一継承者が継承前に死ぬと第二継承者が、そしてそれも死ねば第三継承者がそれを受けてきた。だから今まではその順番で良かったのだが…。」
許音はもう一度回りをキョロキョロと見てから言った。
「実はここだけの話。先王…、ま、俺のじいさんだが。それが殺される数年前から次の継承者に啓示が現れていたらしいのだ。しかもそれは、覇口の叔父貴では無く、当時第二継承を持っていた剣口って人だったらしい。」
「だったらしいって、何ですか?許音様の叔父上でしょう?その人も。」
「殺されたんだ。しかも人嫌いな性格だったらしく、宮中にも出た事がなかったんだ。名前は聞いた事もあったが実物を見たのは葬式の時が初めてで、それも酷い殺されかただったからあまり顔は見ていない。」
正炎は顔を歪めた。
「何か殺伐としてますね。その犯人は分ったんですか?」
「分ってない。ま、おそらくは覇口の叔父貴だとは皆が思っているのだが、何せ証拠が無い上剣口って人が死んでも誰も困らなかったから。そして、覇口の叔父貴は絶大な権力を持っているから、皆見て見ぬ振りよ。でも、それが原因かは分らないが覇口の叔父貴にはいまだに神の啓示が現れないんだ。可哀相に。」
「可哀相…ですか?」
「可哀相であろう。それ程王につきたかったのに王になれないんだから。仕方なく叔父貴は自分の言いなりになる者を摂政を取りたてて自分の操り人形に仕立て上げるしか無かった。哀れだね、全く。」
許音は本当に哀れそうに言って腕を組んだ。
「それで、啓示って何ですか?」
「そんなのは知らぬよ。知りたければ、ほら、胡散臭い連中がいるだろ?あいつらに聞くんだな。」
正炎は笑いを堪えて言う。
「神官の方々の事ですか?全く罰が当たりますよ。本当に…。」
「お前こそ、あまり好奇心で動き回ると、明日は川で浮いている事になるよ。この間も一人いたろ?王族の事を聞きまわっていた輩を、そしてその末路を…。」
許音はおどろおどろしい顔をした。こうなると美しい顔も見る影も無い。
「何を言っているんですか。あれは結局王族の事をかぎまわっていたと見せかけた、ただの泥棒だったじゃないですか。捕まって罰として罪人島に送られて、死んでもいないし。」
「お前はつまらないね。ここで女官なんかだったら「きゃー許音様、そんな怖い話はしないでください。」何て言って抱き付いてくるのに…。」
「抱き付きましょか?私でよければ。」
正炎が体をしならされて言う。
「わー、嘘だ嘘だ!!」
許音は顔色を変えて怒鳴った。そんな慌てる許音を見て正炎はクスクスと笑った。
「全く、俺をからかうのはお前だけだよ、本当に…。それよりお前が可愛がってる妹……。」
「それでお前の話をその後ずっとしていたんだ。そしたら許音様はお前に興味を示されて一度お前に会いたいから連れてこいっておっしゃって…。」
「まあ、兄様。一体私のどんな話をなされたんですか?」
「いや、まあ、色々だな。」
「兄様ったら悪口を言っていらしたんでしょう。」
桜恋が頬をプーと膨らした。
「そんな事無いって。可愛い可愛い妹だって言っていたんだよ。それだから許音様が興味を示されたんだ。」
桜恋はすぐにニコニコ笑った。コロコロと表情が変わる所がまた可愛いと正炎は思ってしまう。
「そうだね。一度都ってのも見ておいても、いや桜恋の場合匂いを嗅いでおいてもいいだろう。一度行ってきな。」
香奈枝の言葉に桜恋がパッと明るい顔をした。
「本当ですか、母様。」
桜恋は好奇心旺盛の年頃なのに目が見えない為、外もあまり出ない生活で、そういう刺激はとてつもなく嬉しい事なのだ。しかし、すぐに桜恋は表情を曇らせた。
「でも兄様。許音様が私をご覧になってがっかりなさったら、兄様のお立場が…。」
「ははは、そんな心配は無用だよ。俺はどっちかというと、お前の可愛さに手元に置きたい何ておっしゃられたらどうしよう、何て考えているんだから。」
「ま、兄様ったら。」
桜恋が頬を赤く染めた。
「それはそうと、母さんも一緒に来てよ。都は若い頃以来でしょ?」
「私は今も若いよ。ま、それはそうとそうしようかね。あんたに任せていたら桜恋を迷子にさせてしまうような気がするから。」
「相変わらず俺は信用が無いようだな。そうか?桜恋。」
桜恋は一瞬答えに詰まった。
「お前までそう思うのか…。」
「違うんです兄様。私は兄様を信頼しています。そうです。そうですとも。」
慌てる桜恋にクスクスと笑いながら正炎は頭を撫でた。
「お前は本当に良い子だな。自慢の妹だよ。」
桜恋は座ったまま頬を赤らめて正炎の手の温かさを精一杯い感じようとしていた。香奈枝はそれを見てコロコロと笑う。
「しかし、そうとなると旅の用意が必要だね。馬ならば半日で着くが、歩きではかなりの距離がある。」
「いや、馬を借りて行こうよ。母さんは馬に乗れるのだし、桜恋は俺の前に乗せれば良いのだから。」
香奈枝は少し考えてから頷いた。
「そうね、そうしましょう。そうか久しぶりの乗馬だね。母さん燃えてしまうわ。正炎、あんたちゃんと馬の借り賃を払ってよ。」
「分ってるって。村長の所のを借りよう。あそこの馬は手入れがいいから途中でばてたりもしないだろうし。」
「お馬さんに乗れるのね?わーい、初めて初めて。」
桜恋がこれまでに無いはしゃぎようだ。
「これこれ、上品な女子はそんなにはしゃがない。」
香奈枝に軽く注意されて、桜恋は舌をぺロッと出した。
「ま、出発は明後日の早朝だし、旅の準備は明日すればいいよ。今日は早く寝て、明日川に釣りに行くから、母さん弁当をよろしくね。」
「よろしくね、じゃない。全く自分勝手なんだから。」
「兄様、私も釣りについて行っていいですか?」
「いいよ。でも大人しくしてるんだよ。川にはまったら大変だし。いいよね母さん?」
「全く、…それじゃ二人分作るのね、弁当は。」
桜恋は大喜びで香奈枝に抱き付いた。
「母様ありがとう!」
香奈枝は少し苦笑してから桜恋を離した。
「上品な女子は抱き付かない。」
「あ…、はい。」
桜恋はまた舌をペロっと出した。
暗闇に蝋燭の火が薄暗く灯っている。広いこの部屋にこの蝋燭では明かりが行き届かなく一人の男を浮かびあがらせる他はほとんど暗闇である。
男は蝋燭の火を睨みながら盃に酒を酌み飲み干す作業を繰り返していた。床に散らばっている徳利の数を数えればかなりの量を彼は飲んでいる事になる。
「何故だ…何故なんだ……。」
彼は呟く。すでに白髪が目立つ年で、口の回りに長く伸びたひげにも白いものがまばらに生えている。しかし、眼光は鋭く体もまだ鍛え上げられた筋肉を誇っていた。
「父は死んだ…、弟も…。それなのに…。」
この男こそ第一継承権を持っている覇口その人だった。彼は昔から酒をよく飲んだが、最近ますますその量が増えてきている。
「何故、俺に啓示が無い。神は俺に王の資格が無いとでも言うか…。」
量が増えた原因はこの言葉で分る。彼はさらに酒を飲み続けていく。
「俺の何処が悪い!何故神は弟を選んだ!何故死んだのに俺を選ばん!!」
覇口は盃を怒りに任せ力一杯投げた。そしてそれが割れる瞬間に彼は体をバタッと倒して薄暗い天井を見つめる。いくら飲んでも怒りからか全然酔えないのだ。
「この国は俺の物だ…俺が統治する物…。俺はこの国の王になるべき男なのだ…。」
彼はここ何年も同じ事を口にしてきた。しかし、状況は変わらず、彼は酒を飲み酔えずそして怒り呟き眠る。毎日こうしていて、今日も呟きながら寝てしまった。
彼はこの事態を神官に何度も問いかけた。しかし、神官もまた分らないと首を振る。何百年も続くこの国の歴史でもこんな事は無かったと。
覇口は何でも手に入れる事が出来る立場に有りながら一番欲する王という称号を得られないまま何年もこの苛ついた日々を送っていた。全てが謎のまま時だけが進んで行くのだった。
朝早く、まだ暗いうちに村を出た三人、正炎、香奈枝、桜恋は昼過ぎには都に入っていた。途中、景色の良い土手で弁当を食べて気分よくこの都に入ってきたのだ。
目の見えない桜恋にとっても、馬の上で感じる風や木々の匂いなどは興奮に値するもので何度も正炎に「凄い、凄い。」を連発していた。
都に入ると益々興奮していろんな場所の匂いを嗅いでいた。食べ物屋の匂い、呉服屋の匂い、騒がしい人通りの音や、女達が付けている飾りの音。何度も何度も正炎や香奈枝に質問をした。
「今の音は何の音?この匂いは?ここはどんな感じ?」
桜恋は正炎を喜ばすほど興奮してはしゃいだ。香奈枝も久しぶりの都で桜恋程では無いが興奮して歩む馬上から店々を伺っている。そしてとうとう我慢が出来なくなったと見えて、馬から飛び降りた。
「ちょっと正炎、お金ちょうだい。」
そう言って正炎から金をふんだくると桜恋を馬から抱き下ろして、引張っていって店に入っていった。そして出てくると次の店へ…。香奈枝と桜恋は端から見るとその買い物姿からまさしく親子で、正炎を更に喜ばす。
わずかな時間で山になるほどの買い物をして、二人は満足気に帰ってきた。
「おいおいその荷物、帰りはどうするんだ?」
香奈枝が考え込んだ。どうやら考えていなかったようだ。
「…、そうだ。腐る物だけ私たちは持って帰るから、後はあんたが帰ってくるたびに運んでよ。」
「やっぱりそうか…。」
正炎は読んでいたらしい。
「兄様、凄く楽しいです。」
桜恋が頬を染めて言った。
「お前も女の子だな。そんな事が楽しいなんて。」
「当たり前だよ。女は皆買い物に喜びを感じるのさ。」
どういう理屈で言っているのか分らないが、香奈枝は自慢気に言った。
「お前は買い物はいいのかい?」
「買い物するにももう金が無い。今月の生活費を全部あなた達に使われたから…。」
正炎は少し辛そうに言った。それは二人に自省させる為であった。
「そうか。それではもっと働いて金を稼ぐ事だな。」
正炎の目論見を見事はずして香奈枝は厳しく言った。
「そうだよな。母さんはそういう人だった…。」
正炎が呟く。
「兄様…ごめんなさい。どうしましょう、これ返してお金にしてきますか?」
「桜恋、気にしなくていいんだよ。どうせ正炎の事だ、まだ隠し金を持っているはずだから。」
正炎はギクリとした。さすが母親である。まさにその通りで、自分の家にはまだ結構な量の金があったのだ。
「はははは、桜恋は気にしなくていいんだよ。それより、俺の住んでいる家に行こうか。」
桜恋が頷く。正炎は荷物を布に包み担いで、桜恋を馬上に抱き乗せた。
「母さん、大丈夫?持てる?」
「大丈夫だよ。それより荷物に気を取られて桜恋を落すんじゃないよ。もっとも荷物を落したらそれも怒るけどね。」
「鬼…。」
正炎は呟いたがそれは聞こえなかったのか、香奈枝はやはり布に荷物を包んでしょった。そしてさっそうと馬に跨る。
「さすが母さん。それじゃ行くよ。」
二匹の馬が人込みの中を歩き出した。
日が暮れる少し前に正炎の住んでいる屋敷についた。屋敷といっても部屋は一つしかない小さな家で、それに小さな庭が有る程度だ。
「あんた、こんな所に住んでるの?私はもっとでかい屋敷に住んでいるのだと思ったわ。本当に王族の側近なのかい?」
香奈枝が驚く。
「一人で住んでいるのにそんなでかい家はいらないでしょ?それにここは家賃が安いんだ。」
正炎が自慢気に言った。
「あんた、これ借りてるの?自分の持ち家じゃ無くて?…あんたの給金の額が分かったわ。私の仕送りはかなり無理していたんだね。」
「あのね…。確かに人様に自慢出来る程は貰っていないけど、いつもの仕送り位の金額は大丈夫だよ。心配しなくても。」
「そうかい?それじゃいいや。」
香奈枝は全く気にしないようだ。
「母様、どんな感じの家なんですか?教えてください。」
桜恋はクンクンと匂いを嗅いでいるが、それでは分らない様だ。
「ま、建物自体は奇麗だが、うちより小さい位だよ。後は中に入ってから見てみようか。」
桜恋が頷いて皆は中に入っていった。
三角屋根の白い建物。おおよそ他の建物とは様式の違う煉瓦を積んだ高い建物が有る。障子や襖の仕切りが無く、壁には所々窓硝子が入っていた。
ここは神官達の集う神の家。広い敷地に目一杯建物が締めている。
ここに住む神官の数、約百八十人。俗世界から離れた人達だ。皆胡散臭い、頭からすっぽりとかぶった白い服を着ている。
その神官達だけに見る事が許されている蔵書物がこの建物の中に何万も保存されている。書物といっても、革で閉じられ、どういう製法で作られたか分らない紙に近い丈夫な物に書かれたちゃんとした本だ。
彼らはその本を読みあさっていた。それは、覇口に命令されたわけでは無い。神官は全てを知っていなければならず、全てを記録するものである。彼らはその昔からの掟にしたがって自分達の仕事をしているのだ。
その最奥、神官でも幹部の者しか入れない重要書物庫。そこに何名かの幹部と白髪白髭の老人の神官長がボロボロの本を調べていた。
「今回の王族の異常はこの世の終りを示唆しているものかも知れぬ。いずれにせよ、この国創始からの歴史にこの様な異常事態があったかを調べなくてはならぬ。皆よ、全ての書物に目を通し、全てを明かそう。我々は全てを知る為にここに居る。全てを記録する為にここに居る。」
神官長が皆に言う。皆は声を出さずただ頷き、その古い書物を読み漁った。
この作業を始めてやはりすでに数年経っているのだが、状況を説明する様な物は見付かっていない。しかし、蔵書自体はまだ十分の一程度しか読み終わっておらず、皆この作業が永遠に続くのではないかと感じていた。
その最奥の部屋にまだ若い神官が扉の前で声を張り上げる。
「神官長!お客様がおこしです。」
神官長はその声に立ち上がり長く白いひげをゆらゆらと揺らして扉へと歩いていった。
「何です、騒々しい。誰が来たと言うのですか。」
若い神官は深々と頭を下げ、恭しく言う。
「覇口様の子息、虎口様でございます。至急の面会を望んでおりまして叶わねばここを焼き払うと…。」
「また無茶を言う人ですね。分りました、今行きましょう。」
神官長は渋い顔を表情に出すとその若い神官と一緒に虎口の待つ接客室に足を運んだ。
接客室では足を投げ出し椅子に座っている虎口の姿が有った。筋肉の盛り上がった大きな体を動かさず、視線だけ動かし神官長を見た。粗野な着こなしの服装では有るが、元はかなり上等な着物に袴であろう事はその刺繍から分かる。この平和な時代であるのに、太い腕や顔にかなりの刀傷が有り、彼の好戦的な人格が取ってみえる。
「神官長よ、今日来た理由は分っていると思うが…。」
そう言いながら虎口はギロリと若い神官を見た。それに気付いて神官長は席を外すように合図を送る。若い神官は深々と頭を下げその部屋から出ていった。
「虎口殿、はっきり申しますが、王の継承の問題はそう簡単に分りませぬぞ。急いではいますが、まだ十分の一ほどしか読めていませんのでな。」
虎口はガタッと姿勢を正し、小声で言った。
「そんな事は分っている。まあ親父に見てこいと言われたからその義理を果たしただけだ。しかしそうじゃない、俺が来た本当の理由は…。」
「あの香の事ですかな?女子の気を引くと言う。」
「そうだ。俺はお前からもらったあの香を智姫に何度も嗅がせた。香の会と称してな。所がどうだ。親父の権力を使いやっとの事で婚約まで持っていったのに、いとも簡単に婚約破棄だ。どうなっている。」
神官長は呆れ果てている。
「何度も申しました通りあの香は小さな好きという感情を大きくしていくもの。智姫殿があなたの何処かを好きでなければ効きません。完全に毛嫌いされているのなら効かないと申したはず。得意の父親の権力で結婚までこぎつければよろしかろう?」
「そうしたいのは山々だが、あれの兄はあの許音だ。あの若さで宮中の古株共にも発言力を持っている。親父の力を持ってしても無理矢理には出来ないんだ。」
「なら諦めなさい。慶庵殿の娘さんと付合っておられるのでしょう?あの方なら第五継承者の嫁としても申し分無いと思いますよ。それに父上が王につけば今度はあなたが第一継承者。智姫殿はそんなあなたに相応しいとは思いませんね。」
虎口は神官長の言葉にムッとした。
「俺はあの女が手に入るなら継承権などいらぬ。何故親父がそれ程まで王になりたいのか、俺には分からぬよ。」
「王は全てを統べるもの。全てを知る事の出来るもの。その継承権を持っていると言うだけで宮中に大きな発言権を持つ。十分に魅力ではありませんか?」
「何を言うか。許音を見よ。あやつは王族で有りながら生まれながらにして継承権を持っていなかった。しかし今奴は俺や他の継承権を持つ者達よりよっぽど発言権を持っているぞ?」
神官長は小さく頷いた。確かにそういう者もいる。ちなみに許音は継承権を持たぬ事に劣等感を持っていない。
「それにだ、奴の親父であった朱拳は第一継承を持っていて誰よりも王に相応しい男であったが、下らぬの一言で継承権を捨て、俺の親父に第一継承権を譲っちまったじゃないか。」
許音の父親が継承権を捨てたが為に許音は継承権を持っていないのだが、その朱拳は許音が子供の頃にすでに死んでいる。虎口は朱拳を密かに尊敬していた。
「ま、どちらにしても智姫殿はお止めなさい。無理を通すと一生の歯車が崩れて行きますぞ。」
「俺は諦めねぇ。必ず俺の嫁にして見せる。どんな汚い手を使ってもだ。」
神官長は呆れて小さくため息を吐いた。父親もかなりの悪だが、息子はそれに愚かさが足されている。
「いいでしょう。これをお持ちなさい。」
神官長は和紙に包まれた小さな角砂糖の様な物を一つ取り出した。
「これが最後ですよ。これは受念糖と言いまして、それを飲まし彼女に好かれるように行動すれば、普通は「いい人ね。」とか「凄い人。」とかで終る程度の感情を増幅し真剣に愛してしまうとういうもの。言ってみれば、前にお渡しした香の強化版というところです。」
「よく分からんが、これを飲ませてから格好の良い俺の姿を見せれば良いのだな。」
「ま、そういう事です。がんばってください。」
「おお、ありがとな。それじゃ、早速使ってみるよ。」
虎口は急いで部屋を飛び出ていった。
「これが最後ですよ!失敗しても私は知りませんからね!」
虎口は遠くから分かってると言い残して去っていった。
「はあ、こんな事に過去の奇跡の一端を使うべきでは無いのですがね…。」
神官長は長く白いあごひげを手で撫でながら、渋い顔をして皆が作業する最奥の蔵書室にまた戻っていった。




