1.子供を拾った。
春の麗かな日、一人の若い剣士が馬に乗って土手沿いの道を歩いていた。
大きな槍を馬に引っかているが剣は持っていない。袴姿がりりしく黒い山高帽の目立たぬ所に朝廷の紋がうってあり、宮使えの者だと分かる。もう立派な体格の体つきとは逆にまだ少し幼さの残る顔つきの青年であった。歳の頃は十六歳前後という所か。
その彼が馬で歩む土手は緑に染めれられて蝶が飛び交い、川では釣り人がうたた寝をしていた。穏かなその風景と暖かさはこの若者に眠気を誘う。若者は歩む馬に揺られて何度かコクリコクリとして馬から落ちそうになっていた。
「ああ、眠い。今日はなんていい天気なんだ。早く母の待つ家に戻りたいが、こう眠くてはたまらん。少しこの土手で昼寝をしても遅くはなるまい。」
若者はそう呟きながら両手を大きく上げて伸びをした。そして昼寝に相応しい場所を探す。
「おっ、あそこが良さそうだ。先客がいるが、一人だけだしいいだろう。」
彼が見付けたのはポカポカと日当たりの良い場所で、草が短くそれでいて土が見えていない場所だった。彼は川のせせらぎが眠気を誘う中、ボヤッとして何も考えられない様子で、その先客である者の前まで馬を歩かせるとそれを見た。
「ん…、何だ?このいい日に酷く辛そうな顔だな。」
その先客はまだ幼い子供でやせ細っている体にボロボロの汚れた服を着ていた。髪は伸び放題の上、油っぽく埃っぽい。小汚い顔と露出している足や手も凄まじく汚れていて、匂いも酷くまるで生ゴミの様だ。生きているのかさえも分らない。
「おいおぬし、生きているか?返事をせよ…。」
若者は馬上のまま声をかけた。しかし、子供は全く反応が無い。死んでいるなら地に埋めて弔ってやらなばならぬが…。その時、表情が少し動いた。
「ウーン、辛すぎて動けない様だな…。」
若者は馬に引っかけている大きく長い槍を取り出すと鞘の付いた矛先で子供の服の襟を引っかけた。そしてその子供を自分の前に持ってくると鼻をつまんだ。
「おいおい、何という臭さだ。しかし、こいつは本当に辛そうだな。ここはたまたまといえ何かの縁か。」
若者はその臭さに眠気が飛んで、そして子供の辛そうな表情に仕方無さそうな溜息を吐いた。それで彼は子供を槍に引っかけたまま肩に背負い馬を走らせて、彼の生まれ育った村へと急いだ。
何時間か走ると懐かしい村に到着し、しかし彼は村に入っても馬の速度を緩めずに、そのまま自分の育った村外れの小さなあばら家の前まで走らせると、やっとそこで馬を止めて飛び降りた。
「ただいま、母さん。今、戻ったよ。」
彼は外から声をかけてガタガタと戸を開けて家に入る。すると台所仕事をしていたのか手を前掛けで拭きながら女が出てきた。年の頃は三十前後。まだまだ若さが見える奇麗な女だ。
「母さん。こんなの拾ってきたが、薬でも頼むよ。」
若者は矛先に引っかかったままの子供をそのまま母に突き出した。
彼の母はその臭さに全くひるまず両腕でその子供を受け取ると、あらあらと言いながら慌てて履き物を脱いで一段高くなった床間に上がった。そして、一旦その床にその子供を置いてから布団を引き、そこに汚い子供を寝かす。
「正炎、お前ひとっ走りして鋼煉先生を連れてきてちょうだい。」
「え…今?」
正炎は水瓶から小さな杓で水を飲みながら渋い顔をする。
「当たり前でしょ。このままほっといたら死んじゃうよこの子。早く行くっ!」
「あ、分かった分かった。」
正炎は渋い顔のまま外に飛び出し馬に跨った。
「全く人使いが荒いんだから。旅疲れの一人息子を何だと思っているのか。」
彼は不満そうに馬を走らせてそう呟いた。
数分後、馬の後ろに一人の白髪の老人を乗せて正炎が帰ってきた。老人は正炎の家に着くがいなか、馬を飛び降り家に駆け込む。
「香奈枝!その病気の子供はどこにおる!!」
老人は正炎の母の名を呼び履き物を脱ぎ捨て床間に飛び乗った。
「あ、先生。ここです。」
香奈枝が指差すその布団に老人はバタバタと走りそこに眠る子供の前で座った。そして服を脱がせて容体を見る。
「何処の子だ?風呂を何ヶ月も入っていないようだな。酷い匂いだ。」
先生が胸に聴診器を当てながら呟く。
「先生、そんな事言っている場合ではないでしょう?しっかりと見てあげてくださいな。」
鋼煉はしばらく心音や脈拍などを調べ、木で出来た医療道具でその子供を調べていたが、やがて小さく頷くと医療道具を鞄にしまった。
「大丈夫だ。栄養失調でかなり衰弱はしているが生命力はかなりある子だよ。それより体中に打ち身による痣があるな。」
鋼煉はそう言いながら鞄から紙に包んだ薬と水筒代わりの竹筒を出すと子供に飲ませた。子供は意識が無いながらもコクコクと小さく喉を鳴らし、飲み込んでいる様である。
「これは栄養剤だ。正炎、早く風呂を沸かしなさい。」
正炎はまた渋い顔をして風呂場に移動する。
「全く人使いが荒い。久しぶりに帰ってきて疲れている者を医者までが平気で使うんだから。」
「正炎!ぼやきは聞こえないように言いなさい!」
香奈枝が怒鳴った。
「へいへい。」
小さく呟きながら風呂場に入ると風呂桶にすでに水が張られていたのでおもてに出て風呂用の火を焚く。
香奈枝たちはバタバタと動いている正炎をしりめに汚い子供に気にかけていた。
「しかし、何処の子だろうね。この天下太平の時代にこんなにボロボロで…。」
香奈枝は子供を見る。髪は伸ばしっぱなしでゴワゴワとして埃が固まっているようだ。顔も泥で良く分らない。体はやせ細って痣だらけ、やはり垢と泥などで凄まじい匂いを発している。普通なら近寄りたくも無いような子供だ。
恐らく孤児か捨て子だろうが、それ自体この時代では珍しくなっていた。皆が普通に暮らせるほどの仕事と金を持っていて、孤児などはその地域の施設で面倒を見る体制が出来ていたからだ。
鋼煉は、心配そうにその子供を見る香奈枝に聞いた。
「どうするんだ、香奈枝。とまあ聞いても無駄か。お前さんの考えはどうせ…。」
「当たり。もちろん育てるよ。だってこれも何かの縁でしょ?」
鋼煉は呆れた顔をしたが、香奈枝は嬉しそうである。
「あの、親不孝者の所為で私はいつも一人だしね。あの親不孝者のおかげで。」
火をくべ終えて戻ってきた正炎を睨む。
「おいおい母さん、何でそうなるの。これでも俺は王族の側近なんて名誉を戴いている身だよ?もうちょっと誇りに思ってもらいたいよ。もっとも許音きょおん様は王族でも継承権を持っていないけど。」
「あんたね、少しくらい剣がたって知恵が回っても、ただ一人の母親を置いて都暮らしをしている様な息子は他の者が何と言おうとも親不孝なんだよ。」
「まあまあ香奈枝、落ち着きなさい。こうしてお前さんが不自由無く暮らして行けるのも正炎の持ってくるお給金が有るからこそなんだから。」
先生が香奈枝をなだめる。
「金を持ってくればいいと思っている事自体、気に入らないのよ。あんたのお父さんもそうだったわ。仕事仕事で帰ってこずに、最後は事故で勝手に死んでー、あああ頭くる。」
正炎と先生は苦笑いする。香奈枝はそうは言っても死んだ夫を愛していたし、息子も他に無いというくらい可愛がっているのだ。それを二人は知っていた。
「まあまあ、父さんにだって言いたい事があるだろうけど、何も言えずに墓の下で寝ているんだから、母さんも父さんの事は言うの止めようよ。」
息子になだめられた香奈枝は、子供の様にプーと頬を膨らまして黙った。が、すぐに笑顔に戻り、寝ている汚い子供を見た。
「しかしまあ、本当に汚い子供だね。あんたの子供の頃を思い出しちゃうよ。」
正炎は顔を顰めた。確かに正炎も子供の頃は風呂嫌いの悪戯好きで、こんなにでは無いにしろいつも汚れて怪我をしていた。
香奈枝は懐かしむ様な顔をしているが、正炎はとぼけた顔をして黙り続けた。子供の頃の思い出話は親にとっては楽しいであろうが、子供にとっては過去の傷でしかない。ここは黙るしかないと正炎は考えていた。
しばらくの間、沈黙が続き、正炎はハッと気づいたふりをして「馬に餌をーー。」とか言いながら外に出ていった。
香奈枝は子供の様子を見ていてその横で鋼煉が薬の準備をしていると正炎が戻ってきた。それに合わせて鋼煉が口を開いく。
「さあさあ、もう風呂も沸いた頃だろう。この子を連れてきなさい。」
そう言って鋼煉はかってしったる他人の家という感じで風呂場に歩いていった。
風呂場に着くと、小さな風呂桶で水が少ない所為か、すでにいい感じで湯気を出している。鋼煉は手に持っていた紙に包んである薬を風呂に入れてかき混ぜた。すぐに風呂が漢方薬臭くなる。
「さあ、入れなさい。」
「何です?それ。」
正炎が聞く。
「打ち身に効く薬だ。こいつで体を温めればどんな打ち身もたちどころに直ってしまうという秘薬中の秘薬。」
鋼煉の説明に正炎が頷く。その時、香奈枝は子供の服を脱がして声を発した。
「おや?この子女の子だよ。」
「え!!?」
正炎が驚きの声を上げた。
「何だ気付いていなかったのか?」
「先生は知ってたの?」
「当たり前だ。早く入れてやれ。ついでに体も洗ってやるが良い。」
香奈枝は汚い裸の子供を抱きかかえ、風呂桶の縁にひじをかけた。そして、子供を湯にゆっくりと浸けていき、ホッとした後、それを見ている正炎に怒鳴る。
「何を見てるんだい、この助平が。さっさと向こうに行ってこの子が着れる服でも探して来ないかい。」
「あ、そうか。」
正炎は狭い風呂場から飛び出していった。
「全く馬鹿なんだから。しかし、大丈夫かねこの子。」
「大丈夫だろう。ほら、辛そうな表情が和らいできた。もう大丈夫だ。私は向こうで茶でも戴いているよ。」
「あ、どうぞどうぞ。勝手に入れて飲んでくださいな。」
鋼煉は笑いながら風呂場を出て行く。香奈枝は子供の体が大分暖まると、一度洗い場に出して、石鹸水を垢取りタオルに付け子供の体を優しく洗い始めた。
「おやおや、汚れがとれてくると可愛らしい顔が出てきたじゃないか。」
香奈枝はニコニコしながらその意識の無い子供を洗い続けた。
「先生、そんな所でおいしそうに茶など飲んでいないで見て下さいよ。あの子供の服はこれでいいと思いますか?」
「何で私に聞くか?私がお前の家の服の事など知るか。大体子供の服など有るのか?」
「あるんだね、それが。母さんはどうも捨てるのが苦手らしく、残っているんだなこれが。」
正炎は男の子用の子供服をパッと開いて見せた。古い生地で色が少し変わっているが穴も空いておらずきれいに保存されていて、今着ても全然おかしくない。
「その小さな服はお前の服か?」
「そういう事。どうです?俺もこんなに小さい頃があったんだ。」
「わずか数年で馬鹿みたいにでかくなりおって。お前幾つになった。」
先生は茶をズッとすすりながら、話をする。
「今年で十六。それが何か?」
「そうは見えないほど老けとるなお前は。しかし、十六で王族の側近とは素晴らしい。」
正炎はニコリとした。そういう表情をするとまだ少年の顔が現れる。
「ははは。ま、俺は十二で元服し、戦が無くなったこの時代に手柄は立てられないけど、城の剣術大会で二度ばかり優勝しましたからね。今仕えている許音様に目を付けてもらったわけです。もっとも許音様にしてみれば同年代の友人みたいなのが欲しかっただけかもしれませんが。」
ずずずずっと茶を飲み干すと鋼煉は湯飲を床に置いた。
「自慢はしても良いぞ。だが母を大切にする事は忘れぬ事だな。」
「分っていますって。ここに俺がいるのは母さんのおかげですからね。」
「そうさ。私のおかげだ。が、そんな事はどうでもいい。正炎、お前は服を見つけたのかい!」
香奈枝は両手に大事そうに子供を抱きかかえて怒鳴った。正炎は今見つけた自分の古着を慌てて渡す。
「これでいいかい?俺の古着しかないんだ。」
「ま、いいでしょう。とりあえずはこれを着せておきましょう。」
香奈枝は古着の袖を子供に通すと布団に寝かした。
「はは、正炎、見てみな。こんなに可愛くなったよ。」
「どれどれ。」
正炎が布団に眠る子供の顔を見た。それは色白で整った顔立ち、髪はまだ濡れているが艶やかで美しく長い黒髪であった。
「母さん、こうして見るとこの子何処かのお姫様に見えるな。何であんなにボロになっていたんだろう。」
「分らないわね。とりあえず気が付いてから色々聞いてみましょう。あんたは先生を送ってきてね。」
「へいへい。んじゃ先生行こうか。」
先生は立ち上ると履き物を履いた。
「香奈枝や、何か会ったらすぐにまた呼ぶのだぞ。それから今日の薬代は正炎から取りたてれば良いのだな?」
「あ、この前の薬代も正炎からとっておいて。ありがとう先生。」
「いやいや。それではな。」
正炎はまた渋い表情になったが何も言わず、先生と家から出ていった。
「なんだかね、あたしとした事がこの子に母性愛を感じちゃうじゃないか。」
香奈枝は子供の頭を何度も何度も撫でた。それに呼応するように子供の寝息が穏かに規則正しく行なわれた。
次の日、朝早く正炎は大きな歓喜の声に起こされた。昨日からこき使われたあげく寝坊も出来ないのかと、ブツブツと口にする。しかし、母を怒らすと怖い。彼は仕方なく眠気眼のまま寝間着をだらしなく引きずって居間に歩いていった。
「どうしたの母さん。」
「この子が目を覚ましたのよ。」
正炎は嬉しさに目が一気に覚める。あれだけ自分がこき使われた原因だ。喜ばない訳が無い。しかし、正炎が見た時、子供はブルブルと怯えて床間の壁際で小さくなっていた。
「どうしたのこれ。」
「怯えているのよ。さっきから声をかけても駄目なの。」
正炎は子供に近付いていってその前にしゃがんだ。
「おい、お前。名前は何てんだ?何で怯えてる?」
正炎はこれ以上無いと言うくらいの笑顔で猫なで声を出した。しかし、子供は一層怯え、恐怖で涙を流し始めた。しかし、声は相変らず発さない。
「何か酷い事でもしたんじゃないの?凄く怯えていて口さえきけないみたいだぞ。」
「あたし何もしてないよ。朝食作ってたら気付いたみたいだったから、目が覚めた?って声をかけただけよ。近付いても無い。」
「でも、この怯えかたは異常だな。それにこの子おかしいよ。気付いている割には全然目を開けていないし。」
正炎の言う通り確かに目を開けていない。怯えて警戒をしているようだが、涙が流れている目はつむったままだ。香奈枝は震える子供に近づき顔を確かめた。
「本当だわ。何でかしら。」
そう言った香奈枝に子供は何かを感じたのか急に香奈枝に抱き付いた。怯えた子が母に抱き付くように。
「あれ、どうしたんだろうこの子。急に抱き付いてきて。」
「とりあえず鋼煉先生を連れてくるよ。目が見えないみたいだ。」
正炎は寝間着のまま家から飛び出すと、馬に跨り走っていった。
正炎が鋼煉を連れてきて家に入ると未だ香奈枝と子供は正炎が出ていったままの姿であった。
「この子、怯えたまま放してくれないのよ。先生、どうしよう。」
鋼煉は呆れた顔をしたが、すぐに子供をひっぺがえして診察を始めた。子供は怯えたままじたばたと暴れ何度も逃げようとするが、香奈枝が後ろから押さえて耳元で何度も大丈夫だからと優しく言うと、暴れるのを止めた。が怯えて震えているのは変わらない。
鋼煉は子供の目を片側から開いて枝に点した火を何度も近づけたり遠ざけたりした。その後色々な言葉を子供に話し掛けるが全然反応が無かった。
「駄目だな。目は完全に見えていない。いや、眼球や神経の組織に異常は無いが、恐らく凄まじい心の衝撃を受けて、もしくは信じられない物を見て見る事自体を拒否したのか…。まあ、その時の影響で言葉も失ったようだ。」
「それじゃ、どうすれば。」
香奈枝が心配そうに聞く。
「目の方は分らぬが、言葉の方は少しずつ教えていけばすぐに覚えるだろうよ。ま、お前さんにはなついているようだから、気長に行く事だな。」
子供は診察が終った事を察知したのか香奈枝の胸元に顔を埋め怯えている。それを香奈枝は悲しそうに見つめた。
「…そうですか。」
「何を暗い顔をしているか。この子を育てると言ったのはお前さんだろう。それにその子はまだ七歳ほどだ。少し出発が遅かっただけと思えばよいであろう。」
「そ、そうですね。」
香奈枝が顔をパッ明るくした。
「そうだ、昨日見た痣と体の具合も見ていくか。」
鋼煉はそう言うと怯えている子供をまた自分の方に向けた。そして服を脱がして診察を始めた。子供は怯えてはいるが、危ない者では無いと感じたのか、ブルブルと震えながらもじっとしている。
「うーむ。これは…。」
鋼煉が唸る。
「せ、先生何か…。」
「いや、さっきの診察だけで私が危険の存在でないと気付いたか大人しくなったのでな。香奈枝、この子は案外頭がいいかもしれぬぞ。」
「先生ったら、嬉しい事を言ってくれるじゃないですか。それより体は大丈夫なんですか?」
鋼煉は診察道具を鞄にしまうと頷いた。
「大丈夫だ。体も丈夫な様だな。」
香奈枝はほっとした顔をした。
「そうですか。朝っぱらからありがとうございます。どうです、朝ご飯をご一緒にしていきませんか?」
「おお、それは有り難い。実は飯はまだでな、腹が減って仕方なかったのだ。それにお前さんの味付けは久しく味わっていないしな。」
香奈枝は赤い顔をして台所を指差した。
「すみません。料理の途中でこの子の事が気になりまして…。」
台所では寝間着のまま正炎が料理の続きをしていた。
「先生、母さんの味付けで無くてごめんな。でも、料理は俺の方が上手いんだぜ。ほうら魚入りの粥だ。貧相だが、味付けは天下一品だ。」
正炎は出来上がった料理の大きな鍋をよいしょと運び、居間の床に鍋を置くと椀を配った。
「さあ、腹一杯食ってくれ。特にその子は栄養を沢山付けなくてはな。って、母さん名前はどうする?」
「名前ね。桜恋。」
正炎が表情を顰めた。
「名前、考えていたの?」
「違うのよ。昨日この子を湯に入れたら首の所に桜の花の形をした痣が浮かんできたのよ。で桜の恋で桜恋。いいでしょ。」
「そりゃ、別にいいけど…。」
「この子美人になるわよ。ね、桜恋。ご飯にしましょうね。」
香奈枝は椀に鍋から粥を盛ると、診察後から大人しく香奈枝の横に座っている桜恋に粥を食べさせ始めた。
「あああ、なんだかな。先生、どう思う?」
「あ、ああ。い、いや、いんじゃないか。」
鋼煉は心なしか青い顔をしている。しかし、平静を装って飯を食い始めた。そして飯が食いおわると青ざめたまま仕事があるからと慌てて家を飛び出した。正炎は椀を持ったままその後を追いかけ、鋼煉の背中に叫ぶ。
「先生!ちょっと待ってよ。これ食ったら送るから!」
「いやいい!私は歩きたいんだ!」
鋼煉は叫びかえしてさっさと行ってしまった。正炎は椀の飯を食べながら振り向き香奈枝に言う。
「どうしたんだろうね。」
「さあ。急ぎの患者でもいたんじゃないの?」
その様子を目をつむったまま不思議そうな顔をして見上げる桜恋。先程まで震えていたとは思えぬ程香奈枝の近くでは安心しきっている様だった。そして、桜恋のそんなしぐさを少し可愛く見えてしまった正炎はプルプルと首を横に振った。
「いかんいかん。俺まで母さんの様になってしまってはしまらんぞ。」
正炎はそう呟いた。
正炎はなるべく桜恋を可愛く思わないように心がけていた。だらしなく猫かわいがりする剣士の姿はみっともよいものではない。しかし、七日に一度家に帰る正炎は、帰るたびにその心がけが崩れていった。帰る度に言葉を覚え、目は見えずとも自分にもなついてくる少女を正炎はだんだん可愛くて仕方いなくなっていく。そして、可愛い妹が出来た気分の正炎は家に帰るのが楽しみになってきたのであった。
家に帰ると気配で分るのか、すぐに飛んでくる。そして深々とお辞儀をすると可愛らしい声で言う。
「兄様、おかえりなさいませ。」
そして、正炎が「ただいま。桜恋。」と名前を呼んでやると嬉しそうに抱き付いてくるようになった。
こうなっては恥じも外聞も無い。みっともないと思いながらも嬉しさに鼻の下を伸ばしてしまうのだ。
「全くみっともない。」
香奈枝にそう言われながらも、そんな事はもう気にしてはいられなくなってしまっていた。帰る度にお土産と言っては奇麗な服やおいしいお菓子などを買ってくる様になってしまった。
「お前は母さんには何も買ってくれないのね?誰がそれだけでかくしてやったと思っているんだい。」
香奈枝は自分には一度も買ってこないのでふてくされる。すると、桜恋は正炎が持って帰ってきた土産を困ったように母に差し出すのだ。
「いいんだよ、桜恋。私はあの親不孝者を懲らしめているだけなんだから。お前は正炎にもらった物を大事にしなさい。」
「はい、母様。」
そんな桜恋の仕種を香奈枝正炎共に可愛くて仕方なく感じていた。他人が見たら馬鹿親子と思えるほどである。
桜恋は目が見えないのでめったに外には出ないが、家の中なら香奈枝の手を借りなくても自分で歩きまわれる様になっていた。
勉強や作法は、香奈枝が正炎を教えてきた実績がある。丁寧にそして何処にでも通じる物を教え込んでいる。
何年かすると、動作や喋りかたまで上品になり、それだけ見たら何処かのお姫様かと思う程まで成長した。桜恋十二歳。しかし、未だ目は見えなかった。
先生は青くなって慌てて帰った日の事を忘れたように普通に接して、あの日の事は忘れたようだった。香奈枝は気になって何度か聞いたが、何でもないとの一点張りである。
平和な日々が続いている。




