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隠れ魔王候補  作者:
スライムでした
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8/9

8

山に入って半日が経った。


霧は晴れず、道はなかった。俺はただひたすら、遠くに感じた魔力の残滓を頼りに木の根の間を転がり続けた。魔力の気配はいつの間にか消えていて、今は方角さえ定かではない。


腹が減った……いや、魔力が枯渇しかけている。スライムの感覚で言えば「腹が減った」に近い状態だ。何か吸収しないと、核が萎んでいく。


虫を探して地面を這っていたとき、俺は気配を感じた。


真後ろ。重い。速い。


振り返る間もなかった。何かが、俺の核を直撃した。


岩のように硬い前脚が俺を地面に叩きつけ、そのまま樹の幹に激突させた。視界が歪んだ。


――なんだ、こいつは。


距離を取って向き直る。そいつは、山猪だった。ただしエクシリアの山猪は、地球のイノシシとは比べものにならない。体長二メートルを超える黒い巨体。牙には緑色の毒が滲み、蹄には土を削る爪が生えている。背中の剛毛は槍のように逆立っていた。


魔獣・鋼牙猪。確か、この山域に生息する中堅クラスの魔物だ。俺が今のステータスで戦える相手じゃない。逃げろ。


俺は逃げようとした。しかし鋼牙猪の方が速かった。


二撃目が来た。今度は牙だった。俺の核を横から掠め、粘液が飛び散った。痛い。スライムに痛覚があるのかは分からないが、核が軋んだ。体力が削れた感覚があった。


三撃目。回避した。四撃目。回避できなかった。


地面を転がりながら、俺は気づいた。


……逃げられない。足が速すぎる。こいつは俺を獲物と認識して、逃がすつもりがない。


体力が半分を切った。思考が、妙に澄んだ。


昨夜、仲間がやられた。ゼノスが貫かれた。ルシアが叩きつけられた。俺は逃げた。何もできなかった。ただ逃げた。


――もう、逃げるのはうんざりだ。


鋼牙猪が五撃目を繰り出した瞬間、俺は逃げなかった。前に出た。


巨大な牙が迫る刹那、俺は全粘液を牙の根元に巻きつけた。スライムの本能的な吸着。地面に張りついたときと同じ力で、猪の牙に喰らいついた。猪が首を振った。俺は振り飛ばされなかった。


そのまま這い上がった。牙から鼻面へ、鼻面から眉間へ。猪が頭を振り回す。俺は振り落とされるたびに吸着し直し、また這い上がった。無我夢中だった。戦略なんてない。ただ離れたら死ぬと分かっていたから、喰らいつき続けた。


眉間まで辿り着いた俺は、全魔力を核に収束させた。


昨日、粘液を爆発させてダンジョンを跳び上がった。同じことができるはずだ。ただし、今度は外じゃなく――内側に向けて。


俺は猪の眉間に吸着したまま、魔力を一点に絞り込み、叩き込んだ。


鈍い音がした。


猪の脚が止まった。膝が折れ、巨体がゆっくりと横に倒れた。地面が揺れた。木の葉が一斉に舞い上がった。


俺は猪の眉間に張りついたまま、動けなかった。魔力がほぼゼロになっていた。体力も、残り僅かだった。


……勝った?


猪は動かなかった。


……勝った。


俺はゆっくりと、猪の眉間から離れた。その場に、ぐったりと広がった。山の地面の冷たさが、粘液全体に伝わってきた。しばらく、呼吸した。いや、スライムに呼吸はないが、それに相当する何かをした。


無茶だった。完全に無茶だった。体力が後一削りあればやられていた。


しかし生きている。


倒れた猪を見た。巨大な身体が横たわり、緑の毒が牙から滴っている。そのとき、スライムとしての本能が、じくじくと疼いた。


……吸収、できるか?


俺は粘液を猪の身体に這わせ、少しずつ、吸収を始めた。魔力が流れ込んでくる。体力が回復していく。そして――


何か、違うものが流れ込んできた。


熱い。核の中が、今まで感じたことのない熱で満たされていく。猪の筋肉の記憶か、本能の記憶か、何か根本的な情報が俺の核に刻み込まれていくような感覚だった。


吸収が完了した瞬間、ステータス画面に光が走った。


SKILL ACQUIRED

『捕食変身』

……捕食変身?


俺は恐る恐る、スキルを発動しようとした。意識を向ける。鋼牙猪の形を、思い浮かべる。


身体が、動いた。


透明な粘液が膨張し、黒い剛毛が生え、四本の太い脚が生え、二メートルを超える巨体が形成されていく。牙が伸びた。蹄の爪が地面に食い込んだ。視点が一気に高くなった。


俺は、鋼牙猪になっていた。


……すごい。完全に、あいつと同じ身体だ。重い。力がある。さっきまで俺を吹き飛ばしていた前脚が、今は俺のものだ。


試しに地面を蹴ってみた。身体が弾丸のように前に飛び出し、太い幹の木を正面から粉砕した。破砕音が山に響き渡り、木が根元からへし折れた。


……強い。こんなに、強い。


俺はゆっくりと変身を解いた。粘液が収縮し、直径三十センチの透明な球体に戻る。また、最弱のスライムだ。しかし今は、違う。俺には今、別の形がある。


これだ。戦略が、見えてきた。魔王の眼で情報を制し、捕食変身で形を変える。俺の本体はスライムだから、捕食したどの形にもなれる。誰も、俺の本当の姿を特定できない。


山の木々の向こうに、陽が傾き始めていた。


俺は鋼牙猪に変身したまま、山の奥へと踏み込んだ。今度は速かった。巨体が木々をかき分け、斜面を駆け上がる。さっきまで遠く感じた魔力の気配が、また微かに感じられた。


誰かに会う前に、もっと吸収しておきたい。強くなる方法が見つかった。ならば、やれるだけやる。


山の奥から、風が吹いた。今度は昨夜の冷たい風とは違った。熱を帯びた、何かを予感させる風だった。


スライムが、鋼牙猪の姿で山を駆ける。最弱の魔物が、初めて自分の脚で大地を踏み鳴らした。

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