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山を越えた先に、湖があった。
正確には、湖だったものがある。直径三百メートルほどの水面は黒みがかった深緑色で、波一つ立っていない。周囲の木々は水際で枯れ、根が水に浸かったまま白く漂白されていた。生き物の気配がない。風も、虫の音も。ただ水面が、鏡のように暗い空を映していた。
……嫌な場所だ。
しかし、魔力の気配はここから来ていた。水の下から。
俺は鋼牙猪の変身を解き、スライム本来の姿に戻った。水辺にずりずりと近づき、水面を覗き込む。深い。底が見えない。しかし水中に、何かが沈んでいた。石造りの柱。苔に覆われた壁。崩れかけたアーチ。
水没したダンジョン、か。スライムなら水中でも動ける。問題は中に何がいるか、だが……
そのとき、俺の核の中で何かがずれた。
ずれた、という感覚以外に表現できない。封印されていた何かが、ほんの少しだけ、隙間を開けた。視界が変わった。いや、視界ではない。認識が変わった。
水面を見ると、今まで見えなかったものが見えた。水没した神殿の全体像が、透過するように輪郭を結んだ。そして各所に、光の点が灯っている。青い光。赤い光。白い光。それぞれが、何かの存在を示しているように見えた。
ステータス画面が、音もなく展開した。
― 魔王の眼 第一層 開眼 ―
解放条件 死に瀕した状態での戦闘勝利により
封印の第一層が自動解除
新スキル① 『魔王鑑定眼』
効果 対象の種族・魔力量・スキル名・現在状態を看破する。
ただし魔王候補への使用は「鑑定された」感覚が相手に伝わる。
新スキル② 『魔核収束撃』
効果 核に魔力を収束させ、接触点から衝撃波を解放する。
鋼牙猪戦で使用した技の正式発現。
候補者接触数 63 / 100(残り37名)
鑑定眼……それに、あの猪への一撃がスキルとして定着したのか。
俺は試しに、眼前の水面に鑑定眼を向けた。情報が流れ込んでくる。
対象:【水没神殿 煌底宮】
分類 古代遺跡型ダンジョン(水没)
深度 水面下 約80メートル/全7層
危険度 A〜S(層により変動)
主要魔物 深海蟹・幽光水母・古代守護像・深淵鰻
特記事項 最深部に未解析の魔力反応あり
A〜S級……完全に自殺行為だ。しかし。
俺は最深部の魔力反応を見つめた。鑑定眼でも解析できないその反応は、淡い金色をしていた。生き物ではない。何か、物体だ。それも、強烈な魔力を帯びた。
……仲間の手がかりがあるかもしれない。それに、今の俺に必要なのは力だ。吸収できる魔物が下にいるなら、潜る価値はある。
スライムは水中でも生きられる。核さえ守れれば窒息しない。それが最弱の魔物である利点のひとつだった。俺は水面に触れた。冷たかった。そのまま、沈んでいく。
水中は静かだった。音が、変わった。低く重い沈黙の世界。差し込む光は水面から遠ざかるにつれて消えていき、やがて完全な暗闇になった。しかし俺には見えた。鑑定眼が捉えた構造図が頭の中に展開され、進むべき道が光の線で示されている。
水没した石柱の間をすり抜けながら、第一層へと入った。天井は崩落し、床には厚い藻が積もっている。壁画が残っていた。かつてこの神殿を造った者たちの姿が、浮き彫りで刻まれていた。人型ではなかった。長い尾を持ち、無数の腕を広げた、巨大な何かを崇めている者たちの姿。
誰かが、ここで何かを祀っていた。
深海蟹が来た。体長一メートルほどの黒い甲殻。八本の脚が水中で滑らかに動き、鋏が俺に向いた。鑑定眼を走らせる。
腹部が弱点。そして関節。……鑑定眼があれば、戦い方が根本から変わる。
俺は鋼牙猪に変身した。水中では動きが鈍るが、質量と魔力は変わらない。深海蟹が鋏を振るう瞬間、俺は下に潜り込み、腹部に魔核収束撃を叩き込んだ。甲殻が内側から割れる音がした。深海蟹が水中で痙攣し、動きを止めた。吸収する。水中での機動力が手に入った。
深海蟹に変身した俺は、第二層、第三層と下っていった。層を降るごとに水圧が増し、光は完全に消えた。第四層で、幽光水母の群れに遭遇した。半透明の傘が青白く発光し、数十体が天井付近に漂っている。触手が長い。触れれば麻痺する、と鑑定眼が警告した。
俺は深海蟹の鋏で触手を断ちながら一体ずつ仕留めた。静かな戦いだった。水中では声が出ない。音もほとんどしない。ただ青白い光が消えるたびに、水が少し暗くなった。
その群れの中に、一体だけ色の違う個体がいた。深紅の傘を持つ幽光水母。鑑定眼を向けると、情報が跳ね返された。
……鑑定が弾かれた?
それは弾かれただけでなく、逆に俺を見た。深紅の幽光水母がゆっくりと俺の方を向いた。触手が束になって迫る。俺は深海蟹の変身を解き、スライムに戻って全身を収縮させた。触手が俺を貫通した。粘液が分かれ、通過させた。
スライムのまま戦う。貫通させて、やり過ごす。
俺は核だけを守りながら、粘液を水母の傘に絡めた。そして魔核収束撃。深紅の発光が一瞬強まり、それから消えた。吸収する。
俺はさらに深く沈んだ。第五層、第六層。古代守護像のゴーレムを鑑定眼で弱点を割り出して仕留め、深淵鰻の群れを魔力放電で薙ぎ払った。戦うたびに形態が増え、核に刻まれる情報が厚みを増していく。
そして、第七層。最深部。
そこは広い空間だった。水没しているにも関わらず天井には古代の発光石が埋め込まれていて、薄い青白い光が満ちていた。床には複雑な紋様が刻まれ、その中央に台座があった。
台座の上に、それはあった。直径二十センチほどの球体。石でも金属でもなく、まるで凝固した光のような質感。内側で金色の光が揺れていて、まるで呼吸しているように膨らんだり縮んだりしている。
俺は鑑定眼を向けた。
対象:【煌底の核珠】
分類 古代魔王遺物・封印球
効果 魔王候補が吸収した場合、魔核の容量を恒久的に拡張する。
吸収した形態の魔力上限が二倍になる。
警告 吸収の瞬間、全魔王候補に位置が漏洩する
俺は台座の前で、動きを止めた。
……魔核の容量が二倍になる。これは欲しい。間違いなく欲しい。しかし吸収した瞬間、全ての魔王候補に俺の位置が知られる。大魔王派の首領にも。
しばらく、考えた。水中の静寂の中で、金色の光が俺の透明な核を照らした。
……逃げ続けるだけなら、何も変わらない。深紅水母に変身して気配を遮断すれば、吸収直後でも時間は稼げる。やる。
俺は決めた。粘液を伸ばして核珠に触れた。温かかった。水の冷たさとは全く異なる、内側から灯るような温かさ。吸収が始まった瞬間、何かが世界に伝播するのを感じた。波紋のように広がる信号。全ての魔王候補に、俺の存在が届いた。
その刹那、俺はすぐに深紅水母に変身した。発光を殺し、魔力を体内に閉じ込め、気配を断った。水の中が、少し揺れた気がした。遠くで、何かが反応した気配。しかしそれは、すぐに静まった。
俺は深紅水母の姿のまま、ゆっくりと上昇を始めた。七層、六層、五層と水を遡る。発光を消したまま、気配を殺したまま。
第一層まで戻ったとき、水の外から何かが降りてくる気配を感じた。人影だった。水中に飛び込んできた、人間のシルエット。速い。そしてその魔力量が尋常ではなかった。俺は咄嗟に岩陰に隠れ、鑑定眼を走らせた。
情報が弾かれた。
……鑑定が通らない。魔王候補か。それも、相当上位の。
人影は俺の隠れている岩の近くで、ぴたりと止まった。水中で静止し、ゆっくりとこちらを向く。
そこにいたのは、少女だった。水中なのに長い銀色の髪がふわりと広がっている。肌は青白く、瞳は金色。耳の先が鋭く尖っていて、背中には膜状の薄い翼が畳まれていた。海妖族、か。しかし普通の海妖族ではない。その金色の目が、俺の隠れている岩を真っ直ぐに見ていた。
ゆっくりと、口が動いた。水中なのに声が伝わってくる。魔法による伝達だ。
「……核珠を取ったのは、あなた? 気配が消えてる。でも……居るのは分かる。核の揺らぎが、まだ残ってるから」
俺は動かなかった。深紅水母の形を保ったまま、岩陰から少女を見た。
「私はシェル。海妖族の魔王候補。あなたを探してた。……ルシアが、生きてる。伝言を預かって来た」
核が、震えた。
……ルシアが、生きている。
俺はゆっくりと、岩陰から出た。深紅水母の発光が、青白い神殿の光の中に滲んだ。少女――シェルが、微かに目を細めた。
「……スライムね。なるほど、だから気配が読めなかった。面白い候補者」
俺は変身を解き、透明なスライムの姿に戻った。ありのままの、最弱の姿で、シェルを見た。
「……話を聞かせてくれ。全部」
シェルは小さく頷いた。




