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それは、何の前触れもなく起きた。
ゼノスが地図を指差し、大魔王派の動きについて説明していた。夜も更けた頃。ランタンの灯りが六人の顔を照らし、アラクネの羽ペンが羊皮紙に走り、ゴブレンが珍しく真面目な顔で頷いていた。
俺の粘液センサーが反応したのは、その瞬間だった。
――上。天井。複数。
「上だ、全員――」
言い終わる前に、天井が爆ぜた。
石造りの天井が十か所同時に破砕され、黒い影が雨のように降ってきた。暗殺者たち。全員が魔力を帯びた黒鎧を纏い、顔を覆面で隠している。その数、二十を超える。
ルシアが咆哮した。竜人族の変身魔法が発動し、その右腕が鱗に覆われた竜の爪に変わった。アラクネが蜘蛛糸を四方に張り巡らせ、フォレが木の根を床から召喚した。ゴブレンが取り出したのは鍋ではなく、鉄の棍棒だった。
戦闘が始まった。
俺は即座に机の下に潜り込んだ。スライムに戦闘能力はない。しかし、粘液センサーを最大展開しながら、仲間に情報を流し続けた。
「ルシア、右後ろ三時方向に二体!」
「フォレ、足元に潜る奴がいる、根を下に!」
指示を出しながら、俺は全体の状況を把握しようとしていた。しかし――
多すぎる。明らかに多すぎる。これは奇襲じゃない、殲滅だ。
そのとき。
部屋の入り口から、新たな人影が現れた。
誰も気づかなかった。センサーにも引っかからなかった。俺の全知覚を掻い潜って、その人物は音もなくそこに立っていた。
背の高い男だった。深紅のマントを纏い、右手に細身の漆黒の剣を持っている。顔は半分だけ仮面で覆われ、露出した左目が――金色に輝いていた。
あれは、魔王候補だ。それも、俺が今まで感じたことのない密度の魔力を持っている。
男の視線は戦場を一切見ていなかった。まっすぐ、ゼノスの背中に向いていた。
「ゼノス!後ろ――!」
俺の叫びは、一瞬遅かった。
漆黒の剣が、ゼノスの背中を貫いた。
音がした。濡れた、重い音。鎧を、肉を、何かを突き破る音。ゼノスの身体が硬直し、手から地図が落ちた。六枚の黒翼がばさりと広がり、そのまま力を失った。
「……ゼノス!」
ルシアが叫んだ。
男はゼノスの身体を剣ごと前に突き出し、床に倒した。そして初めて、その金色の目が動いた。戦場全体を一瞥して――俺を、見た。
スライムを。机の下に潜む、透明な球体を。
「……いたか。ヴォルク」
低い声だった。感情がない。ただ確認するような、事務的な声。
「お前の眼は、まだ封印されているな。良かった。目覚める前に消す」
男が一歩踏み出した瞬間、ルシアが間に割り込んだ。竜爪を振るい、男の仮面を狙う。
「触れさせるか……!」
しかし男は片手だけでルシアの腕を受け、そのまま壁に叩きつけた。石壁がひびわれ、ルシアが崩れ落ちた。
「竜人族のくせに、弱い。……お前も候補を庇うために力を浪費したか」
男が再び俺に向かって歩み寄る。
アラクネが蜘蛛糸を束ねて男の足に絡めた。フォレが根の槍を三本召喚して前方に突き出した。ゴブレンが棍棒で横から打ちかかった。
男は止まらなかった。
糸は剣で斬られ、根は魔力の一薙ぎで消し飛び、ゴブレンは殴り返されて天井まで吹き飛んだ。アラクネが悲鳴を上げた。フォレが力なく壁にもたれた。
全員、やられた。
俺の核が、冷たく震えた。
部屋の中に、立っている仲間がいない。ゼノスは床に倒れ動かない。ルシアは壁際で意識を失っている。アラクネは糸が切れて蹲り、フォレは根の残骸に埋もれ、ゴブレンは天井の穴から落ちたまま唸っている。
男が俺の目の前に立った。
金色の瞳が、透明なスライムを見下ろした。その目に浮かぶのは、軽蔑でも怒りでもなかった。ただ、虫を潰す前の人間のような、無感動な確認の目だった。
「魔王候補がスライムか。……面白い冗談だ、神も」
剣が振り上げられた。
俺は動いた。
考える前に身体が動いていた。スライムとしての本能か、生への執着か。床に張り巡らせていた粘液を全て一点に収束させ、爆発的な反発力で天井の穴に向かって跳んだ。
剣が空を切った。
俺は天井の穴を抜け、地下九階、八階、七階と壁を跳ねながら駆け上がった。後ろから男の声が聞こえた。
「……逃げたか」
追跡の足音は来なかった。
男はあの場所に留まった。なぜかは分からない。ただ俺は、ダンジョンを飛び出し、夜の野原を転がり続けた。月が出ていた。エクシリアの三つの月が、銀色の光で野原を照らしていた。
俺は転がった。転がり続けた。草を踏み、泥を跳ね、小川を渡り、岩を登り――気がつけば、深い山の中にいた。
足が、ない。疲れた、という感覚が何なのか分からない。しかし、核の中で何かが消耗していくのを感じた。魔力ではない。もっと別の、何か。
俺は岩の影に身を潜めた。
静かだった。虫の音がした。風が木を揺らした。遠くで何かの獣が鳴いた。
……ゼノスが、貫かれた。
思考がそこに戻った。
ルシアが、壁に叩きつけられた。アラクネが、フォレが、ゴブレンが。みんな倒れた。俺が叫ぶのが一秒遅かったから。俺のセンサーが、あの男を捕捉できなかったから。
スライムには涙腺がない。泣けない。
だから俺は、ただ岩の影で、透明な身体を小さく縮めた。




