ポンチャン
場面は変わり二階の座敷へ。
さきほどまでの湯気の名残が、まだどこか肌にまとわりつくように感じられた。
依然、幸子は、誰にも気づかれぬまま、静かにその場に立っていた。
襖がすっと開き、娘が静かに入ってくる。
その向こう、廊下の薄暗がりに、女が立ち尽くしていた。
うつむき、戸口を越えることをためらっている。
「そんな怖がらんでも……赤ちゃん、ここにいはるよ」
娘の声はやわらかく、背を押すようだった。
女は、息を詰めるようにして一歩を踏み出す。
足音さえ忍ばせるように、そろりと座敷へ入ってきた。
窓際にこの二人よりも若い頭に赤いかんざしを刺した娘が立って、小さな赤ん坊を腕に抱いている。
夏の夕暮れの橙色の光が障子越しに淡く差し込み、別の時間のように穏やかだった。
女は、その姿を見るや、はっとしたように駆け寄る。
娘は、少し離れたところから、その様子を見守っていた。
赤ん坊は、何も知らぬ顔で、すやすやと眠っていた。
「よう寝たはります」
頭にかんざしを刺した娘が、静かに言う。
しかし、女は答えず、ただ赤ん坊の顔を覗き込んだ。
その瞳には、言葉にならぬものが揺れている。
「この子、名前、何て言わはるんですか?」
その問いかけに、女はゆっくりと首を横に振った。
「なんや、まだ名無しの権兵衛はんどすか?」
軽く笑うような口調。
しかし、女は、やはり何も言わない。
頭にかんざしを刺した娘は少し考え、ふっと思いついたように顔を上げる。
「そうどすなぁ……先斗町やさかい、ポンチャンかな?」
女は沈黙したままだった。
「でもポンチャンって、なんや、おタヌキさんみたいですね!」
その言葉に、娘がくすりと小さく笑う。だが、女の表情は動かない。
「さっき、赤ちゃん、えらい泣かはって」
と、座ってた娘に近づいて、そっともみじに囁く。
「そうかいな。それでどないしたん?」
「豆ちゃん、舞妓はんより、こっちの方がええみたいどすわ」
と、頭にかんざしを刺した娘を見た。
その言葉に、娘は目を細め、豆千代の腕の中の赤ん坊と、その傍らに寄り添う女の姿を見た。
「それはそうと……あの子、何にもしゃべらへんの。何か辛い事でも、あったんやろか……」
ぽつりと漏らされた言葉が、座敷の空気に溶けていく。
そのとき、不意に外から、低く唸るような音が響いた。
それは、次第に大きくなる――プロペラ飛行機の音だった。
頭にかんざしを刺した娘が顔を上げる。
「ポンチャン、ほら、飛行機!」
腕の中の赤ん坊に語りかけるように、明るく言う。
つられて、女もゆっくりと顔を上げた。
視線は天井を越え、その向こうの空へと向かう。
幸子もまた、同じように見上げていた。
けれど、その音は、ただの飛行機のそれではなかった。
遠い記憶の底をかすめる、不穏な響きを帯びている。
誰にも聞こえないはずの時間の重なりを、幸子だけが感じていた。
座敷には、眠る赤子の静かな息遣いと、空を渡る機影の音だけが、ゆっくりと流れていた。




