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少女たち  作者: 永遠栄作
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浴場

それは、ギラギラと照りつける真夏の太陽の光だった。肌を刺すような光と熱——けれど幸子には、その暑さがどこか遠いもののように感じられた。


ここは——先斗町。


見慣れているはずの景色が、どこか違っている。舗装も古く、空気は乾いて、街の色そのものが淡く褪せているようだった。


耳をつんざくような蝉の声の中、幸子はひとり、通りの端に立っていた。


昭和二十一年、葉月。また、その言葉が頭の中を駆け巡った。


ふと、陽炎の向こうに人影が揺れた。若い女だった。汚れた着物をまとい、背には赤ん坊を背負っている。足取りはおぼつかず、今にも崩れ落ちそうにふらついている。


幸子は息を呑んだ。知らないはずなのに、目を離せなかった。女は数歩進んだところで、力尽きたように身体を傾けた。


その瞬間——


「だ、大丈夫?」


通りかかった若い娘が駆け寄り、女の身体を支えた。それは、あの「もみやん姉さん」と呼ばれた女だった。では、歩いて来た女は、あの彼女。


女は虚ろな目でその娘を見つめると、力なく身を預ける。幸子は思わず一歩踏み出した。けれど——触れられない。声も届かない。ただ、見ていることしかできない。胸の奥が、じわりと締めつけられる。——どうして、こんなにも気になるのだろう。


やがて場面は、まるで流れるように移ろった。置屋 福富の玄関先。娘が女を支えながら駆け込んでくる。


「お母ーさーん!」


板張りの廊下の奥から慌てた足音が聞こえて来る。現れたのは、あの年嵩の女だった。ここの女将なんだろうか。


女将が、気を失った女を抱えた娘に問いかける。

「その子、どないしたん!?」


「歌舞練場の前で倒れかけてはったんどす」


幸子は、そのやり取りを少し離れた場所から見つめていた。不思議だった。声ははっきり聞こえるのに、自分だけがこの世界から切り離されている。


「背中に……赤ちゃんが……」


娘の言葉に、幸子の視線が引き寄せられる。女の背に眠る、小さな顔。静かに息をしている赤ん坊。


その寝顔を見た瞬間——なぜか、胸がざわついた。理由はわからない。ただ、ひどく懐かしいような、そして怖いような感覚が胸の奥に広がった。


場面は変わった、二階の座敷。窓の外には鴨川が流れ、遠くに東山の稜線が霞んでいる。赤ん坊は布団に寝かされ、芸妓たちが取り囲んでいた。


「可愛い顔したはんなぁ」

口々に言いながら覗き込むその様子を、幸子は静かに見守る。先ほどのあの女の姿は、ここにはない。と、突然、赤ん坊はふと泣き出した。小さな泣き声が、座敷の空気を揺らす。どうしていいかわからず慌てる芸妓たち。その光景に、幸子は思わず苦笑しかけ——ふと、胸の奥が痛んだ。あの人は……どこにいるの……


と、場面は移る。浴場。湿った空気が、ゆるやかに肌にまとわりつく。幸子は、置屋の浴場の脱衣場に立っていた。湯気が戸の隙間から白く滲み出し、ぼんやりと空間を曇らせている。娘が、手際よく浴衣の用意をしている。その動きには慣れがあり、どこか落ち着いて見えた。戸の向こうでは、水の揺れる音がかすかに響いている。女が湯船に浸かっているのだ。


娘が、戸の方へ顔を向けた。


「大丈夫?」

やわらかい声が、湯気の向こうへ投げかけられる。——返事はない。


娘は一瞬手を止め、心配そうに戸の方へ歩み寄る。そして、そっと中を覗き込んだ。幸子も思わず、その視線の先を追う。


湯船の中で、女がゆっくりと動いた。次の瞬間——その顔が、水の中へ沈んだ。ぼこり、と小さな泡が浮かび上がる。


娘は首をかしげて、不思議そうに様子を見つめている。時間が、妙に長く感じられた。

やがて——場面が、静かに移ろう。


脱衣場。

女は浴衣を羽織り、無言で身支度をしている。濡れた髪が肩に張り付き、その肌は赤く焼けて痛々しかった。娘が、その姿をじっと見つめる。


「えらい 焼けて 痛とない?」

女は、わずかに首を横に振った。

それだけだった。

言葉は、続かない。

娘は少し間を置いてから、また問いかける。


「どこから 来はったん?」


——沈黙。


女は何も答えない。視線を落としたまま、ただそこに立っている。


幸子は、その横顔を見つめていた。何かを隠しているというより、何もかも言葉にできない——そんな沈黙に見えた。


「お名前は 何てゆうの?」

それでも、娘はやさしく尋ねる。


だが——「・・・」


返ってくるのは、やはり無言だった。


幸子の胸に、わずかな痛みが走る。


言わないのか。言えないのか。その違いすら、その時はわからなかった。


娘は、ふと視線を落とし、女が着ていた汚れた衣服に目をやる。


「着てたもん 洗濯するし このお守り取っとくね はい!」

と、小さな布のお守りが、娘の手から差し出される。女は、それを静かに受け取った。


——その瞬間だった。幸子の視界が、凍りついた。

差し出された小さなお守り。色は付いているが、はっきりとわかる。

見覚えがある——どころではない。知っている。触れてきた。ずっと、持っていた。

心臓が、大きく脈打つ。

息が詰まる。

足元が崩れるような感覚。

そんなはずはない、と頭のどこかで否定する声が響く。

けれど——間違いようがなかった。

あの形。

あの結び目。

今まで、何度も指でなぞった布の感触まで、蘇る。

誰にもらったのか、わからなかったお守り。気がついた時には、いつも手元にあったもの。それが、今、目の前で、女の手に渡されている。

理解が追いつかない。

時間の流れが、ねじれていく。

自分が持っていたはずのものが、まだ“ここ”にあるはずのない過去に存在している。


そのお守りを受け取った女は、静かに頭を下げた。ただそれだけの仕草が、幸子のすべてを揺さぶった。言葉にならない懐かしい感情が、胸の奥に渦を巻く。

でも、まだ、結びつかない。けれど確かに——何かが、音を立てて動き始めていた。幸子はただ、その場に立ち尽くしながら、過去と自分とが、ゆっくりと繋がっていく気配を、震えるような思いで見つめていた。幸子はただ、湯気の中に静かに立ち尽くしたまま、過去の断片を見守り続けていた。




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