もみじ
その瞬間、まばゆい光に包まれた。
視界が白く弾け、意識が引き裂かれるように遠のく。
そして――再び、気がついたとき。
そこはまた、昭和二十一年の冬の木屋町だった。
冷たい風が頬を刺し、どこかでかすかな生活の気配がする。
まるで、時間そのものに翻弄されているかのように。
幸子は、ただ立ち尽くしていた。
と、幸子の視界にあの女がいた。彼女は、高瀬川の畔でしゃがんで猫に餌をやっていた。
すると、路地から日本髪を結った若い女が彼女に近づいて来るのが見えた。
「あんた、よう食べるようになったなぁー」
そう言って、彼女は猫の背中を優しく撫でた。猫は夢中で餌をむさぼり、周りのことなど気にも留めない。
「行儀悪いなぁー。おっちんして食べな。はい、おっちん」
彼女は、そっと猫の背中を押して座らせる。口元にはかすかな笑みが浮かんでいたが、その目の奥には疲れと翳りが宿っていた。
「ほらほら、こぼしてる。そんな慌てんでも、誰も取らへんて。……早よ帰ったげんと、子供、泣いてるで」
その言葉は猫に向けたもののようでいて、どこか自分自身に言い聞かせているようでもあった。
そのとき、近づいて来ていた女が声をかけた。
「小鶴ちゃん」
振り返る彼女。
そこには、柔らかな面差しの中に、どこか覚悟の影を宿した女が立っていた。
「も、もみやん姉ん……」
彼女は顔を上げる。女は静かに歩み寄り、彼女の隣にしゃがみ込むと、猫をそっと撫でた。
「この猫、オス? メス?」
「多分、メスやと思う。さっき、あっちに子猫走っていったもん」
「そっか……小鶴ちゃんと同じ、お母さんやね」
その一言に、彼女は黙ってうなずいた。
しばしの沈黙のあと、女は静かに問いかける。
「小鶴ちゃん、これからどないするつもり?」
彼女の表情がわずかに強張る。
「姉さん、お母さんに頼まれて言いに来はったん? それやったら……昨日、きっぱりお断りしましたし。いくら姉さんでも、お聞きできまへんな」
その声には、かすかな棘があった。けれども女は首を横に振る。
「別に頼まれたわけやないよ。ただ……小鶴ちゃんとポンチャンのこと、ほんまに心配してるんよ。うちらだけやない。春ちゃんも、豆ちゃんも、みんな……」
その優しい声に、彼女はうつむく。
「自分のお腹痛めて産んだ子と別れるんは、死ぬほど辛いやろう。でもな……ポンチャンの幸せを一番に考えたら、そうした方がええんと違うやろか」
言葉は静かだったが、その重さは冷たい冬の空気よりも深く胸に落ちた。
彼女は何も言えず、ただ地面を見つめる。
「かんにん。まだ子供も産んだことないうちが、偉そうなこと言うて……」
女は小さく笑い、すぐに視線を逸らした。
やがて、ふとしたように言葉を変える。
「……うち、もうここから出なあかんかもしれへんの」
小鶴が顔を上げる。
「お相手さんから、東京に来るようにって言われてんの」
「東京……?」
「うん。まぁ、古い鳥籠から新しい鳥籠に移るだけやけどな」
女はそう言って笑ったが、その笑みはどこか空虚だった。
「せやけど……うち、生まれてこの方、京都から出たことないんよ。東京って……どんなとこやろな」
視線は高瀬川へと向けられる。冬の水は鈍く光り、ゆるやかに流れていた。
「東京に、鴨川みたいな大きい川あるんかな。東京に、この高瀬川みたいな綺麗な川あるんかな。東京に、比叡山みたいなお山は……」
言葉は次第に途切れがちになり、やがて声が震え出す。
「東京に……大文字さんみたいに、真っ赤な火ぃつく山、あるんかな……。東京に、清水さんみたいなお寺……」
その先は言葉にならなかった。
「うち……うち……」
ぽろぽろと涙がこぼれる。押し殺していた不安が、堰を切ったように溢れ出していた。
「姉さん……」
彼女はそっと呼びかける。
女は、涙を拭いながら、彼女を見つめ返した。
その視線を受け止め、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「姉さん……あの暑い夏の日のこと、覚えてはります?」
女は、静かにうなずいた。
それは、遠い記憶でありながら、二人の胸に深く刻まれた、消えることのない一日だった。




