再会
また、暗い廊下の奥から、白い煙が、まるで意志を持つかのようにゆっくりと流れて来て、幸子の足元から体全体をおおいくるんだ。
そして、気がつけば、幸子は、夜の小さな川に架かる小さな橋の上にに立っていた。水面は、ネオンの七色の光で輝いていた。明らかに、時代が、少し進んでいた。軒先には新しい看板がかかり、子どもたちの服もどこか色味が増している。川沿いには若者たちの影があり、どこからか流れてくるのは、耳に覚えのあるヒットソング。軽やかで、少し甘く、そして、希望にあふれた歌詞。そして、暑かった。
昭和三十九年。夏。高瀬川。
また、そんな言葉が頭の中に浮かんだ。
胸の奥で、何かがきしむ。……ここは。色とりどりのネオンが川面に揺れ、赤や青や緑の光が、高瀬川の流れに溶けていく。幸子は、その光の中を歩いていた。ふと、ショーウィンドウに映った自分の姿を見た。
えっ?
それは、十八歳の自分であった。
ポニーテールにピンクのブラウスに黄色のパラシュートスカート。
どうして……考えようとすると、胸の奥がざわつく。
そのときだった。高瀬川に架かる小さな橋の欄干にもたれて、ギターをつま弾くひとりの少年が目に入った。いや、少年ではない。もう大人へと足を踏み入れたばかりの幼馴染の雅幸だった。白い開襟シャツに、黒いズボン、頭はリーゼント。指先で弦を鳴らしながら、どこか遠くを見ている。その横顔は、記憶の中よりも少しだけ大人びていた。ふと、雅幸が顔を上げる。視線が、幸子を捉えた。
「えっ? さ、さっちゃん?」
心臓が、跳ねた。幸子は反射的に顔を伏せ、その場を離れようとする。逃げなければ――ふと、幸子の中に、そんな感情が爆発した。
「さっちゃんやろ……そんな逃げんでもええやん……あ! 危ない!」の声と同時に、強く手を引かれた。次の瞬間、幸子の身体が大きく揺れる。足元は、川の縁だった。あと一歩で、高瀬川へ落ちるところだった。
「……あ」息が詰まる。
振り返ると、雅幸がすぐそばにいた。
彼の手が、しっかりと幸子の手首を掴んでいる。
「あ、ありがとうございます……」かすれた声が、ようやく出る。
雅幸は、少し驚いたように、それでも柔らかく微笑んだ。
「えっ!? さっちゃんやんな?」
幸子は、答えられなかった。ただ、うつむく。
「俺、わかる?」
胸が締めつけられる。それでも、言葉は出ない。逃げるように歩き出そうとしたその背に、雅幸の声が追いかけてきた。
「……何かあった?」
その一言に、足が止まった。
※ ※
気がつけば、二人は高瀬川の畔のベンチに並んで座っていた。ネオンの光が水面に揺れ、ゆらゆらと二人の影を映している。
「よー、ここで遊んだな」
雅幸が、懐かしそうに笑う。
幸子は、ただ下を向いたまま、小さくうなずいた。
「俺ら、小さい時、親からほったらかされたもんな」
また、うなずく。その言葉は、痛みと優しさを同時に連れてくる。
「ここで、夜中に二人で鬼ごっこしてたんやんな」
――走った。暗い川沿いを、笑いながら、息を切らして。
「その辺の路地抜けて、木屋町と先斗町、行ったり来たり……」
記憶が、少しずつ輪郭を持つ。
「懐かしいなぁー」
幸子は、またうなずいた。
「秘密基地、覚えてる?」
首をかしげる。
けれど――「ほら、先斗町の路地のどん突きにあった空家」その言葉で、ふっと景色が蘇る。そこは、暗くて、埃っぽくて、それでも二人だけの場所だった。幸子は、静かにうなずいた。
「よー、そこでGIからもろたチョコレート食べたやんな」
そのとき、初めて、ほんのわずかに笑みがこぼれた。甘い味と、秘密のような時間。遠いはずの記憶が、今ここにある。
水面に揺れる光を見つめながら、雅幸はギターの弦を軽く弾いた。
ぽろん、と乾いた音が夜に溶ける。
「俺、今な……そこのラッキーで働いてんねん」
幸子は、ゆっくりと顔を上げた。
雅幸の指が、無意識に弦をなぞる。
「歌手……」その言葉に、幸子の目がわずかに開く。
「やったらええけど……ただのボーイや。でも、いつか、あそこのステージで歌いたいなぁー」
それは、夢を見るような声だった。幸子は、静かに微笑む。変わらない。この人は、昔からずっと、夢を追いかけいる。
「なぁー、覚えてる?」
首を傾げる。
「地蔵盆の、のど自慢大会」
その言葉に、幸子はすぐにうなずいた。
「腕組んでデュエットしたやんな」
思い出す。人前で歌うのが恥ずかしくて、それでも一緒なら平気だったあの夜。幸子は、少しだけはっきりと笑った。
「あれ、何の曲やったけ……」
記憶の中で、メロディがぼやける。
「さっきから何にもしゃべらへんけど、どないしたん?」
その問いに、幸子は作り笑いを浮かべるしかなかった。本当のことなど、言えるはずがない。
「喉でも乾いてる? ジュースでもこうてこうか?」
首を横に振る。そのとき――遠くから、祇園囃子が聞こえてきた。夏の訪れを告げる、あの音。雅幸が、ふと耳を澄ます。
「明日、宵山やな」
幸子もまた、その音に耳を傾けた。胸の奥が、締めつけられる。
「ところで、さっちゃんは今、何してるん?」
その問いに、身体が勝手に動いた。立ち上がる。
これ以上、ここにいてはいけない。急に、幸子の中に、そんな感情がこみ上げて来た。
「どうしたん? 仕事? それか彼氏と待ち合わせ?」
幸子は、後ずさる。そして、深く頭を下げた。言葉の代わりに。すべてを隠すように。
「バイバイ!」雅幸の笑顔と明るい声が、夜に響く。
幸子は振り返らない。
ネオンの通りを横切り、細い路地へと駆け込む。
光が、急に遠ざかる。
胸の奥に残るのは――懐かしさと、痛みと、どうしようもない想いだけだった。




