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少女たち  作者: 永遠栄作
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赤ん坊

そのときだった。

ふいに、空気が揺らいだ。何かがほどけるように、あるいは重なっていたものが静かにずれていくように、世界の輪郭が、わずかに滲む。と、足元に、白い煙が流れ始めた。

それは、高瀬川の水面から湧いていた。そして、その煙は音もなく広がり、ゆっくりと木屋町の通りを包み込んでいった。

別に臭いは、なかったが、人影が淡くにじんでいった。建物の輪郭がぼやける。

色が、少しずつ失われていく。

幸子はその場に立ち尽くし、息をひそめた。

不思議と恐れはなかった。ただ、何か大切なものに触れようとしている——そんな予感だけが、胸の奥に静かに灯っていた。

靄はさらに濃くなる。

目の前が白く閉ざされ、時間の感覚さえ曖昧になっていく。

どれほどそうしていただろうか。

やがて——ほんのわずかに、風が動いた。

靄が、ほどけるように流れ始める。

薄く、ゆっくりと。白い幕が、静かに引かれていく。

すると、その向こうから現れたのは、見覚えのあるはずの、しかしどこか決定的に違う風景だった。

通りに並ぶ町家は古び、壁の色はくすみ、修繕の跡が痛々しく残っている。新しい看板はなく、代わりに手書きの札や、剥がれかけた貼り紙が風に揺れていた。空気は乾き、どこか煤けた匂いを含んでいる。行き交う人々の姿も、先ほどまでとは違っていた。質素な着物。疲れた表情。それでも懸命に生きようとする、静かな強さ。そのすべてが語っていた。ここは、今ではない。遠い過去。戦が終わって、まだ間もない頃の世界。

幸子は、ゆっくりと息を吐いた。

白かった。

冬?

と思った瞬間、寒さを感じた。

空気は張りつめ、空からは粉雪が静かに舞い落ちている。

色を失ったような景色の中で、すべてが淡く、遠い記憶の中にあるように感じられた。


昭和二十一年。

なぜか、その言葉が胸の奥に浮かぶ。

耳を澄ますと、かすかな歌声が風に乗って届いてきた。細く、かすれた声。それはどこか懐かしく、胸の奥を締めつける響きだった。

幸子は導かれるように、その声の方へと歩き出す。

高瀬川のほとりに出ると、数羽の雀が地面に落ちたおからをついばんでいた。そのすぐそばに、着物姿の一人の若い女がしゃがみ込んでいる。裾を押さえ、寒さに肩をすぼめながら、雀たちを見つめている。女は、小さな声で唄っていた。

「沖のカモメと 飛行機乗りはよ……どこで散るやらね 果てるやら……ダンチョネ……」

その旋律は、どこか物悲しく、それでいて妙に耳に残る。

女は、裾からタバコの箱を取り出すと、その一本を、まだ幼さが残った小さな口にくわえた。マッチを擦り、火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出したその瞬間、激しく咳き込んだ。それは、寒さのせいだけではない。もっと別の、身体の奥から込み上げるような咳だった。

その時、路地の奥から声が飛んできた。

「小鶴はーん! お母さん、呼んだはりまっせー!」

顔を出したのも、まだ幼さの残る少女だった。

小鶴は顔をしかめ、小さくため息をつく。

「もぉー……今、火ぃつけたとこやし」

そう言いながらも、また咳き込む。

「今度は何しはったんどす? また喧嘩どっかー?」

「いややわぁ、そんな大きい声で言わんでも……」

女が、振り返り、通りに向かって声を張り上げる。

「すぐ行くさかい!」

幸子は、その横顔と声に覚えがあったが思い出せない。

誰だろう?

女は吸いかけのタバコを名残惜しそうに見つめ、それを川原の石で押し消す。

「あー、もったいなぁー」

そして、その吸い殻を袖にしまい込み、立ち上がると、少しふらつく足取りで歩き出した。

そして、また、あの唄を口ずさんだ。

「俺が死んだら 三途の川で鬼を集めてね……相撲をとるダンチョネ……」

その声に驚いたのか、雀たちが一斉に空へと舞い上がった。女の口から立つ白い息と、粉雪と、舞い上がる羽音。その光景を、幸子はただ立ち尽くして見つめていた。

この人を、知っている。でも、理由は分からない。けれど、胸の奥が、確かにそう告げていた。


 ※   ※


その女の後を、幸子は自然と追っていた。女は狭く暗い路地を抜けて先斗町の通りに出て、一軒の町屋へと入っていく。


置屋 福富。

その名が、ぼんやりと記憶の底から浮かび上がる。

気がつくと、暗い廊下に立っていた。

そして、その奥から、さっきの女の声が響いた。

「いやや! 絶対に、いやです!」

幸子は、導かれるようにその部屋の前へと歩み寄って、小さく開いた隙間から中を覗き込んだ。座敷の中では、火鉢を挟んで二人の女が向かい合っていた。

年嵩の女が、静かに、しかし逃げ場を与えない口調で言う。

「そないゆても、あんた、これからどないするつもりやの?」

言葉は柔らかいが、その奥にある現実は冷たい。

「このままここにおるんやったら、その方がええと思うんや。先方さんはな……手びろーお商売やったはる。ポンチャンの幸せ思うんやったら——」

「うち、どんな事しても、あの子を一人で育てます!」

女は立ち上がり、言い切る。だがその直後、激しく咳き込んだ。細い身体が揺れる。

年嵩の女は小さくため息をついた。

「気持ちはわかるけどな……このご時世、芸妓しながら子供育てられる思てんのんか?」

言葉は容赦なく続く。

「先方さんも子供出来ひんし困ったはるんや。女の子でもええって言うてくれはってんねん。こんなええ話、他にあらへんで。ポンチャンも、まだ小さい。物心つかんうちの方が——」

それ以上、聞いていられなかったのか、女は無言で襖を開けた。そして、まるで幸子いなかった様に暗い廊下を走って行った。

「大丈夫かいな……一回、お医者さんに見てもろたらどないえ?」

背後から年嵩の女が声をかけた。だが、女は振り返らなかった。

思わず、幸子は、女の後を追った。


※   ※


二階の座敷。

襖が静かに開く。

部屋の中はひんやりと静まり返っていた。

布団の上に、小さな赤ん坊が眠っている。女はその傍に座り込み、そっと顔を覗き込む。

その表情が、ふと緩む。

だが次の瞬間、その目から涙がこぼれ落ちた。

ぽたり、と。

赤ん坊の頬に、小さな雫が落ちる。

それでも、赤ん坊は眠り続けている。

何も知らずに。

ただ、静かに。幸子は、その光景を見つめながら、息を呑んだ。

——この子は。



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