京都
生まれたばかりの朝の光を浴びながら、新幹線は滑るように西へと走っていた。
窓際の席に座る幸子は、じっと外を見つめている。流れていくのは、どこまでも続く田園風景。水を張った田んぼが光を反射し、遠くの山並みも光り輝いていた。しかし、景色は飛ぶように後ろへと消えていくのに、胸の奥にあるものだけが、逆にゆっくりと浮かび上がってくる。幸子にはそう思えていた。京都へ向かっている。その事実が、今さらのように重くのしかかっていた。——なぜ、あの手紙は自分の元に届いたのか。考えようとして、ふと視線が曇る。意識は、数日前の夜へと引き戻されていった。
※ ※
キッチンの柔らかい明かりの下で、幸子と美空は並んで写真を見ていた。古びたモノクロ写真はテーブルの上に広げられ、そのどれもが遠い時代の空気をまとっている。
「それでね、この人、戦争が終わってから京都に住んでたみたいだよ」
美空が手紙を見つめながら言った。
「……そう……」
幸子は、ほとんど息のような声で答える。胸の奥が、じわりと波打つ。
「この芸者さんが写っている写真、ここ、京都かもね。」
写真の一枚を指差す美空。その先にある風景を、幸子は見つめることができなかった。
「でも、なんでここの住所わかったんだろうね」
「……」
言葉が出ない。
「あっ! そうだ!」
突然、美空が声を上げる。
「えっ?」
「お母さんに頼まれてたんだ」
「頼まれたって?」
美空は立ち上がり、椅子の上に置いてあったエコバッグに手を伸ばした。そこに付けられた古いお守りを指でつまむ。
「迷子になった時の連絡先。これの中に入れておいてって。おばあちゃん、どこに行く時もこれ持ってくでしょ。もし迷子になったら、これ見せるんだよって」
幸子は思わず苦笑する。
「迷子って、子供じゃあるまいし」
「人は年取ったら子供に戻るんだから」
そう言いながら、美空はメモ用紙を取り出した。
「電話はお母さんの番号書いておくね。住所は……ここでいい?」
「そ、そうね」
「神奈川県鎌倉市……後、何だっけ?」
幸子には、その無邪気な声が、どこか遠くに聞こえていた。
※ ※
幸子は変わらず車窓の外を見ていた。景色はさらに西へと移り、知らない町、知らない川が過ぎていく。そのどれもが、やがて一つの場所へと収束していくように思えた。
「まもなく京都です。東海道線、山陰線、湖西線、奈良線と近鉄線はお乗り換えです。今日も新幹線をご利用下さいまして有難う御座いました。京都を出ますと次は新大阪に止まります。」
ついに、京都に着いた。そして、ドアが開く。それは、幸子にとって、これからの人生を変えた瞬間だった。
しかし、ホームに降り立つと音が無くなった。
「えっ?」
ホームには、確かに人の流れはあった。キャリーバッグを引く音、異国の言葉、写真を撮る観光客。でも、静かすぎる。音がない。思わず足を止める。年のせいで、耳が遠くなったのか。とも、思ったがその確信がなかった。なぜなら、車内のアナウンスは、はっきりと聞こえていたからだ。
とりあえず、幸子はバス停の列に並んだ。
目的地は、生まれ育った木屋町。
初恋の甘酸っぱい思い出と、女の性を知った忌まわしい過去が交差するあの街だった。
バスの窓から、今の京都の風景が流れ行く。高いビル、大きな観光バス、歩道を歩く大勢の外国人。
それは、昔とは、違う風景だった。でも、依然、音だけがなかった。
バスを降りると、人の姿はある。確かにいる。だが、どこか輪郭が曖昧で、気配だけがそこにあるようだった。声が、聞こえない。話し声も街の騒音さえも聞こえて来ない。ただ、自分の足音だけが、やけに大きく響いていた。コツ、コツ、と。アスファルトに吸い込まれるように。風が吹く。暖かいはずの初夏の風なのに、なぜかひやりとして、首筋を撫でていく。幸子は、無意識に肩をすくめた。
——こんなはず、ない。
頭では分かっている。ここは京都だ。観光客で溢れているはずの場所だ。それなのに、まるで、時間から切り離されてしまったかのように静まり返っている。いや——静まり返っているのではない。何かに「覆われている」ような、そんな気配。胸の奥で、懐かしさと恐れが、奇妙に絡み合っていた。やっぱり、ここは、来てはいけない場所だったのか。幸子は、その感情が恐怖へと変わって行くのを感じ始めていた。
そして、幸子が、木屋町に足を踏み入れた瞬間、何かがふっと変わった。言葉にするには難しいが、それは、薄い布を一枚隔てた向こう側へと、静かに引いていくような感覚だった。幸子は立ち止まり、そっと周囲を見回した。人影はある。けれどそれは、どこか淡く、光に溶けかけているようにも見える。すれ違う人の気配はあるのに、その足音は耳に届かない。代わりに、自分の呼吸だけが、やけに澄んで聞こえていた。
風が吹く。
それは、懐かしい匂いを運んできた。甘い香水の香り、酒の匂い、それは、遠い昔に嗅いだことのある、この街の匂い。胸の奥で、何かが静かにほどける。記憶の底に沈んでいた風景が、現実の上にそっと重なってきている。現実をゆるやかにほどき、別の世界へとつなげていく。でも、不思議と、怖さはなかった。むしろ——帰ってきたのだ、という感覚に近い。
幸子は、ゆっくりと歩き出す。
「誰かに呼ばれているのだろうか。この先に、自分が置いてきた何かがある気がする。」
そんな感情が心の中を支配して行った。
アスファルトを踏みしめるたびに、記憶が足元から立ち上がる。
遠い日の笑い声。
振り返らなかった別れ。
「ぽんちゃん?」
「さっちゃん?」
「リリー?」
名前を呼ばれた気がして、ふと足を止める。
振り向いても、誰もいなかった。




