決意
昼下がりの鎌倉。
駅にほど近いカフェの窓際で、幸子はコーヒーカップを両手で包むように持っていた。初夏の光がガラス越しにやわらかく差し込み、テーブルの上に淡い影を落としている。向かいには、一人娘の美砂子が少し身を乗り出すようにして座っていた。
「それで膝の方はどう?」
唐突な問いに、幸子は一瞬だけ目を瞬かせた。
「えっ?」
「何びっくりしてんの? ソラから聞いたわよ」
その名前を聞いた途端、幸子の口元がわずかに歪む。
「あの……裏切者……」
ほとんど聞き取れないほどの声だったが、美砂子は首をかしげる。
「えっ?」
「な、何でもない……」
幸子は慌ててコーヒーに口をつけ、ごまかすように視線を落とした。
苦味が舌に広がる。その苦さは、どこか懐かしい記憶の奥をかすかに刺激する。
「人の言う事も聞かないで あんな山の上に引っ越すから 言った事じゃない」
「山じゃないよ 丘ですよー」
軽く言い返すと、美砂子は呆れたように肩をすくめた。
「相変わらず お母さん 口だけは達者なんだから」
幸子はふっと笑った。
「やっぱり親子だね」
「親子って?」
「何でもない」
そう言いながら、幸子の視線は窓の外へと流れていく。行き交う人々、観光客らしい笑い声。ここ は、穏やかで、明るくて、どこか他人事のような場所だ。
「変なの で 話って何よ」
美砂子に促され、幸子はほんの一瞬だけ言葉を探すように沈黙した。
それから、思い切ったように口を開く。
「ちょっと、私……日帰りで京都に行って来る」
その一言に、美砂子の表情が変わった。
「京都? 何でまた急に?」
京都——その響きが、幸子の胸の奥で小さく揺れた。長い間、意識して触れないようにしてきた場所。十代の頃、すべてを置いて飛び出した街。
「ソラちゃんから、聞いてない?」
「聞いてないって?」
「手紙の事……」
「手紙? 何それ?」
知らないのか——幸子は小さく息をつく。ソラは、そこまでは話していないらしい。
「それは言ってないんだ……」
「何? また一人でブツブツ言って」
「何でも……」
曖昧に笑ってごまかす。
あの手紙のことを、どう説明すればいいのか、自分でもまだ分からなかった。
「随分と旅行してないから 気分転換にと思って」
「そうね お父さんが死んじゃってから 旅行してないもんね で 何時行くの?」
「明日」
「明日!?」
思わず声を上げる美砂子に、幸子は少しだけ肩をすくめてみせた。
「思い立ったが吉日って言うでしょ」
「それはそうだけど……でもゴメン 私明日は急に仕事が入っちゃったから……明後日じゃダメ?」
「誰も あなたと一緒に行くって言ってません」
「えっ? じゃあ誰と行くの?」
「一人で行って来る」
その言葉には、静かな決意がこもっていた。
「一人で?」
「うん」
美砂子は少しの間、母の顔を見つめた。そこには、いつもの軽口とは違う、触れてはいけない何かがあるように感じられた。
「そ そう……でも、京都 私も行きたいなー」
「お生憎様!」
軽く笑って返す幸子。その明るさが、かえって距離をつくる。
「でも何で日帰りなの? 泊まったらいいのに」
「女の一人旅は ぶっそうだから」
「また乙女みたいなこと言っちゃって」
美砂子が笑うと、幸子もつられて笑った。
「お父さんが天国行って 最近 乙女に戻った様な気分なの 若い男の子の友達も出来たしね」
冗談めかしたその言葉の裏に、ほんのわずかな寂しさが混じる。
それは、あの街に、若すぎた自分と、置き去りにした時間がそのまま残っている気がしていたからだった。
「若い男の子って?」
「それは 秘密」
「もう! で 話は変わるけどね この間 私の携帯に知らない外人から電話があったの」
「知らない外人?」
「そう 英語だし 怖くなって すぐ切っちゃったんだけどね」
「それ 詐欺テレホンじゃない?」
「何それ?」
「さぁー」
と、ちんぷんかんぷんな言葉を言ってばつが悪るかったのか、思わず幸子はコーヒーに口をつけた。そしてそのまま、ゆっくりと窓の外へ視線を向けた。新緑の木漏れ日の向こうに、見えないはずの景色が重なった。石畳の路地、遠くで鳴る寺の鐘、夕暮れに染まる町家の影。七色のネオンに染まった水面。
——京都。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
向かいでは、美砂子が小さく笑っていた。何も知らないその笑顔を、幸子はまぶしそうに見つめる。
明日、自分はあの街に戻る。
長いあいだ閉じていた扉を、今度こそ開けるために。




