写真
板張りの壁に青々としたツタが這い上がった木造平屋建ての家の前に、幸子は立っていた。
築35年、坂を上りきった先にあるその家は、どこか時間に取り残されたような佇まいをしている。柱の色は少し褪せ、玄関の引き戸も軽くきしむ。それでも幸子にとっては、長年思い描いてきた「海が見える丘の上の暮らし」が形になった、大切な場所だった。
「ありがとう。悪いけど、荷物、玄関の前まで持って行ってくれるかな? あとは少しずつ運ぶから」
「うん 了解!」
優也は軽やかに答え、エコバッグを抱えて玄関へ向かった。
その間に幸子はポストを開け、郵便物とチラシを数通取り出す。紙の束を抱えたまま振り返ると、ちょうど優也が戻ってきたところだった。
「ありがとうね」
「膝 大丈夫?」
「う うん……」
少しだけ言葉を濁すと、優也はそれ以上は追及せず、代わりに明るく笑った。
「また手伝えることがあったら、いつでも声かけてよ。俺、勉強は苦手だけど、力仕事は得意だからさ」
「優しいのね」
「俺 小さい時 おばあちゃん子だったから」
「そうなんだ……でも、何十年ぶりかしら」
「何が?」
幸子は少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「男の人と腕組んだの」
「え、なにそれ。こんなイケメンでドキドキした?」
「バカ!」
二人は同時に笑った。
「じゃあ またね」
優也は手を上げて、なぜか坂を下っていく。
「どうしたの?」
「若い女の子と腕組んで来る」
優也が振り返って、いたずらぽく笑った。
「まぁ 気をつけてね」
幸子は、どこか、その笑顔に見覚えがあった。
でも、その時は、思い出せなかった。
家の中に入ると、幸子はゆっくりと荷物を運び始めた。玄関からキッチンへ、また玄関へと、何度も往復する。少しずつ、生活の匂いがこの家に満ちていく。
やがて一息つくと、リビングのソファに腰を下ろした。
湯のみのお茶をすすりながら、郵便物を一通ずつ確認していく。請求書、チラシ、地域のお知らせ——どれも見慣れたものばかり。
だが、その中に一通だけ、異質なものがあった。
分厚いエアメール。封筒には見慣れないアルファベットが並んでいる。
老眼鏡をかけ、差出人の名前を確かめようと裏返した、その瞬間。
電話が鳴った。
「はい もしもし……三浦でございます……なんだ ソラちゃん」
受話器の向こうから、元気な声が弾ける。
それは、孫の美空からだった。
『何だってなによ! せっかく寂しいかなと思って電話かけてあげたのに』
「それはそれは ありがとう」
『今ね 撮影で鎌倉に来てるの』
「撮影?」
『街歩きの動画 もうすぐ終わるから そっち寄っていい?』
「今から?」
『うん! 久しぶりに夕飯 一緒に食べようよ』
幸子は少し迷いながらも、結局うなずいた。
「いいけど……肉じゃがくらいしかできないわよ」
『それで十分!』
電話を切ると、テーブルの上に置いたままのエアメールが目に入る。
開けるべきか、後にするべきか。
ほんの一瞬考えたが、幸子はキッチンへ向かった。
——1年前、夫を癌で亡くした。
包丁を握りながら、静かに思い出す。
東京にいた方がいいと、娘も孫も言った。それでも幸子は、自分の夢を選んだ。海の見える丘の上で暮らすこと。なぜだか分からないが、それは若い頃からずっと胸にあった願いだった。
叶えば、何かが変わる気がしていた。
人生が、少し違う方向へ動き出すような。
だが実際には——
夢が叶ったのは、あまりにも遅すぎた。
今さら人生が変わったところで、何になるのか。
そんな思いが、ふと胸をよぎる。
けれど、包丁を動かす手は止まらない。
やがて夜になり、家の窓から温かな灯りがこぼれ始めた。
キッチンの食卓には、肉じゃがの優しい香りが広がっている。
「やっぱ、おばあちゃんの肉じゃが、最高!」
向かいに座る孫の美空は、嬉しそうに箸を動かしている。
「何がお腹いっぱいよ」
「これは別腹だから」
呆れながらも、幸子の口元は緩んでいた。
「それより 勉強は大丈夫なの?」
「これからの時代はさ 学校の勉強よりこっちだよ」
そう言って、美空はスマホを見せる。
「電話で何が出来るって言うのよ」
「それは おばあちゃんに言っても」
「まあ 馬鹿にして……」
ふと思い出したように、幸子は立ち上がった。
「そうだ ソラちゃんに見てもらいたいものがあるの」
足をかばいながらリビングへ向かう。
「その足どうしたの?」
「ちょっとね……坂で」
「ほら 言ったことじゃない こんな山の上に住むから」
「山じゃないよ 丘ですよ」
「ほんと おばあちゃんって 口だけは達者なんだから」
「でも このこと 美砂子には内緒にしてね また 何言われるかわからないもの」
「了解!」
幸子は、エアメールを手に戻ってくると、それを美空に差し出した。
「これなんだけどね 私 外国に知り合いなんていないし 気持ちが悪くって ちょっと見てくれる? テレビで 詐欺メールって言ってるじゃない それかな?」
「おばあちゃん メールはメールでもメール違いだよ」
「えっ?」
美空は封筒を開け、中の手紙を取り出した。
しばらく黙って読み進める。
そして、ふっと顔を上げた。
「ニューヨークからだよ これ」
「ニューヨーク……?」
「差出人は グレン・ヤマダって人 おじいさんが亡くなって その遺品整理してたら 古い写真が出てきたんだって それを送ってきたらしい」
「写真……?」
封筒の中から、何枚もの古びたモノクロの写真が取り出される。
幸子はそれを受け取り、一枚ずつ見ていく。
しかし、どれも見覚えのない風景。
知らない人々。
——なのに。
一枚の写真で、手が止まった。
「このパイロットの隣にいる女の子……」
美空の声が遠く聞こえる。
幸子はただ、その写真を見つめていた。
まるで、時間が巻き戻るように。
——それが、これから始まる奇妙な冒険の扉を、開いた瞬間だった。




