夢
爆音が、空を切り裂くように響いていた。
その音に導かれるように、景色は一変する。
座敷の気配は消え、そこには――広々とした草地と、どこまでも続く夏の空が広がっていた。
幸子は、またしてもその場に立っている。
誰の目にも映らぬまま、ただ“そこにいる”だけの存在として。
青空の高みに、日の丸をつけた戦闘機が、甲高いエンジン音を響かせながら飛び去っていく。
耳をつんざくような爆音は、やがて遠ざかり、代わりにじりじりとした蝉の鳴き声があたりを満たした。
昭和二十年、葉月。終戦前日。
また、幸子の頭の中にそんな言葉が駆け巡った。
草むらの中に、二人の若者が並んで座っていた。
よく見と、それは、当時の飛行服を着た軍人と、お下げ髪に白いブラウス、モンペ姿の少女だった。
その姿が、夏の強い日差しの中でかすかに揺れているた。
「やっと、明日、部品が届くみたいなんだ」
ぽつりと、男が言う。
「そうなんですか。よかったですね!」
少女の声には、素直な安堵がにじんでいた。
「これでやっと、みんなの所へ戻れる。短い間だったけど……鶴子ちゃんには、いろいろとお世話になったね。ありがとう」
そのどこか区切りをつけるような言い方に、少女はわずかな違和感を覚えた様子で男を見つめた。
「こちらこそ、ボタンの付け方、教えてもろて……おおきに」
少女は、はにかむように笑った。
「僕んちは親一人子一人の家だから、何でも自分でしなきゃダメだったからね。裁縫は得意なんだ」
「へー」
他愛のない会話。
その穏やかさが、かえってこの場所の異質さを際立たせていた。
「母が病気がちでね……それで……もっと教えてあげたいんだけど、もう時間がないや」
ふっと落ちる影。
「お母さん、東京にいはるんですか?」
その問いに、男は首を横に振り、空を見上げた。
「この間の空襲で……やられちゃったよ。大学出たら、一生懸命働いて、楽させてあげたかったんだけど……」
言葉が、空に溶ける。
「そ、そやったんですか……ごめんなさい……」
少女が慌てて頭を下げた。
男は、静かに首を振った。
その沈黙の中で、蝉の声だけが、やけに大きく響く。
「でも……そやったら、私と一緒や!」
少女が、顔を上げる。
まっすぐに空を見つめて。
「一緒って?」
「うちも空襲で……お父ちゃん、お母ちゃん、それからお姉ちゃんも……全部やられてしもたんです」
幸子の胸が、かすかに締めつけられる。
「そうだったの……」
「おまけに、お兄ちゃんも……特攻で……」
「へー、お兄様もパイロットだったんだ」
「はい!海軍兵学校出たんですよ!それに大尉さんまでになったんですよ!凄いでしょう!」
その言葉には、誇りと、どうしようもない哀しみが入り混じっていた。
「それは凄い。学徒の僕とは、月とスッポンだ」
軽く笑う男。しかし、その笑いはどこか空虚だった。
「将来は大きな軍艦の艦長さんになるはずやったのに……」
少女の視線が、再び空へと向く。
「一家全滅ですわぁ」
その言葉は、あまりにも静かで、あまりにも重かった。
「……辛い事、思い出させちゃったね。ごめんなさい」
「いいんです」
少女は首を振る。
「これから一人で生きていかなあかんし……もっと強よなって、お父ちゃんもお母ちゃんも、お姉ちゃんも、それとお兄ちゃんの分まで頑張って生きて行かな、あかんしね。めそめそなんて、してられません!」
その声は、細いのに、確かに折れていなかった。
男は、しばらく彼女を見つめていた。
「……そう。鶴子ちゃんは、凄いなぁ」
「凄いって?」
「だって……死にに行く人間に、生きて行くことを言うんだもん」
その言葉に、空気が一瞬、凍る。
「死にって……ご、ごめんなさい……」
「謝らなくったっていいよ」
男は、苦く笑った。
「負けると判ってるのに死にに行く者の方が、どうかしてるんだから」
幸子の耳に、その言葉は強く残った。
「えっ!?日本、負けるんですか?」
「う、うん……たぶん……」
蝉の声が、さらに激しくなる。
「そやったら、何で……負けると判ってるのに、石田さんは行かはるんですか?」
「同期の奴らは、もう半分以上も逝ってしまったんだ。僕も行かないと……あの世で奴らに合わせる顔がないんだよ」
「そ、そんなん……」
「もうこれは、戦争なんかじゃない。ただの意地の張り合いさ」
その言葉は、乾いた風のように響いた。
「石田さん!絶対、死んだらあかんよ!生きて帰って来てくださいね!また、お裁縫教えて下さいね!ぜったいですよ!」
少女の声が、必死にすがる。
男は、答えずに空を見上げた。
「もし……もし、生まれ変わる事が出来たら……」
少女が、その横顔を見つめる。
「今度は……旅客機に乗りたいな……」
「旅客機?」
「うん。それで、世界中の空を飛ぶんだ」
「世界中の?」
「鶴子ちゃん……今にね、飛行機でブーンて、世界中を旅行出来る日が、必ず来よ!」
幼い夢のような言葉だった。
だが、その響きは、不思議と確かな未来を孕んでいるように、幸子には感じられた。
「世界中を……飛行機で……ブーンて?」
男は、小さくうなずく。
そして、二人は並んで空を見上げた。
青く、どこまでも高い空。
白い雲が、ゆっくりと流れていく。
幸子もまた、その空を見上げていた。
この時代の彼らが知らない“明日”を知る者として。
けれど、その明日が決してやさしいだけのものではないことも、同時に知っている者として。
蝉の声が、鳴りやまない。
まるで、終わりゆく時間を、必死に引き留めるかのように。




