契り
夕暮れの空は、燃えるような朱に染まり、飛行場の空気さえもどこか熱を帯びていた。
乾いた土の匂いと、遠くで響くエンジン音。
幸子は、またしてもその場に立っている。
誰の目にも映らぬまま、ただ“そこにいる”だけの存在として。
と、遠くから、少女たちの掛け声がまっすぐに響いて来た。
「イチ! イチ! イチ、ニー!」
陽炎の向こうから、少女たちが一列に並び、規律正しく行進してくる。その姿は、年若い娘たちとは思えないほどきびきびとしていた。4人だろうか。その一番後ろに、おさげ髪の彼女がいた。
そして、すれ違う若い将校に、少女たちはぴたりと動きを揃えて敬礼しこえをそろえて大きな声で。
「ご苦労様です!」
将校もまた軽く敬礼を返し、足早に去っていった。
その背中を見送りながら、2番目の色黒の子がぽつりと呟く。
「あの将校さん、かっこええなぁー」
「そやろ、そやろ!」と3番目のそばかす顔の子がすぐに食いつく。
「うち、前から思ててん!」
「うち、お嫁さんにしてもろおかなぁー」
「なんやて! 先に見つけたん、うちやし!」
軽口の応酬に、先頭の黒縁メガネが子が呆れたように笑った。
「二人とも、その顔でよーゆーわぁ」
「もう! その顔ってなんやの!」
2番目の子が頬を膨らませる。
「あんたかて、メガネかけた庚申さんのお猿みたいな顔してるやん!」
他愛もない言い合い。
その笑い声の中で、最後尾の彼女はふと視線を逸らした。
隊舎の玄関、その階段に――あの男が一人、座っていた。
背を丸め、遠くを見るような目。周囲の喧騒から切り離されたような、静かな影。
彼女は一瞬だけ歩みを緩め、その姿を見つめたが、すぐにまた前を向いた。
少女たちの会話は続く。
「せやけど、お嫁さんになっても、すぐ後家さんや」
「……そやなぁ」
「うちのお兄ちゃんもな、結婚した次の日、出征やったし」
「そうかぁ……お嫁さん、可哀そうやなぁ」
「今、日本は戦争してるんやさかい、しゃあないわぁ」
メガネの子が、学級委員長ように言い放つ。
「男はんは戦うて、おなごは銃後の守り!」
再び声が揃う。
「イチ! イチ! イチ、ニー!」
この戦争がどういう結末を迎える事になるのかを知っている幸子には、その明るさが、かえって胸に痛かった。
やがて、彼女たちは一人の男に呼び止められる。
首からカメラを下げた従軍記者のようだ。
「君達、ちょっと写真、撮っていいかな?」
最初は戸惑い、ためらう少女たち。
だが「少女倶楽部に載せようと思って」という一言で、空気が変わる。
「少女俱楽部」と言えば、当時の少女たちの憧れの雑誌である。
憧れと好奇心。
結局、彼女だけが最後まで首を横に振ったが、流れに押されるように並ばされてしまった。
「ほら、笑顔、笑顔!」
カメラの向こうで従軍記者が声をかける。
4人は、ぎこちないながらも笑顔を作る。
けれど――
彼女だけは、笑わなかった。
その瞳は、どこか遠くを見ていた。
営門に戻ると、歩哨の前で再び整列する。
「分隊、止まれ! 敬礼!」
「ご苦労様です!」
規律通りの動き。しかしその最中、彼女の目は門の内側へと吸い寄せられていた。
そこに、男が立っていた。
さっきと同じ、寂しそうな表情で。
彼女の胸が、強く波打つ。
「……ちょっと、忘れもんした! 先、帰っといて!」
軽く言い残し、彼女は走り出した。
物置小屋の前。
夕焼けはさらに濃くなり、世界を赤く染めていた。
男はそこに立っていた。
彼女は物陰から顔を出し、少しだけ明るく言う。
「みーつけた!」
だが、男はうつむいたままだった。
「どうしはったんですか?」
沈黙。
「ゆうてくれあらへんと、うち、心配で帰れないです」
ようやく、かすれた声が返る。
「……明朝……行くことになった」
言葉は、重く地面に落ちるようだった。
彼女の心臓が締めつけられる。
男は空を見上げる。
赤トンボが、群れをなして舞っていた。
「あの赤トンボに……なりたいなぁ」
その言葉は、あまりにも幼く、そして切実だった。
「覚悟は……できてたつもりだったんだけど……」
声が震える。
次の瞬間、男は鶴子の肩を掴んだ。
「お願いだ! 今日、ここで……僕と結婚して欲しい!」
突きつけられた想い。
彼女はうつむき、何も言えない。
「僕のこと、嫌いかい?」
小さく、首を横に振る。
「君を幸せにできないけど……ごめんなさい……」
謝罪の言葉が、かえって深く刺さる。
彼女は目を閉じた。
そして――
二人は、静かに唇を重ねた。
夕焼けの中、赤トンボだけが、何も知らぬように舞い続けていた。
物置小屋の中。
二人は並んで座り、手を握り合っていた。
「もし……生まれ変われたら」
男が、ぽつりと語り出す。
「海が見える丘の上に住みたいな」
「海……?」
「うん。僕、東京の下町育ちだから……ずっと憧れてたんだ」
少し笑って、続ける。
「そんな所に住めたら、人生が変わる気がしてさ」
そして、まっすぐに彼女を見る。
「一緒に住んでくれるかい?」
鶴子は、静かに頷いた。
言葉よりも確かな返事だった。
二人は、強く抱き合う。
それが、どれほど儚い時間であるかを知りながら。
やがて、彼女は小屋を飛び出した。
涙をこぼしながら、夕陽の中を駆けていく。
振り返ることはなかった。
振り返れば、もう皆の所へ戻れなると分かっていたから。
空には、赤トンボ。
その群れは、どこまでも、どこまでも遠くへと飛んでいった。




