逃避行
時代は、昭和39年の夏。幸子が、18歳の頃に戻った。
ネオンが、夜の川面に揺れていた。
木屋町通りは、昼とは別の顔を見せている。
どこからともなく流れてくる当時のヒットソング。
「こんにちは赤ちゃん あなたの笑顔 こんにちは赤ちゃん あなたの泣き声 その小さな手 つぶらな瞳 はじめまして わたしがママよ」
笑い声。グラスの触れ合う音。
もう、日本は、戦後ではなかった。敵国のアメリカは、若者たちの憧れの国へと変わっていた。
しかし、高瀬川の水だけは、昔と変わらず、静かに流れていた。
その畔で、キャバレー「ラッキー」と書かれたネオンサインが、けばけばしく光っていた。
その下では、男と女が肩を寄せ合い、夜に身を預けている。
ホールでは、煙と熱気に満ちていた。
テーブルを囲む客たち。笑いながら酒を注ぐホステス。
ジャズバンドの軽快なリズムが、場の空気を揺らしている。
楽屋。
鏡の前に座った雅幸は、自分の顔をじっと見つめていた。
整えた髪。まだ若さの残る輪郭。
だが、その奥にある緊張は隠せない。
ドアが開く。
「マーボー、そろそろやで」
支配人が顔を出す。
「……あ、はい……」
声が少し上ずる。
支配人は、そんな様子を見て笑った。
「将来の大スターが、これぐらいで緊張してどないすんねん、リラックス、リラックス。」
「……はい!」
雅幸は立ち上がる。
その足は、わずかに震えていた。
ホールの照明が落ちる。
楽団の音が止み、ざわめきが少しだけ静まる。
ステージに司会者が現れた。
「今宵は、当ラッキーにお越し下さいまして、誠にありがとうございます」
形式的な挨拶に、客たちはさほど関心を示さない。
グラスを傾けながら、談笑を続けている。
「アキラさんのステージの前に――」
司会者は声を張る。
「本日デビューのニュースターをご紹介します!」
支配人が、袖で、雅幸の震える肩に手を置く。
「アーユー・レディ?」
雅幸は、固い表情のままうなずいた。
「レディース・アンド・ジェントルマン!」
司会者の声が、場内に響く。
「ラッキーが生んだニュースター! マーボーこと――三浦雅幸!」
「レッツゴー!」
と、支配人が雅幸の背中を押す。
雅幸は、その勢いのままステージへ飛び出した。
ライトが当たる。
一瞬、何も見えなくなる。
だが、音楽が始まった瞬間、身体が勝手に動いた。
「君は僕より年上と まわりの人は言うけれど なんてったって構わない 僕は君に首ったけ 死んでも君を はなさない 地獄の底まで ついていく Oh, please stay by me, Diana」(ダイアナ)
リズムに乗せて、声を放つ。
そのヒット曲に、無関心だった客たちの視線が、少しずつ集まってくる。
手拍子が混じる。
ざわめきが変わる。
歌い終えた瞬間、拍手が巻き起こった。
雅幸は、呆然と客席を見渡す。
その中に――
ひとりの少女の姿があった。
ヤクザ風の男に連れられて、席に着いたばかりの。
幸子。
その目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「もう一曲、いけるか?」
司会者の囁き。
支配人がうなずく。
雅幸も、静かにうなずいた。
照明が落ちる。
ミラーボールが、ゆっくりと回り始める。
流れ出したのは、甘く切ないスローナンバー。
「On a day like today We passed the time away Writing love letters in the sand」
(砂に書いたラブレター)
雅幸は、マイクを握る。
今度は、歌うというより――語りかけるように。
ホールでは、男女が寄り添い、踊り始めていた。
ヤクザ風の男が、幸子の腕を引く。
強引に、ダンスの輪へと連れ出す。
幸子は抵抗するが、力では敵わない。
やがて、男の胸に押し付けられるようにして踊らされる。
その目に、涙が浮かんだ。
それでも――
視線は、ステージを離れない。
歌う雅幸を、じっと見つめている。
男が、無理やり唇を重ねる。
その瞬間。
雅幸の中で、何かが切れた。
次の瞬間には、ステージを飛び降りていた。
ざわめきが起こる。
人混みをかき分け、一直線に幸子の元へ。
男の腕を振り払い、その手を掴む。
「行こう!」
それだけ言って、引き寄せる。
幸子は一瞬驚き、そして――うなずいた。
二人は、そのままホールを飛び出す。
背後で、怒号が上がる。
夜の木屋町。
人混みの中を、手を繋いで走る。
ネオンが流れ、笑い声が遠ざかる。
追ってくる足音。
振り返る余裕はない。
そのとき――
「これ、乗って行き!」
一台の自転車が横に滑り込んできた。
エマだった。
「エマちゃん……!」
幸子が、呟いた。
「ええから! 後はうちが何とかする!」
息を切らしながら、笑う。
「リリーには、もっと他に命の使い方があるんや!」
その言葉に、幸子の目が揺れる。
「……早よ!」
背中を押される。
雅幸はうなずき、自転車にまたがった。
「行こ?」
幸子は、小さくうなずく。
後ろに乗り、彼の背にしがみつく。
「リリー!」
呼び止める声。
振り返る。
エマが、にっこりと笑っていた。
「元気で!」
涙を浮かべながら、幸子も微笑む。
二人乗りの自転車が、人混みへと消えていく。
遠くで、怒鳴り声。
「自転車泥棒!」
エマは、それを聞いても、ただ笑っていた。
暗い道。
自転車を漕ぐ音だけが響く。
「……大丈夫?」
背中越しに、幸子が言う。
「何が?」
「歌手になる夢……」
一瞬の沈黙。
そして、雅幸は笑った。
「そんなもんより――」
少しだけ振り返る。
「さっちゃんの方が、僕の夢や」
その言葉に、幸子は強く抱きしめた。
涙が、静かにこぼれる。
その時。
ガタン、と鈍い音。
自転車が揺れる。
「……あ」
タイヤが、ぺしゃんこになっていた。
雅幸は苦笑する。
「しゃあない……走ろう!」
「……うん」
二人は自転車を捨て、手を繋いで走り出す。
暗い道の先へ。
まだ何も決まっていない未来へ。
ただ、同じ方向を見て。
「……おばあちゃん、大丈夫?」
その声は、遠くから浮かび上がるように届いた。
水の底から、ゆっくりと引き上げられるように――意識が戻ってくる。
まぶたを開くと、すぐ目の前に、小さな顔があった。
心配そうに覗き込んでいる、幼い女の子。
黒い瞳が、不安げに揺れている。
幸子は一瞬、どこにいるのか分からなかった。
胸の奥には、まだあの夜の暑さと雅幸の背中の温もりが残っている。
そして、高瀬川の水音。
橋の上に横たわる母の姿。
伸ばした手が、届かなかった感触。
すべてが、つい今しがたまで“そこにあった”ように鮮明だった。
「……大丈夫よ」
ようやく声が出る。
少女は、ほっとしたように表情をゆるめた。
幸子は、ゆっくりと身体を起こす。
そこは、高瀬川の畔のベンチの上だった。
あの母と別れた場所だった。
でも、時代が違う。
ここは、年を重ねた自分の時間だった。
「……夢……」
小さく呟く。
だが、その言葉は、すぐに自分の中で否定された。
――違う。
あれは夢ではない。
ただの記憶でもない。
自分が“確かに触れてきた時間”だと、身体が知っている。
胸の奥に、まだ温もりが残っている。
名前を呼ばれた、あの瞬間の。
幸子は、ゆっくりと息を整えると、傍らに置いていた鞄に手を伸ばした。
指先が、わずかに震えている。
中から取り出したのは、あのエアメールだった。
何度も確かめたはずなのに、今はまるで初めて触れるもののように感じる。
そっと開き、中身を取り出す。
数枚の写真。
古びた紙の匂いが、かすかに立ちのぼる。
一枚目を、指先でつまみ上げる。
飛行場。
乾いた地面と、遠くに並ぶ機影。
その前に立つ、少女たち。
もんぺ姿で、黒縁の眼鏡をかけた利発そうな少女。
日に焼けた肌の男勝りの少女。
そばかすの浮いた幼い顔の少女。
そして――
無表情で、まっすぐ前を見つめる母の鶴子。
胸の奥が、静かに締めつけられる。
次の一枚。
瓦礫の前に立つ、タマエと鶴子。
崩れた街の中で、足を踏みしめている二人の姿。
言葉にできない強さが、その佇まいに滲んでいた。
さらに、もう一枚。
ミチコが、自転車にまたがって笑っている。
無邪気で、どこか誇らしげな笑顔。
混沌とした時代の中でも、未来を信じて疑わない光がそこにあった。
そして――
幸子の手が、次の写真で止まる。
草むら。
柔らかな光の中に、二人の姿がある。
若い男と、静かに寄り添う鶴子。
軍服姿のその男は、どこか照れたように笑っていた。
名を呼ぶこともできなかった父。
けれど今、その顔が、はっきりとここにある。
その隣で、母が微笑んでいる。
まだ言葉にならない想いを抱えたままの、あの頃の顔。
この写真を初めて見た時、そこに写っているのは、知らない人ばかりだったのに、今は、まるで、さっき会ったかのように鮮明に覚えていた。
そして――
最後の一枚。
高瀬川の畔。
夕暮れの光の中、ベンチに座る一人の女性。
芸妓姿の母。
その隣に、小さな女の子がいる。
少し不思議そうに、けれど穏やかに微笑んでいる。
それは、幼い頃の、自分。
幸子は、息を呑んだ。
あの夜。
確かに見た光景。
そして、確かに“そこにいた”時間。
すべてが、この一枚に閉じ込められている。
指先で、そっとその写真に触れる。
少女の腰元には、小さな赤いお守り。
すべてが、繋がる。
過去も、未来も、今も。
静かに、ひとつの輪を描くように。
「……お母さん」
小さく呟く。
そして――
「……お父さん」
続けて、そっと。
風が、やさしく頬を撫でた。
まるで、二人がそこにいるかのように。
幸子は、写真を胸の前で抱きしめる。
それは、ただの記録ではなかった。
時間を越えて届いた、命そのものだった。
やがて、ゆっくりと封筒に戻す。
幸子は、ゆっくりと鞄を閉じた。
写真の重みが、そのまま胸の奥に残っている。
風が、静かに通り抜けていく。
ふと――
何気ない仕草で、上着のポケットに手を入れた。
無い。
そこにあるはずの物が無い。
それは、あの色褪せた赤いお守り。
長い年月を共にしてきた、小さな存在。
どこかで、落としたのか。
落としたのは、あの時代のどこか。
指先が、わずかに震える。
幸子の呼吸が、わずかに止まる。
あのお守りの中には、美空が書いた、鎌倉の住所と
美砂子の携帯電話の番号が書かれた、小さなメモが入っている。あの時代の人にとっては未来の遺物。
でも、幸子には、それがどこに行ったのか分かっていた。お守りは、海を越えたんだと。




