最終稿 生きる
鎌倉。
あの坂道は、夕陽に染まり、橙色の光が静かに広がっていた。
坂の下に、幸子は立っている。
右手には、小さな鞄、左手には、京都のお土産物が入った紙袋を下げている。
そして、いつものように、ゆっくりと、坂の上を見上げた。
その時。
「おばあちゃん!」
後ろから、明るい声が弾んだ。
振り向くと、優也が息を弾ませて立っている。
「あら、ユウちゃん!」
「どこ行ってたの?」
「京都」
優也はすぐに幸子の手元に目をやる。
「持つよ」
そう言って、自然に幸子が下げていた鞄と紙袋を受け取った。
「ありがとう。もう、足、大丈夫だから……」
「足って?」
優也は、不思議そうに首をかしげた。
そして、幸子は少しだけ間を置いて言った。
「ねえ……私の鞄、見て何か気づかない?」
「何かって?」
優也は改めて中を覗き込む。
「お守り……」
「お守り?」
「お守り、無いでしょ 京都で落としちゃったのよ。」
優也はきょとんとする。
「お守りって、そんなの付けてたっけ?」
幸子もキョトンとする。
「それより、おじいちゃんの風邪、治った?」
「おじいちゃんって?」
思わず問い返す。
「何言ってるの? おばあちゃんの旦那さんじゃない」
その言葉に、ほんの一瞬、時が止まる。
「……そうだったね」
優也は首をかしげながらも、すぐに笑う。
「変なの。」
幸子は静かにうなずいて、気を取り直したように。
「おじいちゃんね…… ああ見えて、若い頃、歌手だったんだよ」
「へえ、あの頑固じいさんが?」
「びっくりでしょ」
優也が素直にうなずく。
その顔を見つめながら、幸子はふっと微笑んだ。
「ねえ、ちょっと手、貸して?」
「う、うん……」
差し出された手を――
そっと、握る。
そして。
「走ろう!」
「えっ!?」
驚く優也の声を引っ張るように、幸子は歩き出した。
夕陽に照らされた坂道を、二人は手をつないだまま上っていく。
足取りは軽く、まるで時間を追い越すように。
その後ろ姿が、光の中に溶けていく。
声だけが、重なる。
「何か……人生が変わったみたい……」
「人生が変わったって?」
「何でも……」
「変なの。ところでさ、おばあちゃんの名前って何て言うの?」
「三浦だけど……」
「じゃなくて、下の名前!」
ほんの一拍のあと――
「リリー。またの名を、ポンチャン!」
「何それ!」
笑い声が、坂道に弾けた。
その笑顔は――
どこか、父・幸夫の面影を強く残していた。
坂の上の家の前。
玄関先で、美砂子と美空が帰りを待っている。
「おかえり」
その一言に、日常のぬくもりが滲む。
「何だ、来てたんだ。」
美砂子が首をかしげて。
「来てたって、私たち、一緒に、ここに住んでるじゃない いやだ ボケないでよ!」
また、きょとんとする幸子。
「何で、タクシー乗らなかったのよ。」
と、美砂子は優也に向き直り、丁寧に頭を下げて。
「いつもお世話になっております」
優也は照れくさそうに頭をかく。
帰り際――
美空と優也が、ふと顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく微笑んだ。
――まるで、どこかで出会っていたかのように。
その様子に、幸子と美砂子も思わず顔を見合わせる。
言葉にはならない、小さな違和感と、かすかな確信。
リビング。
テーブルの上には、京都で買ってきた土産が並んでいる。
懐かしさの匂いが、まだ部屋の中に残っていた。
「空ちゃん、ちょっとポスト見てきてくれる?」
「うん」
と、美砂子が。
「奥で、おじいちゃん、寝てるから静かにね。」
ほどなくして、美空は郵便物とチラシ、回覧板を抱えて戻ってくる。
その中に――
一通のエアメール。
差出人の名は、あのグレン・ヤマダだった。
「また来てるよ……」
美空が封を切る。
中から滑り落ちたのは――
古びた、赤いお守りだった。
あの、失われたはずの。
息を呑む静寂。
そして、同封の手紙に目を落とした美空が言う。
「この人のおじいさん……戦争反対って、日本で撮った写真の展覧会、アメリカ中を回ってやってたんだって」
写真。記憶。時間。
すべてが、静かにつながっていく。
「あれは、幻だったのでしょうか――」
「いいえ……」
「確かに、あの少女たちは、この日本で必死に生きていました」
「強すぎるほどの、生きるという執着心を持って――」
「逞しく、あの時代を生きていました」
「お父さん……お母さん……」
「私を産んでくれて、ありがとう」
「本当に、ありがとう」
「私は……残された命を、大切に使っていきます」
夕暮れの光が、部屋の奥まで差し込んでいた。
おわり
まだ、世界では戦争がたえません。
その陰で、大勢の苦しむ女性や子供たちがいます。
この物語を通じて、少しでも、その現状に目を向けて頂かたらと思っております。
ここまで、読んで頂いてありがとうございました。
日尾昌之




