誓い
強いフラッシュライトの光――あの夏の光だ、と幸子は思った。
焼けつくような陽射し。背中に伝わるぬくもりと汗の匂い。誰かの肩に揺られながら見上げた、白く滲む空。それは記憶というには曖昧で、けれど身体の奥に刻み込まれた感覚だった。
あれは、鶴子の背中だ。
まだ言葉も持たぬ赤ん坊だった自分が、確かにそこにいたという証のように、光だけが残っている。
時代は、少し進む。
鶴子が、先斗町へ流れつき、小鶴と呼ばれている芸妓になっていた時代に。
高瀬川の水面は、夕陽を受けてオレンジ色に揺れている。
ゆるやかに流れる水が、きらきらと光を弾く。
その眩しさに目を細めながら、奇跡的に命を伸ばしていた鶴子はベンチに身を預けていた。
酒のせいか、足元はおぼつかない。だが、妙に心は静かだった。
「沖のカモメと 飛行機乗りはよ……どこで散るやらね 果てるやら……ダンチョネ……」
かすれた声で節を口ずさむ。
あの海で、一度は死を覚悟した時に、唄ったの歌、それは、鶴子にとって、友達を裏切った後悔の歌でもあった。
ふと、水面を見つめていると、不意に隣に気配が落ちた。
誰か、来た。
小鶴はゆっくりと顔を向ける。
そこに、小さな女の子が座っていた。
三つほどだろうか。きちんと整えられた髪、どこかこの場に似つかわしくないほど澄んだ瞳。
女の子は、鶴子を見て、にっこりと笑った。
その笑みに、鶴子の胸がわずかに揺れる。
でも、理由は分からない。
思わず、鶴子も微笑み返していた。
しばらく、ふたりは何も言わずに水面を見つめた。
夕陽だけが、静かに時間を染めていく。
「……アメちゃん、舐める?」
鶴子は、袖の中から赤い小さな飴玉を取り出した。
「はい」
差し出すと、女の子は嬉しそうに受け取り、口に入れる。
ころり、と舌の上で転がす仕草が、妙に愛らしい。
鶴子はそれを見て、また微笑んだ。
「お母さんは?」
問いかける。
女の子は答えない。
ただ、飴を舐めながら、やはり微笑んでいる。
その笑顔に、なぜか胸が締めつけられた。
その時だった。
「……間違っていたら、ごめんなさい」
背後から声がした。
男の声だった。
「ひょっとして……鶴子さん……」
鶴子は振り返る。
そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。
「……や、山田さん……?」
半信半疑の声が漏れる。
山田は、隣にいたGIに軽く何かを告げると、こちらへ歩み寄ってきた。
GIは笑顔で肩をすくめ、そのまま去っていく。
三人はベンチに並んで座っていた。
夕陽はさらに傾き、水面の色が少しずつ深くなっていく。
「驚いたなあ……君と、こんなところで会うなんて」
山田は苦笑する。
「そんな格好してるから、まさかと思ったけど……やっぱり」
鶴子は、静かにうなずいた。
「今は……ここで?」
恥ずかしそうに鶴子は、小さくうなずいた。
「そうか…… でも、さっき、僕の名前を言ったね。」
鶴子が、うなずく。
「言葉、しゃべれるようになったんだ! よかった!」
鶴子は、微笑んだ。
そして、山田は一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
「あの日、バラック小屋で何があったの?」
その問いかけに、鶴子は、ただ、うつむくだけだった。
とっさに思い出したくない過去と、察した山田は首を振った。
「こうして元気そうな顔が見られただけで、十分だよ」
ふと、山田の視線が隣の少女に向く。
「……幸子ちゃん?」
その言葉に、小鶴の身体がぴくりと震えて。
「この子は、知らない子です……」
「そう……」
鶴子が問い返す。
「でも……何で、その名前を?」
「ミチコさんから聞いよ……」
「ミチコさんから……?」
と、鶴子の脳裏に、あの日のことが蘇った。
その日、バラック小屋の裏の土手の上には乾いた風が吹いていた。
焼け跡の匂いが、まだどこかに残っている。瓦礫の隙間から伸びた草だけが、やけに青く見えた。
ミチコは、腕を組んで空を見上げていたが、ふと鶴子の腹へと視線を落とした。
「それはそうと……お腹の子の名前、何か考えてるか?」
軽い調子で言う。
「……あんたみたいに、名無しの権兵衛では可哀そうや」
鶴子は、黙って首を横に振った。
「うーん……そやな……」
ミチコは顎に手を当て、少し考え込む。
「この子のお父さんの名前は、何ちゅうの?」
その問いに、鶴子は一瞬だけ目を伏せた。
そして、ゆっくりとしゃがみ込み、近くに落ちていた細い木の枝を拾う。
乾いた土の上に、ためらいなく文字を刻んだ。
――幸夫。
ミチコは、目を細めてそれを覗き込む。
「……これ、何て読むん?」
鶴子は、同じ場所の横に、今度はひらがなで書いた。
――さちお。
「さちお……」
ミチコは、その響きを口の中で転がすように繰り返した。
そして、ぱっと顔を上げる。
「そやったら、この字、取ったらええやん」
枝をひょいと奪い、今度は自分が地面に書き始める。
「男の子やったら……幸一」
すっと、一本の線を引く。
「女の子やったら……幸子」
その名を書き終えると、少しだけ首をかしげた。
「……何か、単純かな?」
鶴子は、ゆっくりと首を横に振った。
その仕草は、どこか確信を持っているようでもあった。
「名前はな、単純な方がええんや」
ミチコは、ふっと笑う。
「その方が、幸せになるらしいで」
そう言って、鶴子の腹をそっと覗き込んだ。
「こうちゃん、さっちゃん……」
ミチコが声に出してみる。
「ええ名前やねえ」
鶴子の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
風が、二人の間をすり抜けていく。
二人は、そのまま草むらに腰を下ろした。
遠くには、崩れた家々の影が黒く沈んでいる。
「あんた、これからどないするつもりや?」
ミチコがぽつりと聞いた。
鶴子が、うつむく。
「あんたはな……」
ミチコは続ける。
「こんなとこに居る人やない気がするんや」
瓦礫の向こうを見つめながら。
「と……言うても、うちには何もできへんけどな」
苦笑が混じる。
「でもな」
ミチコは、ゆっくりと鶴子の方を向いた。
「この……こうちゃんやさっちゃんの為にも、ここに居たらあかんと思う」
その名前を、もう当たり前のように口にしていた。
「……あんたには、もっと違う命の使い方がある気がする」
鶴子は、黙ってミチコを見つめる。
その瞳の奥に、揺れるものがあった。
ミチコはふと、鶴子の腰元に視線を落とした。
小さな赤いお守りが、そこに結びつけられている。
見慣れたはずのそれが、なぜか妙に気にかかった。
「……きっとな」
ミチコは、静かに言った。
「そのお守りが、あんたとお腹の子を守ってくらはるわ」
思わず、鶴子は、お守りに手をやる。
指先で、そっと触れる。
それが、幸夫が託した“夢”だと感じた。
そして、ミチコは、視線を外し、瓦礫の山を見つめた。
「……この国、これから、どないなるんやろなぁ」
その声は、風に紛れて消えそうだった。
高瀬川に夕暮れが訪れ、あたりに長い影が落ちていた。
「僕、今度、朝鮮に行くことになったんだ」
しばらくの沈黙のあと、山田がぽつりと言った。
「朝鮮……?」
「うん。どうやら、またきな臭くなってきてる」
「戦争……?」
「そうなるかもしれない」
水面が、ゆらりと揺れる。
「でも、日本の記者は、簡単には、行けないんだよ。まあ、記者といっても 僕 会社を辞めたから、ただのジャーナリストだけど。」
山田は苦く笑う。
「でも、アメリカの新聞社にうまく潜り込めて……」
そして、ふっと視線を落とした。
「……これも、ミチコさんのおかげなんだ」
山田は、少しだけためらったあと、胸元から古びた紙片を取り出した。
それは、折り目のついた、小さな紙だった。。
「これね…… あの日、物干し竿の下に落ちてたんだ。」
小鶴は、それを覗き込む。
見たことのない質感の紙。
妙に滑らかで、しかしどこか不気味な白さ。
そして、そこに並ぶ文字。
「……これ、何んですか?」
読めるようで、読めない。
鶴子が問いかけた。
かろうじて――
「……カマクラ……?」
その地名だけが、かすかに意味を結ぶ。
だが、他は、山田にも理解できなかった。
“携帯”という言葉も、“番号”という並びも、この時代のものではなかった。
「僕にも分からない」
山田は静かに言った。
「ただ……これを持ってから、ミチコさんと出会って、不思議と道が開けるようになった。」
鶴子は、じっとその紙片を見つめる。
川面に、夕陽の名残が細く揺れた。
と、次の瞬間、山田が、ふと思い出したように声を上げる。
「あっ……そうだ! 写真……ほらあの写真……」
言いかけて、苦笑した。
「また、持って来てないや……」
頭をかきながら、鶴子と少女を見比べる。
「代わりに……また、撮ってあげようか?」
鶴子は、隣の少女に目を向けた。
「……お写真、撮ってもらう?」
言葉を選ぶように、やさしく問いかける。
「お写真……」
少女は、その意味が分からないのか、ただ鶴子を見て微笑んだ。
その無垢な笑みに、鶴子もわずかに困ったように笑う。
「……わからへんみたい」
そう言って前を向いた、その瞬間――
すでに山田はカメラを構えていた。
夕暮れの光を背に、二人をフレームに収める。
「ハイ、チーズ!」
乾いた音が、小さく響いた。
その一瞬。
時間が、確かに切り取られる。
過去でも未来でもない、「今」が。
だが、その余韻を断ち切るように、鋭い声が飛んできた。
「もう! こんなとこにおったんかいな!」
振り向くと、少し離れた場所に、年増の女が立っていた。
苛立ちを隠そうともしない目で、こちらを見ている。
少女の身体が、ぴくりと強張った。
そして、すっと目を伏せる。
鶴子は、その反応に、胸の奥がざわついた。
女は、ずかずかと近づいてくる。
「ちょっと目ぇ離したら、すぐ出ていくんやから……」
ぶつぶつと文句を言いながら、少女の肩を乱暴に引き寄せた。
「しゃーない子やで、ほんま」
そして初めて、鶴子と山田の存在に気づいたように、軽く会釈をする。
「この子、悪さばっかりして……手ぇ焼いてまんねんわぁ。すんまへん」
その言葉に、どこか愛情の薄い響きが混じる。
鶴子は、思わず立ち上がり、頭を下げた。
「……いえ」
それ以上、何も言えなかった。
「ほら、早よ行くで!」
女が少女の腕を引く。
少女は、動かない。
その小さな身体に、かすかな抵抗の意志が宿る。
「行くで言うてるやろ!」
苛立った声とともに、軽く頭を叩く。
そして、そのまま腕を掴み、無理やり引き寄せた。
少女の身体が、よろめく。
そのとき――
少女は振り返った。
まっすぐに、小鶴を見つめる。
その瞳に宿るものは、年齢に似合わぬ静けさだった。
まるで――別れを、知っているかのような。
鶴子の胸が、大きく揺れる。
そして、その瞬間。
少女の腰元で、赤いものが揺れた。
小さな、赤いお守り。
夕陽の残光を受けて、かすかに光る。
あれは。
息が止まる。
見間違えるはずがない。
あの形。あの色。
自分が、ずっと手放さずにきたものと、同じ。
幸夫の夢が詰まったもの。
胸の奥で、何かが音を立てて繋がる。
あの夏の光。
背中に感じたぬくもり。
土手で名を与えた、あの命。
――幸子。
理屈ではない。
説明もいらない。
ただ、確信だけが、鶴子の身体を貫く。
あの子は――
「……さちこ……」
かすかな声が、こぼれた。
少女は、何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ、微笑んだように見えた。
次の瞬間、女に腕を引かれ、そのまま歩き出す。
小さな背中が、少しずつ遠ざかっていく。
赤いお守りが、揺れながら。
鶴子は、その場に立ち尽くしたまま、ただ見つめていた。
手を、ゆっくりと振る。
少女もまた、振り返りながら、小さくこちらを見ている。
やがて、その姿は、木屋町の人影の中に紛れていった。
しかし、小鶴の胸には、消えないものが残っていた。
あの子は、生きている。
どこかで、確かに。
そして――
自分の知らない未来へと、歩いていく。
その確信だけが、静かに、深く、残り続けていた。
小橋の上には、夜の気配が降りてきていた。
高瀬川の水は、昼の輝きを失い、黒い帯のように静かに流れている。
この光景を見て気まずくなっていた山田が口を開いた。
「今、撮った写真と約束の写真なんだけど、もう、ここに来る時間がないから、朝鮮から帰ってきたら、また、ここに来て渡すよ。」
「……はい」
と、鶴子は、小さく、うなずいた。
「じあ、その時まで……元気で」
小鶴は、もう一度うなずく。
「……山田さんも」
山田の背中は、木屋町の闇の中へとゆっくり溶けていった。
足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
小橋の上には、再び水の音だけが残った。
鶴子は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
先ほどまで確かにそこにあった、温もり。
少女の小さな手の感触。
振り返ったときの、あの目。
すべてが、まだ胸の奥に残っていた。
「……さちこ……」
思わず、名がこぼれる。
その響きは、不思議と寂しさではなく、どこか安らぎを含んでいた。
あの子は、生きている。
そう思えたからだ。
自分の知らない場所で。
自分の知らない時間を、生きていく。
それでいい。
それだけでいい。
鶴子は、ゆっくりと息を吐いた。
そのときだった。
「……っ……」
喉の奥から、突き上げるような咳が込み上げる。
ひとつ、ふたつ――
身体が大きく揺れる。
胸の奥が焼けるように痛む。
息が、続かない。
「……は……っ……」
橋の欄干に手をかけようとするが、力が入らない。
視界が、にじむ。
足元が崩れる。
そのまま、膝が折れ、橋の上に崩れ落ちた。
石の冷たさが、頬に触れる。
遠くで、水の流れる音がする。
それは、どこか懐かしい響きだった。
あの夏。
焼けつくような光の中で、背中に感じていた小さな重み。
あのぬくもり。
あの命。
土手の上で、名を与えた日のこと。
「……さちこ……」
もう一度、名を呼ぶ。
その声は、ほとんど音になっていなかった。
だが、確かに届いた気がした。
どこか遠い時間の中で。
あの子が、振り返ってくれるような気がした。
鶴子の唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
もう、何も怖くはなかった。
守るべきものは、確かに生きている。
それだけで、十分だった。
呼吸が、ゆっくりと浅くなっていく。
力が、静かに抜けていく。
水面は、何も変わらず、ただ流れていた。
やがて――
小鶴の身体は、完全に動かなくなった。
それは、時代に翻弄された一人の少女の命が静かに幕を落とした瞬間だった。
――あかん、死んだらあかん!
声にならない叫びが、胸の奥で弾けた。
幸子は路地の陰から、そのすべてを見ていた。
小橋の上に崩れ落ちる母の姿を。
伸ばされた手が、何も掴めずに空を切るのを。
ゆっくりと、確実に、命がほどけていく瞬間を。
「……待って……」
口は動くのに、声が届かない。
足を踏み出しているのに、距離が縮まらない。
まるで、見えない膜に阻まれているようだった。
触れられない。
近づけない。
そこにいるのに、いないのと同じ。
何度も、そうだった。
この時代に迷い込んでから、ずっと。
ただ“見ることしかできない”存在として、ここにいる。
それでも――
それでも、この瞬間だけは違った。
「あかんって、死なんといて!」
震える声が、ようやく漏れる。
目の前で、母が死のうとしている。
それを、ただ見ているしかない。
そんなことが、許されていいはずがない。
幸子は、必死に手を伸ばした。
母の背へ。
あの夏、自分を背負ってくれていた、その場所へ。
だが――
指先は、何にも触れない。
ただ、空気をかすめるだけだった。
「……どうして……」
視界が滲む。
涙なのか、それともこの世界そのものが揺らいでいるのか、分からない。
母の唇が、かすかに動く。
誰かを呼んでいる。
――名前。
自分の名前を。
「……さちこ……」
その瞬間、胸の奥が強く締めつけられる。
「……おかあさん……」
ようやく、言葉が形になる。
けれど、その声はやはり届かない。
届くはずがない。
時間が、違う。
立っている場所が、違う。
それでも――
幸子は、その場に膝をついた。
崩れ落ちるように。
小橋の上で静かに横たわる母を、ただ見つめる。
何もできなかった。
何ひとつ、変えられなかった。
ただ、見届けることしかできなかった。
けれど――
その胸の奥に、ひとつだけ、確かなものが残っていた。
あの温もり。
あの背中。
あの声。
あの微笑み。
そして、あの生きる強さ。
それらすべてが、自分の中に生きているという事実。
涙が、静かに頬を伝う。
それは悲しみだけではなかった。
喪失と、理解と、そして――
ようやく辿り着いた“繋がり”の重さ。
幸子は、ゆっくりと目を閉じた。
高瀬川の水の音が、遠くで流れている。
それは、途切れることのない時間の音だった。
生きていく。
この先の時間を。
この人が、守り、託してくれた命として。
幸子は、胸の奥で、静かにそう誓った。




