ミチコ
別れ際、鶴子の腰に結ばれた赤いお守りが、ふと山田の目に入った。
古びた布地。
煤けてはいたが、鮮やかな赤だけは不思議なほど色褪せていない。
一瞬だけ、山田は目を留めた。
だが、それだけだった。
終戦の日、神社で見たお守りと同じものだとは、気づきもしない。
ただ、大切な人にもらったんだな。
その程度に思っただけで、すぐに忘れてしまっていた。
「じゃあ、また、明日。」
バラック小屋を後にする山田は、鶴子とタマエに手を振った。
タマエが鶴子に。
「あの人、また、明日も、来るん?」
鶴子がうなずく。
「今度は、私一人で、撮ってもらおかな? 白粉、残ってたっけ?」
鶴子が、微笑んだ。
翌日の昼下がり。
その日の空は薄く霞み、焼け跡の町を吹き抜ける風には、まだ春の名残があった。
どこからか煤の匂いが漂い、遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。
山田は、茶封筒を脇に抱え、川沿いのバラック小屋へと急いでいた。
封筒の中には、戦争中、飛行場で撮った写真が入っている。
少女たちが、ぎこちなく笑っている写真。
鶴子と幸夫が、仲良く並んで微笑んでいる写真。
山田は、その写真を、鶴子に託すことが、自分の使命のように思っていた。
程なく、バラック小屋に着いた山田は、物干し場へ回り込む。
だが――。
「……あれ?」
誰もいない。
少女たちの声もしない。
でも、少女たちの白いブラウスや下着は風でなびいている。
山田は辺りを見回す。
「鶴子さん?」
返事はない。
「タマエちゃん?」
風だけが吹き抜ける。
嫌な静けさだった。
山田は胸の奥に、小さなざわめきを覚えながら、バラック小屋へ近づいた。
入口の破れた布をめくる。
その瞬間だった。
「……!」
山田の表情が凍りつく。
中には――誰もいなかった。
囲炉裏代わりの火鉢には、まだ湯気を立てる鍋。
炊き立てのすいとんの匂いが残っている。
木の椀も、箸も、そのまま。
少女たちの着替え。
古い草履。
角に積まれた洗濯物。
まるで、ついさっきまで誰かがいた気配だけが、生々しく残っていた。
なのに。
人間だけが消えている。
山田はゆっくりと中へ入る。
畳代わりのゴザを踏む音が、妙に大きく響いた。
「お邪魔します 誰かいますか?」
思わず声を出す。
だが、返事はない。
火鉢の湯だけが、ことことと小さな音を立てていた。
山田の背筋を、冷たいものが走る。
空気がおかしい。
静かすぎる。
まるで、この場所だけ、時間から切り離されたようだった。
その光景を――。
少し離れた場所から、幸子が立ち尽くして見ていた。
胸が苦しい。
息が浅くなる。
幸子には分かっていた。
これは、“普通の別れ”ではない。
何かが起きている。
いや――。
もう既に、“起きてしまった後”なのだと。
幸子は震える指で、自分の胸元を押さえる。
自分が存在していない別の世界での出来事なのに、鼓動が早い、耳鳴りがする。
やがて山田は、封筒を強く握り締めた。
写真の端が、くしゃりと歪む。
「……何が、あったんだ……」
掠れた声。
その声だけが、誰もいないバラック小屋の中に、虚しく響いていた。
暗いバラック小屋の中で、屋根の隙間から差し込んだ夏の強い日差しが、まるで、スポットライトのように、山田を浮かび上がらせいた。
その夜は、蒸し返すような夜風が、大阪の焼け跡の匂いを運んでいた。
焼け跡には粗末な屋台やバラックが並び、裸電球の灯りが湿った夜気に滲んでいる。闇市からは安酒の匂いと煙草の煙が流れ、どこかでグレン・ミラーのイン・ザ・ムードが鳴っていた。
通りのあちこちには、派手な化粧をした女たちが立っている。
「ヘイ、ボーイ!」
「遊んでいかへん?」
米兵たちへ媚びた声が飛び交い、その笑い声が夜空へ溶けていく。
その雑踏の中を、山田は自転車で走っていた。
白いシャツの袖をまくり、肩から新聞社の鞄を提げている。仕事帰りなのか、どこか疲れた顔をしていた。
すると、通りの脇から女が声をかけてきた。
「お兄さん、遊んでいけへん?」
山田は反射的にブレーキを緩める。
そこに立っていたのは、二十歳そこそこの女だった。
濃い口紅に、安物の香水。だが、その目だけは妙に鋭く、生きるために必死な光を宿している。
山田は困ったように笑った。
「ゴメン、僕はいい」
そう言って去ろうとする。
「ちぇっ!」
女は露骨に顔をしかめると、すぐ別の男へ声をかけた。
「なぁ、遊ばへん?」
その時だった。
遠くから女の叫び声が飛ぶ。
「キャッチや!」
一瞬で空気が変わった。
通りに立っていた女たちが、一斉に逃げ出す。
路地の奥から腕章をつけた男たちの姿が見えた。
「うわっ、最悪!」
女――ミチコは顔色を変える。
そして、まだ近くにいた山田の自転車へ駆け寄った。
「お願い! 乗せて!」
「えっ!?」
山田が驚く間もなく、ミチコは荷台へ飛び乗る。
「一生のお願い!」
「う、うん……!」
山田は慌ててペダルを踏み込んだ。
狭い路地へ、自転車が飛び込む。
背後から怒鳴り声が響き、提灯の灯りが流れるように遠ざかっていく。
二人乗りの自転車は、夜の焼け跡を必死に走り抜けた。
しばらくして。
人気のない土手道まで来ると、山田はようやく自転車を止めた。
川面に月明かりが揺れている。
ミチコは荷台から飛び降り、大きく息を吐いた。
「おおきに! 助かった!」
山田はまだ状況が理解できず、息を切らしながら尋ねる。
「う、うん……。でも、“キャッチ”って何?」
ミチコは汗を拭いながら答えた。
「あー、性病の検査で強制連行されんねん」
「そ、そうなんだ……」
山田は言葉を失う。
ミチコはそんな彼を見て、ふっと笑った。
「お礼にショート半額にしたるし、遊んでいけへん?」
山田は苦笑する。
「ゴメン。僕は、いい……」
「あっそ!」
ミチコはつまらなそうに背を向け、歩き出した。
だが、山田はその背中を呼び止める。
「ちょっと!」
ミチコが振り返る。
「何? 遊ぶ気になった?」
「ゴメン、残念だけど……」
山田は少し迷ったあと、静かに言った。
「一つ、聞いていいかな?」
「えっ?」
「この辺に、口のきけない女の子が居たと思うんだけど……知らないかな?」
ミチコの表情が、わずかに変わる。
「口のきけへん女の子……」
「うん……」
山田は記憶を辿るように目を細めた。
「あっ そうだ! 腰に、赤いお守りをぶら下げてたんだけど……」
土手の上を、二人は並んで歩いていた。
山田は自転車を押し、ミチコは、咥えタバコで草履を引きずるように歩いている。
川の向こうには、焼け残った工場の灯りがぼんやり浮かび、夏の生ぬるい風が草を揺らしていた。
しばらく無言が続いたあと、ミチコがぽつりと言った。
「……あんた、その子の知り合いなん?」
山田は少し考えてから答える。
「う、うん……戦争中、飛行場で」
ミチコは前を向いたまま、小石を蹴る。
そして、どこか遠くを見るような目で続けた。
「あの子らな……一か月くらい前の朝に、みんな連れて行かれてもうた」
山田が足を止める。
「連れて行かれた?」
「“浮浪児狩り”や」
ミチコは吐き捨てるように言った。
「警官とか役人とか、いっぱい来てな。戦災孤児を片っ端から集めて、施設へ放り込むんや」
山田の脳裏に、あの誰もいないバラック小屋の光景が浮かび上がった。
「うちら、見つかったら逃げるようにしてたんやけど……その日、ウチ、客に呼ばれて朝まで別んとこ行っとって」
ミチコは乾いた笑いを漏らした。
「帰って来たら、もう誰もおれへんかった」
土手に吹く風が、一瞬だけ強くなる。
山田は静かに尋ねた。
「……その、口のきけない子も?」
ミチコは頷く。
「あー それ、名無しの権兵衛はんって言う女の子や その子は、たぶん、連れて行かれてへん」
「えっ?」
「あの子な、毎朝むっちゃ早起きやってん」
ミチコの口調が、少しだけ柔らかくなる。
「暗いうちから、洗濯して、それから、焚き木拾いに行っとったんや。河原とか、その辺歩き回って、せやから、“浮浪児狩り”が来た時には、たぶん小屋におらへんかったんやと思う」
山田は小さく息を吐いた。
胸の奥で、張り詰めていたものが少しだけ緩む。
「……そっか」
ミチコはそんな山田をちらりと見た。
「でもな」
「えっ?」
「あの子、あれから見てへんわ」
夜風が二人の間を通り過ぎる。
遠くで汽笛の音が鳴った。
ミチコは少し眉をひそめる。
「口きけへんけど、なんや、生命力のある子やったなぁ……お腹の中に赤ちゃんおったから、心配やぁ」
山田は自転車のハンドルを握り直した。
「もう、生まれてるかも。男の子やったら、幸一、女の子やったら、幸子。うちがつけてあげたんや。」
山田は、夜の川面を見つめながら、小さく呟いたた。
「そうだったんだ……探してみるよ」
川面を渡る夜風が、生ぬるく二人の頬を撫でた。
しばらく黙っていたミチコが、不意に口を開く。
「で、あんたは何してる人?」
山田は少し笑う。
「僕? 僕は記者。あー、記者って言っても、乗り物の汽車じゃないから」
ミチコは呆れた顔をした。
「そんなん、わかってるわ!」
「そ、そうだよね……」
山田は気まずそうに頭を掻く。
その様子が可笑しかったのか、ミチコはふっと微笑んだ。
夜の風が、二人の間を通り過ぎる。
山田はふと足を止め、焼け跡の街並みを見下ろした。
崩れたままの瓦礫。
闇市の裸電球。
米兵の笑い声。
そして、街角に立つ女たちの姿。
山田は静かに呟いた。
「……日本をこんなにしたのは、何も軍人や政治家だけじゃない」
ミチコが横目で見る。
「僕ら新聞にも責任があるんだ。軍部に踊らされたとは言え、“鬼畜米英”って国民を戦争へ煽ったのは……僕らなんだから」
ミチコの足が止まった。
その目が鋭くなる。
「今、日本の女にこんな事させてるんは、みんな、あんたら男の責任や!」
山田は何も言えない。
ミチコの声は次第に熱を帯びていく。
「大和魂やなんや言うて、結局、負けてしもたやんか!」
「……」
「あそこに立ってる子ら、どんな思いでこんな事してると思う!?」
遠くの街角では、若い女が米兵に笑いかけていた。
山田は俯く。
「……ごめんなさい」
その声は小さかった。
「でも、僕は……」
山田は肩から提げた鞄を開き、中から古びたカメラを取り出す。
「僕は、ペンと――映像の力で、君たちの姿を世界に伝えたいと思ってる」
ミチコは黙って聞いている。
「二度と、こんな馬鹿げた戦争が起きないようにしたいんだ。でも今は、GHQの検閲が厳しくて……真実は、なかなか書けない」
ミチコは「GHQ……」と小さく呟き、なぜか薄く笑った。
「そう……」
山田が頷くと、ミチコは少し得意げに言った。
「うちな、GHQの偉いさんから“オンリー”の話、来てんねん」
山田は眉をひそめる。
「オンリーって?」
「専属の女」
山田の表情が曇る。
ミチコは空を見上げた。
「うち、本当はもう、この商売辞めて、福井の田舎に帰ろ思てたんや」
夜空には雲が流れていた。
「でも……それで日本の女の子が少しでも助かるんやったら」
ミチコは山田を見た。
「交換条件に、あんたの事、言うたげるわ」
「でも……」
「もし上手いこといったら」
ミチコは真っ直ぐに言った。
「絶対、日本の女の子、助けたってや!」
山田はしばらく黙っていた。
やがて、強く頷く。
「うん……必ず」
そして、不意に思いついたようにカメラを持ち上げた。
「そうだ。写真、撮らせてくれない?」
「えっ?」
月明かりの下。
ミチコは山田の自転車にまたがり、少し照れたように笑っていた。
風が前髪を揺らす。
その笑顔は、街角で男に向ける作り笑いではなく、少女の顔だった。
山田はファインダー越しに、その姿を見つめる。
そして静かに、シャッターを切った。
強いフラッシュの光が、まだ、あどけなさが残るミチコの顔を浮かび上がらせた。




