洗濯物
焼け跡の風が、乾いた埃を舞い上げていた。
終戦から半年が過ぎたのに、まだ、大阪の街は、見渡す限り、崩れた瓦礫と焼け焦げた柱ばかりだった。かつて家が並んでいたはずの場所には、黒く煤けた土と、ねじ曲がった鉄骨だけが残されている。
その片隅に、粗末なバラック小屋が寄り添うように建っていた。
鶴子は、小屋の裏手で、いつものように洗濯物を物干し竿へ掛けていた。
大きく膨らんだ腹を抱え、時折、苦しそうに腰へ手を当てる。
腹の中の子が動いたのか、鶴子はそっと腹を撫でた。
その時だった。
「……あれ?」
男の声がした。
鶴子が振り向く。
痩せた男が、瓦礫の向こうに立っていた。
それは、従軍記者の山田一郎だった。
肩から古びた鞄を提げ、首にはカメラを下げている。
山田は、しばらく信じられないものを見るように鶴子を見つめていた。
やがて、ゆっくり近づいて来る。
「……君……」
鶴子の瞳が揺れた。
その顔には見覚えがあった。
飛行場。
炎天下。
少女たちに向けられたカメラ。
そして、幸夫との結婚写真。
山田はようやく小さく笑った。
「世の中って狭いね」
鶴子は黙ったまま立っている。
「あれから……君、どうしてたの?」
問いかけられても、鶴子はうつむくだけだった。
声が出ない。
いや、出せない。
あの日から、彼女の言葉は戦争の中へ置き去りにされたままだった。
山田はカメラを鞄へ戻しかけた時、不意に手を止めた。
その視線が、鶴子の腹へ落ちる。
ゆったりしたモンペの上からでも分かるほど、大きく膨らんでいた。
山田の表情が変わる。
「……え……」
思わず声が漏れた。
飛行場で見た少女の面影と、目の前の鶴子の姿が、山田の中でうまく結びつかない。
あの時の鶴子は、まだ子供のように細く、幼い目をした少女だった。
その少女が今、母になろうとしている。
山田は言葉を失ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
鶴子は気まずそうに視線を逸らし、そっと腹を隠すように手を添える。
すると山田は、はっと我に返った。
「あっ……ご、ごめん!」
慌てて頭を下げる。
「いや……その……」
何を言えばいいのか分からない。
戦争が終わって半年。
焼け跡の中で、人が生き、子供が生まれようとしている。
その当たり前の事実が、山田には眩しかった。
彼は少しだけ目を細めた。
「……そっか」
静かな声だった。
鶴子は何も言えないまま、小さく微笑んだ。
腹の中の子が動いたのか、鶴子の手の下で、微かに布が揺れる。
山田はその様子を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
死へ向かう人間たちを撮っていた自分が、今こうして、新しい命を宿した彼女を見ている。
瓦礫だらけの世界の中で、そこだけに小さな未来が灯っているようだった。
山田は、それ以上、無理に聞こうとはしなかった。
山田は瓦礫の山へ目を向ける。
「今、僕は……こんなになってしまった日本の人や街を記録してる」
遠くでは、子供たちが鉄屑を拾い集めている。
痩せた母親が、鍋を抱えて配給の列へ向かっていた。
「子供や、君みたいな若い人が苦しんでるのを見てると……」
山田は苦く笑った。
「今の僕には何にもしてあげられないし、胸が締め付けられる」
風が吹く。
灰が青空に舞った。
「……けど、これが僕の使命だから」
鶴子は静かに山田を見ていた。
その目だけが、「覚えている」と語っていた。
そして、二人は瓦礫の上に腰を下ろした。
爽やかな初夏の青い空からの太陽の光が、二人の顔を照らしている。
山田はふと思い出したように鞄を探り始めた。
「あっ! そうだ!」
ごそごそとカバンの中を探る。
「持って来てないなぁー」
鶴子は不思議そうに首を傾げる。
「写真。ほら、飛行場で撮った写真!」
山田は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「ごめんなさい……少女倶楽部に載せられなくって……」
鶴子は小さく微笑んだ。
その微笑みを見て、山田は少し安心したようだった。
「明日も、ここにいる?」
鶴子を見る。
「今ぐらいの時間に持って来るから」
鶴子は静かにうなずいた。
その時だった。
「ただいま!」
小太り少女のタマエが走って来た。
息を切らしながら鶴子の横へ来ると、山田を見て目を丸くする。
「この人は?」
山田は少し慌てたように背筋を伸ばした。
「従軍……いや、ただの記者です」
「記者って、シュシュポポの?」
山田は思わず吹き出した。
「じゃなくて、新聞記者」
「新聞記者……」
タマエは疑わしそうに山田を見たあと、鶴子へ顔を寄せた。
「あんた、何かこの人に悪いことされたんとちゃうわな?」
鶴子は困ったように笑う。
タマエは山田をじろじろと見上げていた。
首から提げたカメラ。
擦り切れた背広。
煤だらけの瓦礫の中では、少し場違いにも見える。
「ほんまに、その記者なん?」
疑うような目だった。
山田は苦笑いすると、少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「ああ、ちゃんと名乗ってなかったね」
そう言って背筋を伸ばす。
「関西日報の記者をしてます。山田一郎です」
ぺこりと頭を下げた。
タマエは「ほぉー」と感心したような声を漏らす。
「新聞の人かぁ……」
そして突然、顔を近づけた。
「ほな、一つお願いがあるんやけど?」
「何?」
「新聞紙 もうちょっと 柔らかくしてくれへん?」
山田も思わず目を丸くした。
その横で、その意味を知っていた鶴子は静かに微笑んでいた。
意味不明な山田はそんな鶴子を見て、ふと表情を和らげる。
焼け跡の爽やかな風が吹く。
瓦礫の隙間を、昼下がりの光が長く伸びていた。
突然、山田は「あっ」と声を上げた。
その声に、びっくりした鶴子とタマエ。
「そうだ!」
山田は、鞄からカメラを取り出す。
「写真、撮りませんか!?」
「写真?」
「はい!」
タマエは腕を組み、じろりと山田を見る。
「ええけど……ただではあかんで!」
「そ、そうだよね」
山田は慌てて鞄を漁った。
そして、小さなドロップ缶を取り出す。
「これでどう?」
カラン、と缶を振る。
「まだ少し残ってるみたい」
山田が笑うと、タマエの目が輝いた。
「うわっ! ドロップや!」
瓦礫の前に、鶴子とタマエが並んで立つ。
初夏の光が二人の背を白く輝かせていた。
向かい側で、山田がカメラを構える。
「笑って!」
ファインダー越しに二人を見る。
「ハイ、チーズ!」




