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少女たち  作者: 永遠栄作
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22/27

言葉を失ったままの鶴子は、毎日、誰より早く起きて、大きなたらいに水を汲んで洗濯をし、食事の支度をした。煤けた鍋を磨き、破れた着物を繕い、熱を出した少女の額に濡れ手拭いを当てる。

それが、今の自分に出来る唯一のことだとでも思うように。


そんなある日。

やわらかな春の陽射しが、柱の隙間から差し込んでいたバラック小屋の中。

ミチコが米ぬかを混ぜた粥を鍋でかき回している。


「ほんま、配給だけやと腹ふくれへんなぁ……」

ぶつぶつ言いながら振り返る。


「権兵衛さん、水もうないでー」

返事はない。

ミチコは鍋の蓋を閉め、外へ出た。

小屋の裏手では、鶴子がしゃがみ込み、洗濯物をたらいで洗っていた。

冷たい水に細い手を浸し、黙々と布をこすっている。

春風が吹き、干してある着物が揺れた。


「そんなん毎日せんでもええから」

ミチコが笑いながら近づく。

鶴子は小さく頭を下げる。

その時だった。

ミチコの視線が、ふと鶴子の腹元で止まった。


「……あれ?」


鶴子が顔を上げる。

ミチコは黙ったまま、じっと彼女を見る。

以前より、帯のあたりが少しふくらんで見えた。

最初は気のせいかと思った。

けれど。

しゃがんだ拍子に、着物の線がはっきりと浮かび上がる。

ミチコの表情が変わった。


「あんた……」


鶴子が不安そうに目を伏せる。

ミチコはゆっくり近づき、そっと彼女の腹に視線を落とした。

風の音だけが聞こえる。

遠くで、赤ん坊の泣き声がした。

鶴子の肩が小さく震える。


そして。

まるで隠しきれなくなった秘密を認めるように、静かに自分のお腹へ手を当てた。

ミチコは息を呑む。


「……ほんま、なん?」

鶴子は、ゆっくり頷いた。

その瞬間、ミチコの中で色々な感情が渦巻いた。

驚き。戸惑い。怒りにも似た悲しさ。

こんな時代に。こんな場所で。

ミチコは唇を噛んだ。


「誰の子……とか、聞かへん」


鶴子は俯いたまま動かない。

その横顔には、深い影が落ちていた。

それ以上、ミチコは、何も聞けなくなった。

きっと、そこには思い出したくもない記憶がある。

戦争の終わりに、女たちがどんな目に遭ったのか。

ミチコも嫌というほど見てきた。

だからこそ、聞けなかった。

しばらく黙っていたミチコは、大きく息を吐く。


「……そっか」

それだけ言って、鶴子の隣へ腰を下ろした。

二人並んで、春の川風を受ける。

菜の花の匂いが漂ってくる。

鶴子は不安そうにミチコを見た。

追い出される。

そう思ったのかもしれない。

だが、ミチコは突然、いつもの調子で言った。


「ほな、これからは重たいもん持ったらあかんな」

鶴子が目を見開く。


「洗濯も、ほどほどにしぃ。あんた一人の身体ちゃうんやから」

その言葉に。

鶴子の瞳が、みるみる潤んでいく。

声は出ない。

けれど、唇が震えていた。

ミチコは照れ隠しみたいに鼻を鳴らす。


「泣かんでええって。別に珍しいことちゃう。戦争終わってから、こんなん山ほど見てきた」

そう言いながらも、その目はどこか優しかった。


「ええか、その子は、これからの日本を作るんや、どんなことがあっても、産むんやで」


鶴子は、ミチコの言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが静かに震えた。

――これからの日本を作る。

その言葉は、鶴子にはあまりにも大きすぎた。

それは、自分はただ、生き延びてしまっただけの人間だと思っていたからだ。

家族も失った。

大切な人たちも失った。

言葉さえ失い、毎日をただ必死にやり過ごしているだけだった。

そんな自分のお腹の中にいる命が、“未来”だと言われた。

それは、鶴子にとって、怖いほど眩しい言葉でした。

同時に、どうしようもない不安も押し寄せます。

本当に、この子を産んでいいのだろうか。

こんな焼け跡の時代に。

食べるものもなく、明日さえ分からない世界で。

自分に母親になどなれるのか。

その子を幸せに出来るのか。

胸の奥には、戦争の記憶もまだ生々しく残っている。

自分だけが生き残ったという罪悪感。

だから一瞬、鶴子は、お腹の中の命に対してさえ、申し訳なさを感じていた。

 

こんな世界に生まれて来させてしまって、ごめんなさい。

けれど。

ミチコの「産むんやで」という言葉には、命令ではなく、“願い”が込められていた。

戦争で何もかも奪われた人間が、それでも未来を諦めないための願い。

焼け跡の中でも、生きることをやめないという決意。

その温度が、鶴子の冷え切っていた心へ、少しずつ沁み込んでいった。


そして初めて――。

鶴子は、自分のお腹にいる命を、“失われたものの残り”ではなく、“これから始まるもの”として感じた。

怖い。

でも、守りたい。

生きてほしい。

そして、お腹に手を当てるたび、鶴子の胸には、あの日の飛行場が蘇った。

燃える夕焼け空。

夢を語った幸夫の眼差し。

もう、この世にはいない人。

けれど、その命だけが今、自分の中で生き続けている。

鶴子は涙をこらえるように、お腹をそっと抱きしめた。

この子は、幸雄さんが、この世に残した最後の希望なのだと思った。

その小さな感情が、胸の奥に、かすかな灯のように生まれた。

まるで、自分自身に言い聞かせるように。

この子だけは、生きなければならない、と。


幸子は、少し離れた場所から、その光景を静かに見つめていた。

春の陽射しの中で、お腹を抱きしめる鶴子の姿が、なぜかたまらなく愛おしく見えた。

けれど同時に、胸の奥が締めつけられた。

幸雄という名前。

飛行場で死んでいった青年。

そして、その命を宿した赤ん坊。

点だった出来事が、少しずつ一本の線になって繋がり始めていた。

もしかしたら――。

その赤ん坊は、自分と深く関わる存在なのではないか。

そんな説明のつかない感覚が、幸子の胸に静かに広がっていく。

けれど、今の幸子には、まだ確信はなかった。

ただ。

焼け跡の時代の中で、それでも未来を産もうとしている鶴子の姿だけが、強く心に残っていた。

そして幸子は、自分でも気づかぬうちに、涙を流してた。












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