覚悟
バラック小屋の隙間から、細い朝日が何本も差し込んでいた。
夜露に湿った土の匂いと、体臭と古い布の臭いが入り混じっている。
突然――
ガン! ガン! ガン!
耳をつんざくような音が、小屋の中に響き渡った。
「起床! 起床! 何時か分からへんけど! 朝やでー! 起きやー!」
空き缶を棒で叩きながら、ミチコが怒鳴っている。
ゴザにくるまっていた少女たちが、もぞもぞと身を起こした。
鶴子も重い瞼を開ける。
昨夜の疲れが、まだ全身にへばりついていた。
ここがどこなのか。
自分が何者なのか。
考える余裕すらない。
「整列!」
ミチコの声が飛ぶ。
少女たちは慣れた様子で、一列に並び始めた。
鶴子も戸惑いながら最後尾へつく。
「番号!」
「1!」
「2!」
「3!」
乾いた声が順番に続く。
だが途中で、ミチコが眉をひそめた。
「あれっ? タマエは?」
おかっぱ頭の小柄な少女がおずおずと答える。
「お便所やと思います……」
すると、入口の布をかき分けるようにして、小太りの少女が飛び込んできた。
髪はぼさぼさで、顔をしかめている。
ミチコにぺこりと頭を下げ、そのまま列へ滑り込む。
「……新聞紙で拭くん地獄やなぁー」
隣のおかっぱ頭の小柄な少女にぼやくと、数人がくすりと笑った。
ミチコも吹き出しそうになりながら、
「タマエ! 今日どっかから、ちり紙盗っといで!」
と言った。
タマエは悪びれもせず、真顔でうなずく。
そのやり取りに、鶴子は目を瞬かせた。
笑っている。
こんな場所なのに。
こんな暮らしなのに。
少女たちは、どこか逞しく生きていた。
「みんな、新入り紹介する」
背中を押されるように、鶴子は列の前へ立たされた。
少女たちの視線が一斉に集まる。
鶴子は身体を小さく縮めた。
ミチコがわざとらしく腕を組む。
「な、名前は……名無しの権兵衛さんや!」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、小屋の中に笑い声が広がった。
鶴子は戸惑いながら顔を上げる。
少女たちは、腹を抱えて笑っていた。
ミチコが振り返る。
「みんな、仲ようしたってや!」
「……はい……」
返事は小さい。
「声が小さい!」
ミチコが空き缶を鳴らす。
少女たちは肩を震わせながら、
「はい!」
と声を揃えた。
「よし!」
満足そうに頷くミチコ。
鶴子はおずおずと頭を下げた。
朝日が、少女たちの乱れた髪を照らしていた。
焼け跡の街の片隅で。
行き場を失った少女たちは、それでも今日を始めようとしている。
少女たちの陰に隠れて見ていた幸子の心の中に「希望」と言う文字が浮かび上がっていた。
午後の陽射しはやわらかく、川沿いの土手には淡い菜の花が揺れていた。
遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。焼け跡だらけの町にも、春だけは平等に訪れていた。
ミチコは土手に腰を下ろし、膝を立てたまま煙草をふかしている。
鶴子は少し離れた場所に座り、川面を見つめていた。
水は鈍く光り、風に細かな波を立てている。
しばらく沈黙が続いたあと、ミチコがぽつりと言った。
「……怖いんやろ」
鶴子は答えない。
いや、答えられない。
ミチコは煙を空へ吐き出しながら苦笑した。
「まあ、そらそうや。あんな小屋に連れて来られて、“今日から仲間や”言われてもなぁ……」
鶴子は、うつむいたままだった。
「あの子ら……何して暮らしてると思う」
鶴子は、微かに首を振った。
風が吹き、土手の草がさわさわと揺れた。
ミチコは少し考えるように目を細めて。
「靴磨き。闇市の荷運び。進駐軍の洗濯。飯屋の皿洗い。たまに盗みもする」
さらりと言う。
鶴子の顔が曇った。
そんな鶴子を見て、ミチコは鼻で笑った。
「安心せえ。あたしは、あの子らに身体は売らせへん」
鶴子が顔を上げる。
ミチコは真っ直ぐ前を見たまま続けた。
「客ん中には、工場の親父もおる。料亭の旦那もおる。うまいこと頼めば、働き口ぐらい見つかんねん」
鶴子は小さく息を呑んだ。
ミチコは自嘲気味に笑った。
「あたしな、戦前は神戸の福原で女郎やっとったんや」
川風が二人の間を吹き抜ける。
ミチコは煙草の灰を落としながら、どこか遠くを見る。
「十三で売られた」
その声は妙に静かだった。
「最初は毎晩泣いたわ。逃げようともした。でもなぁ……逃げても帰る家なんか無いんや」
菜の花が揺れる。
遠くで汽車の汽笛が聞こえた。
「戦争始まってからは、兵隊ばっかりやった。みんな、明日死ぬかもしれへん顔してた」
ミチコはふっと笑う。
「けどな。不思議なもんで、優しい男もおったんやで。饅頭くれる奴とか、妹の話ばっかりする奴とかな」
鶴子は足元の雑草をむしりながら聞いていた。
「空襲で遊郭も焼けて、気ぃついたら、行き場ないガキばっかり集まって来た」
ミチコは振り返る。
「あたしはな、自分みたいなんを増やしたない」
その目は、いつもの豪快さとは違っていた。
哀しみ耐えた女の目だった。
「せやから、あの子らには普通の仕事探したる。時間かかってもな」
鶴子は唇を噛む。
昨夜、ミチコを見た時は怖かった。
乱暴で、品がなくて、何をするか分からない女だと思った。
けれど今、土手に座るその背中は、誰よりも必死に少女たちを守ろうとしているように見えた。
風が吹き、ミチコの髪が揺れる。
「……あんたもや」
「えっ?」
「あんたも、ここにおる間は守ったる」
鶴子は思わず目を伏せた。
春の陽射しが、二人の影を土手の斜面へ長く伸ばしていた。
幸子は少し離れた場所で、土手に咲く菜の花の陰に身を潜めるようにして、二人の話を聞いていた。
春の風が頬を撫でていく。
けれど胸の奥は、不思議なほど熱かった。
ミチコという女が分からなかった。
初めて会った時は、怒鳴って、笑って、盗みを平気で口にする、荒っぽい女にしか見えなかった。
戦争の前も、そんな人間だと思っていた。
だが違った。
彼女は、壊れた時代の中で、必死に少女たちを守っていた。
誰にも守られなかったからこそ。
自分が地獄を見たからこそ。
少女たちだけは、同じ場所へ落としたくないのだ。
幸子は、土手の向こうに広がる焼け跡の町を見る。
瓦礫の隙間にも、春の草は芽吹いている。
人間も同じなのかもしれない、と幸子は思った。
どれほど焼かれても。
どれほど傷ついても。
それでも誰かを守ろうとする人がいる。
その時、幸子の胸に、言いようのない痛みが走った。
もし――。
もし、この時代に生きていたなら。
自分は、こんなふうに誰かを守れただろうか。
便利な時代で生きて来た自分には、ミチコのような強さはない気がした。
いや。
強さではない。
覚悟だ。
幸子は、鶴子の横顔を見つめた。
自分の孫より幼く見えるその少女たちが、不安そうに頷いている。
その姿を見た瞬間、幸子の胸の奥で何かが静かに軋んだ。
春風に乗って、川の匂いが流れてくる。
幸子はそっと目を閉じた。




