焼け跡
まだ、空襲の焼け跡の匂いを残していた大阪。
崩れた建物の黒い骨組みが闇の中に突き出し、風が吹くたび、どこかでトタン板がかすかに鳴った。
瓦礫の隙間には小さな焚き火が揺れ、行き場を失った人々の影が、幽霊のようにうごめいている。
幸子は、その光景を少し離れた場所から見つめていた。
自分はこの時代の人間ではない。けれど、目の前の空気の冷たさも、煤けた匂いも、なぜか肌に触れるように感じられた。
その時だった。
焼け跡の道を、一人の女がふらふらと歩いて来る。
ぼろぼろに汚れた着物。痩せた肩。力なく揺れる足取り。
――鶴子。
幸子の胸が小さく震えた。
まるで魂だけが歩いているようだった。
その姿を、瓦礫の陰から一人の女がじっと見ていた。
派手な柄の着物をだらしなく羽織り、煙草の匂いを漂わせいたが、その顔立ちは、まだ、幼さが残っていた。
「あんた?」
低い声に、鶴子がゆっくり顔を上げる。
だが、その目は虚ろだった。
誰かを見ているようで、何も見ていない。
鶴子は何も答えず、そのまま通り過ぎようとする。
女は眉をひそめ、後を追った。
「今日の、ねぐらあるんか?」
その言葉に、鶴子の足が止まった。
振り返らない。
ただ、背中だけがかすかに震えている。
幸子は、胸の奥を掴まれるような気持ちになった。
この頃の鶴子は、もう、完全に言葉さえ失っていたのだ。
戦争が、人をここまで壊してしまうのか――。
幸子は唇を噛み締めた。
女は少しだけ表情を和らげ、鶴子の横顔を覗き込むようにして言った。
「お腹、減ってるんやろ?」
その瞬間。
鶴子の肩が、わずかに落ちた。
うつむいたまま、小さく、小さく頷く。
まるで、それだけで張り詰めていたものが切れてしまったようだった。
瓦礫の向こうで、春の夜風が静かに吹いていた。
幸子は、その光景から目を離せなかった。
あの生きると言う希望を持っていた明るく逞しかった鶴子、でも、目の前にいる彼女は、明日を生きることさえ出来るか分からない、一人の壊れかけた少女だっからだ。
場面は、変わり、バラック小屋の中。
煮炊きした煙と湿った木の匂いがこもっている。
板を打ち付けただけの粗末な壁の隙間から、春先の冷たい風が入り込んでいる。
天井からぶら下がった裸電球がぼんやり揺れていた。
と、柱の陰から見ていた幸子の視界に、頼りない光に照らされた、数人の少女たちの痩せた顔が入った。誰もが若いのに、目だけが異様に老いている。
その真ん中で、鶴子が夢中ですいとんを食べていた。
椀を両手で抱え込み、熱さも気にせず口へ運んでいる。
まるで止まれば、次の瞬間には食べ物が消えてしまうとでも思っているようだった。
数人の少女たちが、その様子を黙って見ている。
羨ましがるでもなく、笑うでもなく。
ただ、見慣れた光景を見るように。
女が、その姿にふっと笑った。
「そんな慌てんでも、誰も取らへん」
その声だけが、この場所では不思議なくらい温かかった。
鶴子は一瞬だけ顔を上げたが、すぐまた椀へ視線を落とした。
どうやら、この女は、この集団のリーダーのようだ。
食べ終えた後。
鶴子と女は、擦り切れたゴザの上に並んで座っていた。
離れた場所では、少女たちが毛布代わりの布にくるまり、小声で話している。
女は顎で彼女たちを示した。
「ここに居る子は、あんたと一緒や。戦争でひとりぼっちになった子ばったりや」
鶴子が、ゆっくり少女たちを見る。
その目には怯えがあった。
人を信じたいのに、まだ信じることが怖い――そんな目だった。
幸子も、その視線を見て苦しくなった。
女は静かに尋ねた。
「私の名前は、ミチコ あんた、名前は?」
鶴子は小さく首をかしげる。
質問の意味が分からないように。
ミチコは眉をひそめた。
「あんた……言葉、忘れたん?」
鶴子は、ゆっくりとうつむく。
その沈黙が答えだった。
ミチコは少しだけ目を細め、ぽつりと呟く。
「まあ、この時代、無理もないは」
その言葉には、驚きも哀れみもなかった。
ただ、この時代を生きる者だけが持つ諦めが滲んでいた。
鶴子は黙ったまま膝を見つめている。
ミチコは煙草を指で弄びながら続けた。
「これからの日本は食うか食われるかや。でも心配しんとき」
そして、自分の身体を軽く叩いて笑う。
「女はな、この身体さえあったら、喋れんでも、ちゃんと生きて行けるしな」
その笑顔は明るいのに、どこか悲しかった。
鶴子がゆっくり顔を上げ、ミチコを見る。
ミチコは、そんな鶴子を真っ直ぐ見返した。
「今日はここで寝てええさかい。その覚悟が出来るか、ゆっくり考えよし」
鶴子は小さく頷いた。
幸子は、その光景を見つめながら思った。
ここは決して救いの場所ではない。
それでも――焼け跡を彷徨っていた鶴子にとって、この小屋は、生きるために辿り着いた最初の灯だったのかもしれないと。
湿った土と煤の臭いが染みついたバラック小屋の中で、囲むように座っていた少女たちは、木の器を両手で抱え込み、夢中ですいとんを口へ運んでいた。その細い肩が小刻みに震えている。まるで、食べることをやめれば、そのまま命まで止まってしまうようだった。誰も笑わない。ただ、飢えを知る人間の目をしていた。
夜も更け、少女たちが思い思いに横になる頃。
鶴子とミチコは、擦り切れたゴザの上に並んで座っていた。
隙間風が吹き込むたび、壁代わりのトタン板がカタカタと鳴る。
ミチコは煙草も吸わず、ぼんやりと少女たちを眺めていた。
鶴子も、おびえたような目で少女たちを見る。
まだ幼さの残る寝顔。
それは、泣き尽くした者の顔だった。
それでも、その場所には奇妙な温かさがあった。
血の繋がりもない。
昨日まで他人だった者同士。
けれど、焼け跡の中で寄り添わなければ、生き残れなかった少女たちの、小さな共同体だった。
幸子は、その光景を見つめながら思う。
自分は、この人たちに育てられたのだ、と。
この焼け跡の女たちが、繋ぎ止めてくれたのだと。




