奇跡
飛行場から少し離れた神社の参道。
夕暮れの空は赤黒く焼け、遠くで軍用機の残響のような音が風に混じって聞こえる。石灯籠の並ぶ参道を、鶴子はふらつくように歩いていた。
目は虚ろで、足元も覚束ない。
脳裏には、何度もあの光景が蘇っていた。
海に消えて行った友達。
逃げた後悔。申し訳なさ。
そして、血に染まった草むら。
そして、石田の「生きろ」という最後の叫び。
参道の途中で、彼女は力が抜けたように立ち止まる。
蝉の声だけが、やけに遠く聞こえていた。
「……あれ?」
後ろから男の声がした。
鶴子がゆっくり振り返ると、肩からカメラを提げた男が立っていた。
あの写真を撮った従軍記者だ。
男は驚いたように目を見開いたあと、ほっとしたように笑った。
「君……無事だったのか」
鶴子は何も答えない。
ただ、ぼんやりと男を見つめている。
男は慎重に距離を詰めた。
「覚えてるかな。この前、写真を撮らせてもらった……」
鶴子は微かにうなずく。
「よかった……」
男は小さく息を吐いた。
だが、鶴子の様子がおかしいことにすぐ気づいた。
顔色は青白く、瞳には生気がない。
まるで魂だけどこかへ置き去りにしてきたようだった。
「……何か、あったんだね」
鶴子の肩がわずかに震える。
しかし言葉は出ない。
「友達たちは?」
鶴子をうつむいた。
「あの少尉さんは?」
鶴子は、うつむいたまま何も答えない。
男は無理に聞こうとはしなかった。
代わりに、静かな声で言った。
「僕は山田一郎 関西日報の記者」
胸元から記者手帳を少しだけ見せる。
「君の名前、聞いてもいいかな?」
鶴子は唇を動かした。
だが、声にならない。
「あ……」
掠れた空気だけが漏れる。
喉の奥で何かが詰まったように、それ以上言葉が出なかった。
鶴子は苦しそうにうつむく。
山田は、その様子を見てすべてを察したように目を伏せた。
「……そっか」
夕風が吹き抜ける。
石段の脇の木々が、ざわりと揺れた。
「無理に話さなくていい」
山田は穏やかに言った。
「歩けるかい?」
鶴子は小さくうなずいた。
二人は並んで参道を歩き始める。
けれど鶴子は、一言も喋らなかった。
山田もまた、無理に言葉を探そうとはしなかった。
ただ、隣を歩いた。
沈みゆく夕陽が長い影を石畳に落としていた。
やがて、二人は、見晴らし良い石段に腰を下ろした。
夕陽が遠くの山並みに重なり始めていた。
山田はしばらく黙って夕陽を眺めていたが、不意に口を開いた。
「君、これからどうするつもり?」
鶴子は答えない。
ただ膝の上で指を強く握りしめている。
しばらく沈黙が続いた。
遠くでカラスが鳴いた。
山田は空を見上げたまま、ぽつりと呟く。
「僕の本当の仕事は、これからかもしれないなぁ……」
鶴子は静かに顔を上げる。
「この日本がこれからどうなって行くのか。それを後世に伝えるのが、これからの僕の使命のような気がする」
山田は鞄からカメラを取り出した。
夕陽を受けたレンズが鈍く光る。
「ペンと……これが、これからの日本の武器になるんじゃないのかな」
鶴子は黙ったまま聞いている。
山田は少し笑った。
「奇跡って、信じるかい?」
鶴子がゆっくりと山田を見る。
「奇跡っていうものはね、信じた人だけに起こると思うんだ」
山田の目は、沈みゆく夕陽の向こうを見ていた。
「このボロボロになった日本が元に戻るなんて、今は奇跡みたいな話だけど……でも、信じようよ」
彼は静かに言った。
「奇跡っていうものを」
鶴子は、その言葉を噛みしめるように見つめていた。
もう涙も出なかった。けれど、胸の奥の凍りついていた何かが、ほんの少しだけ揺れた気がした。
「街まで一緒に行く?」
鶴子は首を横に振る。
「そう」
山田は立ち上がる。
「じゃあ、元気で」
そして、少し照れくさそうに笑った。
「また、いつかどこかで会えたらいいね」
鶴子は静かにうなずく。
「さようなら」
山田は石段をゆっくり降りて行く。
その背中を、鶴子は黙って見つめていた。
夕陽に照らされた記者の影は長く伸び、やがて参道の闇の中へ溶けていった。
山田の姿が夕闇の中へ消えていく。
石段には、鶴子だけが残されていた。
赤く燃えていた空も、少しずつ群青色へ変わり始めている。
幸子は、その光景を静かに見つめていた。
胸の奥が、ひどく痛かった。
戦争は、こんなにも多くのものを壊してしまう。
命だけじゃない。
笑顔も。
夢も。
未来も。
人の心さえも。
鶴子の沈黙は、きっと悲しみだけではないのだと幸子は思った。
あまりにも大きな絶望を前にすると、人は涙すら流せなくなるのかもしれない。
言葉を失うほどに。
心が壊れてしまうほどに。
それでも――。
幸子は、さっきの山田の言葉を思い出していた。
『奇跡っていうものはね、信じた人だけに起こると思うんだ』
その言葉が、不思議と胸に残っていた。
焼け野原になった日本。
明日さえ見えない時代。
なのに、人はまだ未来を語ろうとしている。
希望を捨てずに、生きようとしている。
幸子は、自分の時代のことを思った。
豊かになった街。
平和な日常。
何気なく過ぎていく毎日。
それは、こういう時代を生き抜いた人たちの願いの上にあるのだと、初めて実感した。
胸が締め付けられる。
同時に、どうしようもなく愛おしかった。
名も残らない人たちが、傷つきながら、それでも前を向こうとしていたこの時代が。
幸子は夕空を見上げた。
風が静かに吹き抜ける。
その風の中に、遠い時代を生きた人々の想いが、確かに息づいているような気がした。




