親子
春の夜。
珍しく、先斗町には、人影がなかった。
昼の華やぎが嘘のように静まり返り、ただ、ひらひらと桜の花びらだけが落ちてくる。
昭和二十二年、4月。
その中を、座敷帰りの小鶴が歩いていた。
足取りは重く、息は浅い。
「……っ」
激しく咳き込み、たまらずその場にしゃがみ込む。
口元を押さえた両手を、ゆっくりと離す。
そこには、べったりと血がついていた。
小鶴は、しばらくそれを見つめていた。
まるで、それが自分のものではないかのように。
少し離れた場所で――幸子は、その光景を見ていた。
声をかけることも、駆け寄ることもできない。
ただ、胸の奥に、理由のわからないざわめきが広がっていく。
……あかん……
そう思った瞬間には、もう遅かった。
置屋「福富」
引き戸が、音を立てて開く。
「お帰りやす」
振り向きもせずに言った舞妓の豆千代が、返事のなさに顔を上げる。
そこに立っていたのは――
着物を乱し、口元から血を流した小鶴だった。
「お母さーん!」
その叫びが、廊下の奥へと響いていく。
幸子は、その場に立ち尽くしていた。
何かが、胸の奥で音を立てて崩れていく。
数日後。
四畳半の部屋。
布団の中で、小鶴は静かに横たわっていた。
傍らには女将と医者。
「だいぶようなってきたけど、もうしばらくは安静に」
医者の言葉は穏やかだったが、その奥にあるものは、やけに冷たかった。
「煙草も酒も、あかんで」
襖が閉まる。
部屋に静寂が戻る。
その中で、小鶴の目から、涙が一筋流れた。
廊下。
「子供さんはどうしたはるんや?」
医者の問いに、女将は小さく答える。
「うちの子が、代わりばんこに見てますけど……」
「そうか……」
少しの沈黙のあと、低い声が落ちる。
「可哀そうやけど、里子に出す話、早いとこ進めなあかんな」
その言葉に、空気が止まった。
幸子は、その場にいた。
けれど、その意味を、すぐには受け止められなかった。
……子供……?
胸の奥で、何かが引っかかる。
部屋。
「ポンチャンのことは心配せんでええ」
女将の声。
「もうちょっと、我慢して寝ときなさい」
去ろうとする背中に、小鶴が声をかける。
「……お母さん」
その声は、かすれていた。
「自分の身体は……自分がよう分かってます」
女将の動きが、一瞬止まる。
「……あの子のこと、お願いします」
その言葉に、女将は振り返らなかった。
ただ、静かに襖を閉めた。
閉じられた向こうで、小鶴の涙がこぼれる。
幸子は、その場に立っていた。
胸が締めつけられる。
……なんで……こんな……
理由は分からない。
けれど、どうしようもなく苦しかった。
夕暮れ。
高瀬川の水面が、金色に揺れている。
その光が、どこか遠いもののように感じられた。
数週間後の夜。
二階の座敷。
小さな寝息が、部屋に満ちている。
布団の上で、赤ん坊が眠っていた。
その傍らに、小鶴が座る。
「ごめんな……ごめんな……」
震える声。
涙がぽろぽろと落ちる。
その様子を、幸子はすぐそばで見ていた。
なぜか、目が離せない。
なぜか――胸が痛い。
小鶴は、そっと何かを取り出し、布団の上に置いた。
古びた、小さなお守り。
その瞬間、幸子の呼吸が止まる。
……それ……
赤ん坊の顔を見る。
小さな手。
かすかな寝息。
その輪郭が、ぼんやりと揺らぐ。
……まさか……
否定しようとする。
けれど、心の奥で、何かが静かに肯いている。
次の朝。
玄関先に、冷たい空気が流れている。
女将と、小鶴の妹分のもみ春が赤ん坊を抱いて立っていた。
豆千代も、少し離れて見守っている。
「最後に、顔、見てあげるか?」
その言葉に、小鶴は首を横に振った。
見たら――
きっと、離せなくなる。
女将がうなずく。
もみ春の腕の中で、赤ん坊が静かに眠っている。
幸子は、その顔を見つめた。
……うち……?
確信はない。
けれど、目を逸らせない。
「ほな、行こか」
引き戸が開く。
外の光が差し込む。
小鶴が、一歩踏み出す。
だが――止まる。
その場に、縫い付けられたように。
二人の背中が、遠ざかっていく。
小鶴は、ただ見つめていた。
やがて――
その場に崩れ落ちる。
声にならない嗚咽。
豆千代が駆け寄り、寄り添う。
幸子は、立ち尽くしていた。
追いかけることも、抱きしめることもできない。
ただ、理解だけが、ゆっくりと胸に沈んでいく。
……うちなんや……
桜の花びらが、また一枚、落ちた。




