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少女たち  作者: 永遠栄作
18/27

親子

春の夜。

珍しく、先斗町には、人影がなかった。

昼の華やぎが嘘のように静まり返り、ただ、ひらひらと桜の花びらだけが落ちてくる。


昭和二十二年、4月。

その中を、座敷帰りの小鶴が歩いていた。

足取りは重く、息は浅い。

「……っ」

激しく咳き込み、たまらずその場にしゃがみ込む。

口元を押さえた両手を、ゆっくりと離す。

そこには、べったりと血がついていた。

小鶴は、しばらくそれを見つめていた。

まるで、それが自分のものではないかのように。

少し離れた場所で――幸子は、その光景を見ていた。

声をかけることも、駆け寄ることもできない。

ただ、胸の奥に、理由のわからないざわめきが広がっていく。


……あかん……

そう思った瞬間には、もう遅かった。


置屋「福富」

引き戸が、音を立てて開く。

「お帰りやす」

振り向きもせずに言った舞妓の豆千代が、返事のなさに顔を上げる。

そこに立っていたのは――

着物を乱し、口元から血を流した小鶴だった。

「お母さーん!」

その叫びが、廊下の奥へと響いていく。

幸子は、その場に立ち尽くしていた。

何かが、胸の奥で音を立てて崩れていく。


数日後。

四畳半の部屋。

布団の中で、小鶴は静かに横たわっていた。

傍らには女将と医者。

「だいぶようなってきたけど、もうしばらくは安静に」

医者の言葉は穏やかだったが、その奥にあるものは、やけに冷たかった。

「煙草も酒も、あかんで」

襖が閉まる。

部屋に静寂が戻る。

その中で、小鶴の目から、涙が一筋流れた。


廊下。

「子供さんはどうしたはるんや?」

医者の問いに、女将は小さく答える。

「うちの子が、代わりばんこに見てますけど……」

「そうか……」

少しの沈黙のあと、低い声が落ちる。

「可哀そうやけど、里子に出す話、早いとこ進めなあかんな」

その言葉に、空気が止まった。

幸子は、その場にいた。

けれど、その意味を、すぐには受け止められなかった。


……子供……?

胸の奥で、何かが引っかかる。


部屋。

「ポンチャンのことは心配せんでええ」

女将の声。

「もうちょっと、我慢して寝ときなさい」

去ろうとする背中に、小鶴が声をかける。

「……お母さん」

その声は、かすれていた。

「自分の身体は……自分がよう分かってます」

女将の動きが、一瞬止まる。

「……あの子のこと、お願いします」

その言葉に、女将は振り返らなかった。

ただ、静かに襖を閉めた。

閉じられた向こうで、小鶴の涙がこぼれる。

幸子は、その場に立っていた。

胸が締めつけられる。


……なんで……こんな……

理由は分からない。

けれど、どうしようもなく苦しかった。


夕暮れ。

高瀬川の水面が、金色に揺れている。

その光が、どこか遠いもののように感じられた。

数週間後の夜。

二階の座敷。

小さな寝息が、部屋に満ちている。

布団の上で、赤ん坊が眠っていた。

その傍らに、小鶴が座る。

「ごめんな……ごめんな……」

震える声。

涙がぽろぽろと落ちる。

その様子を、幸子はすぐそばで見ていた。

なぜか、目が離せない。

なぜか――胸が痛い。

小鶴は、そっと何かを取り出し、布団の上に置いた。

古びた、小さなお守り。

その瞬間、幸子の呼吸が止まる。


……それ……


赤ん坊の顔を見る。

小さな手。

かすかな寝息。

その輪郭が、ぼんやりと揺らぐ。


……まさか……


否定しようとする。

けれど、心の奥で、何かが静かに肯いている。


次の朝。

玄関先に、冷たい空気が流れている。

女将と、小鶴の妹分のもみ春が赤ん坊を抱いて立っていた。

豆千代も、少し離れて見守っている。

「最後に、顔、見てあげるか?」

その言葉に、小鶴は首を横に振った。

見たら――

きっと、離せなくなる。

女将がうなずく。

もみ春の腕の中で、赤ん坊が静かに眠っている。

幸子は、その顔を見つめた。


……うち……?

確信はない。

けれど、目を逸らせない。


「ほな、行こか」

引き戸が開く。

外の光が差し込む。

小鶴が、一歩踏み出す。

だが――止まる。

その場に、縫い付けられたように。

二人の背中が、遠ざかっていく。

小鶴は、ただ見つめていた。

やがて――

その場に崩れ落ちる。

声にならない嗚咽。

豆千代が駆け寄り、寄り添う。

幸子は、立ち尽くしていた。

追いかけることも、抱きしめることもできない。

ただ、理解だけが、ゆっくりと胸に沈んでいく。


……うちなんや……

桜の花びらが、また一枚、落ちた。






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