表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
少女たち  作者: 永遠栄作
17/27

別れ

小雪が、はらはらと舞っていた。

先斗町の朝は、白くやわらかな静けさに包まれていた。

行き交う人々は皆、少しだけ背筋を伸ばし、年の瀬の挨拶を交わしていた。

その風景の端に、誰にも気づかれぬまま――幸子は立っていた。

触れることも、声をかけることもできない。

ただ、この時代に紛れ込んだ影のように、見つめるだけの存在として。


置屋「福富」

玄関の外で、小鶴が戸に耳を押し当てている。

中からは、女たちの話し声がかすかに漏れてくる。

「それは、おめでとうさんどす」

「おおきに」

祝いの言葉。

だがその奥にある意味を、小鶴はよく知っていた。

“水揚げ”――

それは、この世界で生きていくための通過儀礼であり、同時に、何かを失う瞬間でもあった。

「東京へは、お正月の五日どすねん」

その言葉に、小鶴の肩がわずかに揺れる。


やっぱり、行ってしまわはるんや……


声には出さない。

ただ、耳を澄ませ続ける。

幸子は、その背中を見つめていた。

あまりにも細く、あまりにも静かな背中だった。


夜。

二階の座敷には、火鉢の赤い炭がほのかに灯っている。

小鶴はその傍らで、湯のみの酒を口に含み、煙草をくゆらせていた。

時折、激しい咳が体を揺らす。

それでも、かすれた声で唄う。


――沖の鴎かもめと飛行機乗りは

 どこで散るやら 果てるやら――


その声は細く、どこか遠くへ消えていきそうだった。

「小鶴ちゃん?」

背後から、やわらかな声。

振り返ると、もみやん姉さんが座っていた。

穏やかな微笑みを浮かべたその人を見て、小鶴の表情が少しだけほどける。

「姉さん……」

「お留守番、ご苦労さん。ポンチャン、よう寝たはるえ」

「何や、姉さん、行かあらへんかったんですか? おけら参り。しばらく行けへんのに」

「大事な日の前に、風邪ひいたらあかんしな」

そう言って笑う横顔には、どこか覚悟の色が滲んでいた。

小鶴がまた咳き込む。

女はすぐにその背に回り、そっと撫でる。

「無理したらあかんよ。お酒も煙草も、ほどほどにせんと」

小鶴はうなずくが、その目はどこか遠い。

「ちょっと、空気入れ替えよか」

女が窓を開ける。

冷たい夜気が、部屋に流れ込む。

「……あれ?」

耳を澄ませる。

「小鶴ちゃん、ちょっと来てみ」

並んで窓辺に座る二人。

遠くから、かすかな音が届いてくる。

――ゴォーン……

除夜の鐘。

低く、深い音。

「これ、知恩院さんや」

さらに別の音が重なる。

「これは建仁寺さん……これは、清水さんかな」

いくつもの鐘が、まるで呼び合うように重なり合って響いていた。

その音に包まれた瞬間、もみやん姉さんの肩が震える。

「あかん……恥ずかし」

手で目元を押さえるが、涙は止まらない。

「覚悟できてるつもりやったんやけどな……いざとなったら、腰が引けてしもて……」

小鶴は何も言わず、ただ隣にいる。

やがて、もみやん姉さんが小さく問う。

「小鶴ちゃんは、どうするつもり?」

「……えっ?」

「ポンチャンのこと」

言葉が宙に浮いたまま、二人はまた鐘の音に耳を澄ます。

「東京でも、大晦日に鐘、突かはんのかな」

ぽつりと呟く声に、小鶴が少しだけ笑う。

「姉さん、東京も日本でっせ」

「あ……ほんまやな」

短い沈黙。

「姉さん」

「ん?」

「東京 今は遠いけどな、そのうち飛行機で、ブーンって、すぐ行けるようになります」

「飛行機で?」

小鶴はうなずく。

「ほんなら、すぐ帰って来れる?」

「はい。ブーンって」

その言葉に、女は夜空を見上げる。

「……うち、それまで生きてるやろか」

「何言うたはるんです。まだ21やのに」

「21……そやったな」

くすりと笑う。

「ここにおったら、年なんか分からへんわ。まるで浦島太郎や」

その笑顔を、幸子はじっと見つめていた。


年が明けて、1月5日の朝。

福富の前に、人が並んでいる。

旅支度の二人の女が、静かに頭を下げた。

一人は、あの“姉さん”。

小鶴と目が合う。

微笑む。

その笑顔は、あまりにも優しくて――あまりにも遠かった。

小鶴の目に、涙が溜まる。

何も言えない。

ただ、見送るしかない。

二人の背中が、少しずつ小さくなっていく。

冬の空気の中へ、消えていく。

幸子は、その光景をただ見ていた。

触れることも、止めることもできない。

けれど、その別れの重さだけは、

確かに、自分の胸にも落ちてきていた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ