デート
高瀬川の水面は、朝の光を受けて細やかに揺れ、まるで何もかもを知らぬ顔で、ただ静かにきらめいていた。
その穏やかさとは裏腹に、幸子の胸の奥には、言葉にならないざわめきが渦巻いていた。
昭和三十九年七月十六日
幸子にとって、この日は、生涯忘れることが出来ない日となった。
狭いアパートの一室に差し込む陽射しは、容赦なく暑さを運んでくる。
せんべい布団では、エマが半ば投げ出されたような格好で眠っていた。額には汗がにじみ、薄く開いた唇から、かすかな寝息が漏れる。
「暑つ……」
ぼそりと呟いて目を開けたエマの視線の先に、鏡台の前に座る幸子の背中があった。
じっと、自分の顔を見つめている。
幸子は、前の日の夜のことを思い出していた。
高瀬川の水面に、ネオンの光が揺れている。
赤や青の色が、細く伸びてはほどけ、また形を変えていく。
まるで、掴めそうで掴めないもののように。
深夜の木屋町。
遠くからは、まだかすかに祭りの余韻が漂っている。
幸子は雅幸と並んで歩いていた。
どちらも何かを言いかけては、飲み込むような、そんな沈黙の中で。
「なあ、マーボー?」
幸子が、ふと口を開く。
「何?」
「マーボーは、お嫁さんにするんやったら、どんな人がええの?」
あまりにも不意な問いに、雅幸は一瞬言葉を失った。
「お嫁さんって……俺、まだそんな事考えたことないわぁ。だって、まだ十八やで」
その言葉に、幸子は小さく繰り返す。
「十八……ほんまやな」
その声音には、どこか遠くを見るような響きがあった。
「そやったら、さっちゃんは? お婿さんはどんな人がええんや?」
問われて、幸子は少しだけ考えるふりをしてから、わざとらしく明るい声を出した。
「うち? うちは……やっぱり、ハンサムで優しゅーて、それからお金持ち!」
「欲張りやなぁ」
「ほっといてー! 欲張りは生まれ付きですぅー!」
そう言って笑う幸子に、雅幸もつられて笑う。
その笑いは軽やかなはずなのに、どこかぎこちなかった。
少し歩いてから、幸子がまた口を開く。
「じゃあ、映画とかテレビに出てる人やったら、誰が好きなん?」
「それやったら、やっぱり健さんや! “死んでもらいます!”ってな、最高や!」
得意げに言う雅幸に、幸子は呆れたように眉をひそめる。
「誰が男の人言えってゆうた? 女の人やん!」
「あ……そ、そうか」
雅幸は頭をかきながら、少し考えてから答えた。
「女の人やったら……やっぱりオードリー・ヘップバーンかな。『ローマの休日』のオードリー、綺麗やったなぁ」
その名前を聞いた瞬間、幸子の表情がほんのわずかに揺れる。
「それはそやけど……マーボー、外人さん好きなん?」
「うん!」
何のためらいもない返事だった。
その無邪気さが、かえって鋭く刺さる。
「じゃあ、うち、あかんな!」
「え? あかんって?」
「うち、純粋の日本人やもーん!」
そう言い捨てると、幸子は急に歩く速度を上げた。
「べ、別にそんな事言うてへんて!」
雅幸が慌てて追いかける。
幸子は振り返り、舌を出した。
「ほな、さいなら! べーっだ!」
その仕草は、子どものように無邪気で――
けれど、その目の奥は、笑っていなかった。
「もう! そんな怒らんでも。さっちゃん、ほんま怒りんぼなんやから」
「怒りんぼうも、生まれ付きですぅーだ!」
言い返しながら、さらに足を速める。
「ちょっと待ってよ! 明日のデート、どうするん?」
その言葉に、幸子は足を止めないまま、短く答えた。
「知らん!」
突き放すような声。
「知らんって……もう!」
困ったように笑いながらも、雅幸は追い続ける。
その背中を見ながら、幸子の胸の奥で、何かが静かに軋んでいた。
――ほんまは、わかってる。
自分が求めているものも、それが手に入らないものもと言うことも。
ネオンの光が、水面で揺れる。
形を変えながら、決してひとつにはならない光。
二人の距離もまた、同じように――
近づいているようで、どこかで決して交わらないまま、夜の中へと流れていった。
と、寝ていたエマが呟く。
「何や、もう起きてたん」
「うん……何か、早よおに目ぇ覚めてしもて」
振り向いた幸子の表情は、どこか落ち着かず、それでいて決意のようなものを帯びていた。
「何んか、遠足に行くみたいやね」
冗談めかした言葉に、幸子は小さくうなずく。
「ちょっと、聞いてええ?」
「えっ?」
「オードリー・ヘップバーンって、どんな感じやった?」
エマは一瞬、ぽかんとした顔をした。
「オードリー・ヘップバーン!?」
――それからしばらくして。
鏡の中には、見慣れたはずの自分ではない顔が映っていた。
髪は丁寧に整えられ、どこか異国の映画女優のような気配をまとっている。
「ここをこうやって……こうしたらどうかな?」
雑誌を片手に、エマは器用に髪を整えていく。
「エマちゃん、上手やね」
「密かに美容師の勉強してるから」
「えっ?」
「来年ぐらいに店辞めて、学校行こ思てるん」
その言葉に、幸子は少し驚きながらも、どこか眩しそうにエマを見た。
「それっぽい服も貸したげよか?」
「う、うん!ありがとう!」
やがて、真っ赤な口紅が唇に引かれる。
それは、まるで別の人生をなぞるための仮面のようだった。
――昼下り。
祇園囃子が遠くから流れ、宵山で賑わう木屋町。
祇園祭の熱気が、街全体を包み込んでいる。
高瀬川に架かる小さな橋の上で、雅幸は落ち着かない様子で辺りを見回していた。
その肩を、ふいに叩かれる。
振り返るが、誰もいない。
不思議そうに足元を見ると、しゃがみこんだ幸子が、いたずらっぽく笑っていた。
「ばれたか!」
立ち上がった幸子は、くるりと回る。
白いブラウスにベージュのスカート。髪型も化粧も、どこか映画の中の人物のようだった。
「さ、さっちゃん!?」
「どう?」
もう一度回る。
「どう?」
「えっ?」
「もう!何回回らせるん!」
頬を膨らませる幸子に、雅幸は言葉を失う。
「誰かに似てる思わへん?」
「誰かって?」
「オードリー・ヘップバーンやんか!『ローマの休日』やろ?」
「あー」
「あーはないわ、あーは!」
怒ったように背を向けて歩き出す幸子。
その背中を、雅幸が慌てて追いかける。
「ちょっと待ってよ! 自転車、取って来る!」
そう言い残して、雅幸は人混みの中へと駆け出した。
残された幸子は、くるりと振り返る。
「マーボー、まさかデートに自転車で来たん?」
半ば呆れたように、けれどどこか楽しげに問いかける。
「う、うん……あかんかった?」
少し離れたところで振り返り、雅幸が不安そうに言う。
その様子が可笑しくて、幸子はふっと笑った。
「まあ、ええけど。早よ!」
その一言に、雅幸はほっとしたようにうなずき、再び走り去る。
――橋の上に、幸子はひとり残った。
欄干にもたれ、そっと視線を落とす。
高瀬川の水面は、夏の強い光を受けて静かに揺れていた。
さっきまでの賑やかな空気が嘘のように、そこだけ時間がゆっくりと流れている。
ほんまに……ええんやろか
胸の奥で、かすかな迷いが揺れる。
けれど、それを振り払うように、小さく息を吐いた。
やがて、足音が近づく。
「お待たせ!」
振り返ると、雅幸が少し息を切らしながら、自転車を押して戻ってきていた。
「早よ!」
「えっ?」
「ほら、またがって!」
戸惑う雅幸に、幸子は少し身を乗り出して急かす。
「う、うん……」
言われるままに自転車にまたがる雅幸。
その後ろに、幸子はひょいと軽やかに乗り込んだ。
肩に手を置く。
思ったよりも近い距離に、ふっと息がかかる。
一瞬、二人の間に沈黙が落ちた。
けれど次の瞬間、幸子が明るく声を弾ませる。
「レッツゴー!」
その一言で、止まっていた時間が動き出す。
ペダルを踏み込む雅幸。
自転車はぎこちなく、けれど確かに前へと進み始めた。
背中越しに伝わる体温。
肩に添えた手のぬくもり。
高瀬川のせせらぎと、遠くから聞こえる祇園囃子。
そのすべてが混ざり合い、ほんのひとときだけ――
まるで、何も問題などない世界にいるかのような錯覚を、二人に与えていた。
二人は、自転車で白川沿いを走り抜け、円山公園の木陰で笑い合った。
夏の太陽の下を二人乗りの自転車が疾走する。
後ろの幸子が、叫ぶ。
「はんま、ローマの休日みたいやー」
昼下がりの円山公園。
宵山と言うこともあって、浴衣姿の大勢の人で賑わっている。
しだれ桜の前を、自転車がぐるぐると回った。
雅幸が必死にハンドルを握り、円を描くようにペダルを踏む。
その後ろで、幸子は体を預け、声を弾ませて笑っていた。
「目ぇ回るー!」
笑い声は、どこまでも軽く、弾けるようだった。
風に揺れる枝と、青葉の匂いと、その笑顔が重なって、時間そのものがくるくると回っているようだった。
やがて二人は自転車を降り、近くのベンチに腰を下ろす。
息を整えながら、雅幸が言った。
「喉、乾いた。ラムネでも飲まへん?」
幸子は微笑んで、小さくうなずいた。
売店。
「おばちゃーん!」
声を張り上げると、奥から年配の女が顔を出した。
「あら、マーボー。久しぶり! 元気にしてたか?」
「うん、見ての通り元気やで。ラムネ二つ頂戴!」
女は手際よく瓶を用意しながら、ふと思い出したように言う。
「それはそうと、お母さんは元気にしたはんの?」
「うん、ぼちぼち」
「あんた、親孝行しなあかんで。女手一つで育てはったんやから」
そう言って差し出されたラムネを受け取り、雅幸は照れくさそうに笑った。
「ありがとう。いくら?」
「かまへん、かまへん。今日はおばあちゃんのおごりや」
「ありがとう!」
そのやり取りの後、女はふと目を細めた。
「でも二つって、もう一つ誰が飲むの?」
少し離れたところに立つ幸子へ視線を向け、小指を立てる。
「彼女?」
「えっ? ちゃうちゃう! そんなんとちゃうよ!」
慌てて否定する雅幸。
「ちゃうかったら誰やな?」
「お、お姉ちゃん……」
「へー、お姉ちゃん? マーボー一人っ子と違ったっけ?」
「あー……う、うん……生まれてすぐ、ローマに行かはったから……」
しどろもどろに言い訳しながら、雅幸はそそくさとその場を離れた。
「瓶、また返しに来るし!」
その背中を見送りながら、女は首をかしげる。
「ローマ……」
石畳の道。
蝉の声が、耳を打つほどに鳴いている。
幸子はラムネの瓶を傾けながら、少し不機嫌そうに言った。
「そーかぁー。うちはローマから来たお姉ちゃんかぁー」
「何や、聞こえてたん!?」
「うち、地獄耳やし!」
ぺろりと舌を出す。
「また怒った!」
「うち、最近、怒りんぼやもん!」
そう言いながらも、その表情にはどこか柔らかさが残っていた。
「瓶、返して来るわぁ」
雅幸はそう言って瓶を受け取り、再び走っていく。
円山公園の木々は青々と茂り、蝉の声が遠くから重なって聞こえてくる。照り返す陽射しに、地面の砂が白く光っていた。
売店の前では、年配の女が腰を下ろし、団扇でゆっくりと風を送っている。
その動きはどこか気だるく、それでいてこの場所の時間の流れを象徴しているようでもあった。
やがて――
雅幸が息を切らせて戻ってくる。手には空き瓶。
「はい、瓶!」
勢いよく差し出されたそれを、売店の女は目を細めて受け取った。
「おおきに……」
そう言ってから、ふと何かを思い出したように顔を上げる。
「それはそうと、さっちゃんの事、知ってる?」
不意の言葉に、雅幸の動きが止まる。
「えっ?」
横に立つ幸子も、わずかに肩を強張らせた。
「知らんのん?」
売店の女の視線が、二人の間を行き来する。
幸子は小さく頷く。
「う、うん……」
その返事を聞くと、女はため息まじりに話し始めた。
「一年前なぁ……お母さん、病気で亡くなりはってな。お父さんも借金ぎょうさんあったみたいで……」
団扇の動きが、ゆっくりと止まる。
「それを苦にして、電車に飛び込まはったんやで」
蝉の声が、一瞬だけ遠のいたように感じられた。
「まあ……実の親とちゃうけどな」
その言葉は、軽く付け足されたはずなのに、妙に重く空気に沈んだ。
雅幸は、口を半開きにしたまま動かない。
「……へー」
かろうじて出た声は、自分でも驚くほど乾いていた。
売店の女は続ける。
「それから、さっちゃん……高校辞めてな。今、木屋町のキャバレーで働いてるって、近所の人から聞いたんやけど……」
団扇が再び動き出す。
しかしその風は、さっきまでのような穏やかさを持っていなかった。
「なんや、可哀そうでなぁ……」
雅幸は、ゆっくりとうなずく。
「そ、そうなん……」
言葉が、うまく繋がらない。
売店の女は、どこか母親のような顔になる。
「うちもな、さっちゃんのお母さんとは仲良うてな。あの子のこと、心配で心配で……」
そして、雅幸を見つめる。
「マーボー、また何か分かったら教えてな」
その呼び名に、雅幸ははっと我に返る。
「……う、うん」
幸子も、小さく続けた。
「わかった……」
そして、雅幸は、何かに突き動かされるように踵を返し、走り出した。
強い日差しの中へ。
祭りで賑わう人々の間を縫うように、ただ、幸子の元へ。
雅幸の胸の奥で、何かが静かに崩れていく。
知ってしまった。
蝉の声が、再び強く鳴き始めていた。
石畳の道。
幸子は、変わらずその場に立っていた。
何も知らない顔で。
駆け寄ってきた雅幸は、視線を合わせられない。
「ぎ、祇園さんでも行く?」
「うん」
短い返事。
雅幸は足早に歩き出す。
「どないしたん!?」
「どうもせえへん!」
強く言い切るその声が、かえって不自然だった。
幸子は首を傾げながら、その後を追う。
やがて二人は、八坂神社へと辿り着く。
本殿の前で、雅幸はふと幸子のハンドバッグに目を留めた。
「そのお守り」
「えっ?」
古びた布のお守りが、ひっそりと揺れている。
「それ、ランドセルにも付けてたやんな」
幸子は静かにうなずいた。
「それ祇園さんのお守り?」
「多分、違うと思う」
「じゃあ、どこの?」
問われて、幸子は一瞬だけ言葉を失う。
その小さなお守りは、彼女の過去と同じように、
どこから来たのか、はっきりとは分からないままだった。
胸の奥に重く沈む何かを抱えたまま、二人は再び歩き出す。
八坂神社では、願い事を口にせず、ただ手を合わせ、
鴨川の土手では、夢の話をした。
「マーボーは、夢って何?」
「歌手かな」
「そやったな」
「さっちゃんの夢は?」
その問いに、幸子は少しだけ笑った。
「そんなん、どうでもええやん」
――どうでもいいはずが、なかった。
夕暮れ。
高瀬川の橋の上。
別れの時。
提灯の灯りと祇園囃子に包まれながら、二人は向かい合う。
「今日はありがとう。楽しかった!」
「僕も。またデートしてくれる?」
幸子は微笑み、うなずく。
けれど、その笑顔の奥には、決して届かない距離があった。
「今度の金曜日、見に来てくれる?」
と、思いもよらない雅幸の言葉に幸子は、きょとんとする。
「金曜日、ラッキーで歌うことになってん!」
「へー 凄いなー おめでとう! 夢叶ったやん!」
「前座やけどな。なあ 支配人に頼んで裏から入れてあげるし、見に来て欲しいな」
その言葉に、幸子はうつむく。
「仕事? 忙しいんやな」
小さく、うなずく。
そして、顔を上げた。
「マーボー、うちの分まで夢、叶えてな」
雅幸は何も言えず、ただ見つめる。
「うちは夢は寝て見るし。夢に出てな」
そう言って、幸子は後ずさる。
涙を浮かべながらも、笑って。
「ほな、行くわ。バイバイ!」
「うん、バイバイ!」
背を向け、走り出す幸子。
路地の入口で振り返り、声を張り上げる。
「こんな普通のデート、したかってん!」
「何!?聞こえへん!」
「夢、叶えてくれて、ありがとーう!」
その声を最後に、幸子は闇の中へ消えた。
暗い路地。
息を切らしながら走る。
涙が止まらない。
胸が、引き裂かれるように痛い。
なんでやろ……
足を止めることもできず、ただ前へ。
なんで、あんなに楽しかったんやろ……
笑った時間が、かえって残酷だった。
なんで……帰りたくなってまうんやろ……
けれど、戻る場所など、もうどこにもない。
幸子は、泣きながら走り続けた。
祇園囃子の音だけが、遠くからいつまでも追いかけてきていた。




