自決
海の匂いが、風に混じっていた。
飛行場の端、土手の向こうに広がる砂浜。
昼下がりはすでに白く、世界はやけに静かだった。
少女たちが、集まっている。
メガネの子、色黒の子、そばかす顔の子——そして鶴子。
誰もが、言葉を探しているようで、けれど何を言えばいいのか、わからないでいた。
「うち……聞いたんや」
ぽつりと、色黒の子が言う。
「アメリカ兵が上陸したら……女は、みんな……ひどいことされるって……」
その言葉は、小さかった。
けれど、空気を一瞬で変えるには十分だった。
誰も、否定しない。
「うちら……どうしたらええんやろ……」
そばかす顔の子の声が震える。
「……死ぬしかないんちゃう?」
メガネの子が、そう言った。
学級委員長のこの一言を重かった。
でも、その言葉は、あまりにも簡単に口から出た。
まるで、それが最初から用意されていた答えのように。
軍国教育がそう言わせたのは明白だった。
鶴子の胸が、強く締めつけられる。
死ぬ……?
さっきまで、「生きて」と言われたばかりだった。
あの温もり。
あの声。
「どんな事があっても生きて行くんだよ!」
石田の言葉が、耳の奥で蘇る。
「……手、繋ごう」
学級委員長が言う。
逃げないように。
ひとりにならないように。
四人が、堅く手を繋ぐ。
「絶対、離したらあかんで!」
そして、4人は砂浜に足を踏み出す。
波が、静かに寄せては返す。
一歩。また、一歩。
水が、足首を濡らす。
冷たい。
もう一歩。
膝まで、沈む。
「……怖いな」
誰かが、笑った。
泣きながら。
「すぐ終わるよ……」
また一歩。
「あの写真 少女俱楽部にのってるの 見たかったな」
水が、腰まで上がる。
でも、立ち止まる。
「みんなで 唄おう?」
誰が言った。
「沖のカモメと 飛行機乗りはよ……どこで散るやらね 果てるやら……ダンチョネ……」
声をそろえて唄う。
お互いの顔を見合わせる。
ひきつった笑顔。
そして、また、歩き出す。
でも、鶴子の呼吸が、乱れる。
「俺が死んだら 三途の川で鬼を集めてね……相撲をとるダンチョネ……」
あかん……
胸が、苦しい。
死にたない……
それは、石田と交わした約束からくる感情だった。
その感情が、はっきりと形を持つ。
「……ごめん」
小さく、呟く。
握っていた手を、ほどく。
「ごめん……ごめん……」
背を向ける。
「鶴ちゃん!?」
呼び声。
けれど、振り返らない。
水を蹴り、必死に岸へ戻る。
息が荒い。
涙が止まらない。
あの人に……
会いたい……
走る。
ただ、走る。
飛行場へ。
草むらが見える。
さっき、写真を撮った場所。
足が、止まる。
そこに——人影があった。
倒れている。
嫌な予感が、全身を駆け抜ける。
「……石田さん?」
近づく。
血の匂い。
そこに、石田が横たわっていた。
手には、拳銃。
こめかみに、黒い穴。
「……うそ……」
膝が崩れる。
近づいて、肩に触れる。
もう、温もりはなかった。
「……なんで……」
声が震える。
「なんでやの……」
さっきまで、あんなに笑っていたのに。
あんなに、“生きていた”のに。
鶴子は、胸のポケットに手を当てた。
お守り。
「……うちに……」
「うちに、渡したから……」
それが、最後だった。
それが、別れだった。
鶴子は、石田の胸にすがりつく。
「いやや…… こんなん、いややや! なあ、石田さん、置いていかんといて…… なあって!」
何度も、自分の膝を叩いた。強く。強く。
その嗚咽が、蝉の鳴き声をかき消した。
遠くで、波の音がする。
さっきまで、一緒に海へ向かっていたはずの世界と、今ここにある現実が、あまりにも違いすぎた。
「……生きろって……言うたやん…… そうゆうたあんたが死んでどないすんの!」
その言葉が、空に溶ける。
もう、そこには、答える者はいなかった。
ただ——鶴子の胸の中で、あのお守りだけが、静かに、残っていた。
その光景を、木陰から見ていた幸子は、動けなかった。
遠くから、波の音が、遠くから繰り返し届く。
胸の奥が、重い。
息をするのも、苦しい。
目の前では、鶴子が、崩れ落ちるように泣いている。
そのそばで、石田は、もう動かない。
幸子は、思わず、一歩踏み出す。
駆け寄りたい。
声をかけたい。
その手を、引きたい。
けれど、足は、そこで止まる。
触れられない。
どれだけ近くにいても、どれだけ手を伸ばしても。
それは、この世界には、自分は存在していないからだった。
と、幸子の視線は、ゆっくりと下りていった。
石田の胸元へ。
軍服は、砂と血で汚れている。
真夏の太陽の強い光の中で、その色だけがやけに濃く見えた。
その時——
ふと、目に入るものがあった。
胸に、縫い付けられた小さな布。
名札。
名前……
なぜか、息が止まる。
見てはいけないもののような気がして、けれど、目が離せない。
震えるように、その文字を追う。
石田。
そこまでは、わかっていた。
けれど、その下に続く文字を見た瞬間、
時間が、止まった。
——幸夫。
頭の中が、真っ白になる。
石田……幸夫。
さっきまで、
鶴子と並んで笑っていた人。
お守りを渡して、「生きろ」と言った人。
その名前が、はっきりと、そこに、縫い付けられている。
私と同じ字、 そして、あの赤ん坊と同じ。
胸の奥が、強く脈打つ。
繋がっている。
この人と、自分が。
時間を越えて。
なんで……
思わず、声が漏れた。




