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少女たち  作者: 永遠栄作
14/27

終戦

朝焼けが、空をゆっくりと染めていた。

まだ冷たい空気の中に、どこか不穏なざわめきが混じっている。


また、ここだ。

幸子は、滑走路の柵の外に立っていた。

自分の足で立っているはずなのに、現実の重さがどこか薄い。

けれど、目の前の光景だけは、やけに鮮明だった。


鶴子が、そこにいる。

心配そうに、飛行場の中を見つめている。


この人は……

もう、わかっている。

名前も、表情も、その佇まいも。

——鶴子。

その時代の空気が、肌にまとわりつく。

営門をくぐると、空気はさらに張り詰めていた。

兵士たちが落ち着きなく動き回り、何か予期しないことが起こったようで視線をさまよわせている。


「何んか あったんですか?」

 鶴子が歩哨に尋ねる。

「突然 今日の出撃が中止になったんや……」

その一言に、幸子の心の中に、僅かな希望が湧いて来た。

あの青年は生き伸びたと。

確か、名前は石田と言ったか。


場面は、土手へと移る。

空を見上げる石田の横顔は、迷いと決意の狭間にあった。

そこへ、鶴子が歩み寄る。


「ごめんなさい……」

石田の唐突な謝罪。


「謝らんといて下さい……」

背を向けたまま、鶴子は言う。


「今日 お兄様の後を追う事が出来なかった……次は 必ず……」

その言葉に、鶴子が振り返る。

目に涙を溜めて。


石田は首から下げていたお守りを外し、差し出した。

「これ……学生の徴兵猶予が撤廃されて陸軍に入隊が決まった日に、母がくれたんだ、僕の形見だと思ってくれ」


幸子の胸が、強く波打つ。


それ……あの先斗町の風呂場で見たもの。

私も同じものを持っている。


鶴子の手。

その掌の上に、その小さな布の包みが乗っている。

幸子の胸の奥が、ざわりと波立つ。

幸子は、無意識に自分の胸元へ手をやった。

そこにあるはずのもの。ずっと、子供の頃から持っていたもの。

指先が触れる。

布の感触。

擦り切れた縁。

角の小さな破れ

——同じ。


そんなはずは……


視線を上げる。

鶴子が、同じようにお守りを見つめている。

その表情は、戸惑いと、ほんのわずかな安堵が混じっていた。

まるで、それが「これからの自分を繋ぎ止める唯一のもの」であるかのように。


幸子の手の中のお守りが、微かに温かくなる。

息が浅くなる。

頭の奥で、何かがほどけかける。


小さな手。

誰かのぬくもり。

どうして……

答えは出ない。

けれども、ただ一つ、はっきりしていることがあった。

これは、ただの偶然ではないと言うことだ。


この時——

石田が鶴子に渡した、このお守りが、時を越えて、自分の胸の中にある。

今、その事実が、突きつけられている。

この人は。

視線が、再び鶴子へ向かう。

お守りを大切そうに包み込む、その手。

この人は……誰?

問いは、まだ形にならない。

けれど——時間は、繋がっている。

断ち切られていたはずの過去が、今、確かに、自分へと続いている。

その感覚だけが、静かに、そして確実に、幸子の中で広がっていった。


と、石田が言う。

「もう僕には必要ない……鶴子ちゃん どんな事があっても生きて行くんだよ!」

 “生きろ”。

それは、この時代において、あまりにも異質な言葉だった。


石田は、すっと背筋を伸ばした。

「岡田大尉殿の妹さんと結婚が出来て光栄です!」

ぴしりと敬礼した。

そのあまりにも真面目な言い方に、鶴子は思わず、微笑んだ。


その時だった。

自転車のブレーキ音が、軽やかに響く。


「従軍記者です!」

見るとあの記者だった。

「こんな ほのぼのとした写真が欲しかったんだなぁー 一枚撮っていいですか?」

どこか場違いなほど明るい声。

石田は一瞬、鶴子を見る。

鶴子は、首を横に振る。


こんな時に。——写真なんて。


「撮ってもらおうよ」

石田が、静かに言う。


「結婚写真 撮ってもらおうよ」


その言葉に、鶴子の時間が、ほんの少し止まる。


鶴子は、少しだけまよったが、小さくうなずいた。


草むらの中に立つ二人。

記者がカメラを構える。


「ちょっと離れ過ぎです もう少しひっついてもらえませんかなぁー」

言われるままに、少し近づく。


「もうちょっと」

さらに近づく。

肩が、触れる。

その距離に、二人とも戸惑う。


「そうそう いい感じです」

レンズの向こうから、記者の声が飛ぶ。


「顔が引きつってます 笑顔 笑顔 笑って!」

そう言われて、無理に口角を上げる。

ぎこちない。


「もう少し自然に笑ってもらえませんかなぁー!」


その時、強い風が吹いた。

記者が被っていた帽子が、ふわりと空へ舞い上がる。


「あっ!」

つるりと露わになった頭。ハゲ頭。

次の瞬間——

「……ふっ」

鶴子が、笑った。

堪えきれずに。

石田も、つられて笑う。

さっきまでの張り詰めた空気が、ほどける。

ほんの一瞬だけ、戦争が、この場所から消えた。


「その笑顔!」

カシャリ、と乾いた音が響く。

「いい写真が撮れました ありがとうございます!」

記者は満足そうにうなずいた。


その時、幸子は気づいていた。

この写真……

どこかで見た気がする。

モノクロの中で、笑っていた二人。

記憶の底で、何かが揺れる。


「帽子 取って来ます!」

石田が走り出す。

その背中を見送りながら、記者が鶴子にぽつりと呟く。

「あの人 ここの所属じゃないよね」

「はい この前 飛行機が故障して 降りて来はったんです」

「そう……」

そして、記者は、腕時計を見る。

「あっ! もうこんな時間か ラジオ聴きに行かないと」

「ラジオ?」

「ラジオで 今日 大事な放送があるって言ってたよね」

鶴子は、小さく首を振る。

「私達が住んでる部屋に ラジオ無いんです」

「君達 一緒に暮らしてるんだ」

「はい みんな 空襲で親兄弟亡くして焼け出された子なんです」

記者は、少しだけ言葉を失う。

「そうなんだ……」


その時、幸夫が帽子を手に戻ってくる。

「だいぶんと向こうの方まで飛ばされていました」

「ありがとうございます! でも少尉 もうラジオ聴きに行かないと!」

「そうでしたね!」

山田は自転車に飛び乗り、去っていく。


「僕たちも行こう? でも、間に合わないか」

と、辺りを見回すと、古い自転車が倒れてるのが目に入った。


「後ろに乗って!」

「えっ?」

「早く!」

戸惑いながらも、鶴子は後ろに乗る。

「僕の背中にしっかり掴まって!」

その言葉に、一瞬だけためらう。

けれど——そっと、手を回す。

体温が、伝わる。

それは、昨日、感じた温もり。

“生きている人の温もり”だった。

自転車が走り出す。

風を切る。

滑走路を、二人で。

まるで、どこか遠くへ逃げるように。


パンッ。

突然の破裂音。

「こんな時にかぎって!」

止まる。

タイヤはぺしゃんこだった。

「仕方がない 走ろう!」

「はい!」

鶴子が笑う。

さっき撮った写真と同じ顔で。

二人は、走り出す。

青空が広がる滑走路を。

これから世界が変わるとも知らずに。


その姿を、少し離れた場所で幸子は見つめていた。

胸の奥で、何かが強く脈打つ。

この人たちの時間が……

もうすぐ、終わる。

けれど——確かに、ここにあった。

“生きていた証”が。

写真が撮られる。

ぎこちない笑顔。

風に飛ばされた帽子。

思わずこぼれる本当の笑い。

その一瞬だけが、戦争の外にあるようだった。


場面は、隊舎の講堂へと。

息を切らせた二人が、その扉を開けた瞬間、すべては、すでに終わっていた。

すすり泣き。

怒号。

混乱。


「天皇陛下の声 初めて聴いた……」

「負けた……」


その言葉が、空間に重く沈む。

幸子の背筋に、冷たいものが走る。

それは、知っているはずの日本の歴史。

けれど、それを“今”として聞く重みは、まったく違った。


「そんな馬鹿な事があっていいのか!」

「徹底抗戦だ!」

叫びが渦を巻く。

「このままだと死んで行った連中に申し訳が立たん!」


誰もが、正気を失っていた。

そして、その失った意味を見失っていた。

その中で——

「行くぞ!」

と、促される石田。

「……俺は行けない……」

静かな声だった。

だが、その一言が、場の空気を切り裂く。

「何だと 貴様!」

怒号。

「私は……行く訳にはいきません……」

その声は。震えていた。

けれど、逃げてはいない。

「死ぬのが怖くなったのか!」

「いいえ」

一拍。

「私には……私には! 命を賭けて守るものがあるからです!」

その言葉に、鶴子の目が大きく揺れる。

幸子の胸も、同じように揺れていた。


守るもの……


「もう戦争は終わったんです……今は 残された日本人を守るべきです!」

それは、未来の言葉だった。この時代には、まだ早すぎる言葉。


「勝手にしろ!」

怒りとともに、軍人は去っていく。

静けさが残る。

の中で、石田は立っていた。

鶴子が、その横にいる。


そして——

少し離れた場所で、幸子は、その光景を見つめていた。

触れることも、変えることもできない。

けれど、なぜか、この瞬間だけは、ただの過去ではない気がしていた。

胸の奥で、何かが静かに繋がり始める。

時間の底に沈んでいたはずの秘密が、ゆっくりと、浮かび上がろうとしていた。





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