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少女たち  作者: 永遠栄作
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幸子とリリー

——リリー。

どこかで、誰かがそう呼んだ。

幸子にとって、この声と名前は忘れようとしても忘れることが出来なかったものだった。

耳の奥に残るその声は、夢の続きのように曖昧で、それでいて妙に生々しかった。

けれど次の瞬間、残酷な過去が目を覚ました。


ドアが、がちゃりと開いて、声の持ち主のエマが顔を出した。

エマは、これから幸子の命の恩人となる少女だ。



「支配人 呼んだはる」


濃い化粧の奥に、まだ少女の面影が残っている。


「えっ?」


思わず返した声は、自分のものなのに、どこか遠く感じる。


「早よ 行かんと また怒られるで」


「う、うん……」


幸子は立ち上がる。

足が、少しだけ重い。


——逃げたい。


そんな感情が、胸の奥にじわりと広がる。

けれど、その感情ごと、この身体はここに縛りつけられていた。


支配人室のドアを開けると、煙草の匂いがまとわりつくように漂ってきた。

支配人の藤井がソファーに深く腰掛け、煙を吐いている。

左の頬に刀で斬られた傷がある強面の中年の男だ。

いつも、この男は、その傷を十人のヤクザと喧嘩をした時のものだと自慢していた。


「あーちょっとこっちおいで」

呼ばれるままに、幸子は近づく。


「そんな怖がらんでもええやないか」

優しいようで、どこか冷たい声。

幸子はうつむいたまま、その横に立つ。

藤井の言葉は、まるで既に決まっている運命をなぞるように、淡々と続いた。


借金。父の破滅。母の死。

そして——自分が本当の娘ではないという事実を思い出した。

どれも、知っている話のはずなのに、今この瞬間、改めて突きつけられると、胸の奥がきしむ。


「……でな」

藤井が立ち上がり、距離を詰める。


「明日から もっと稼げる仕事してもらおうと思てるんや」

その意味を、理解するのに時間はかからなかった。


「それ……どんな仕事ですか?」

声が震える。


「女が手っ取り早よー稼げる仕事ちゅーたら、あれしかないやないか」

逃げ場のない言葉だった。

幸子は、何も言えず、ただうつむく。


「ひょっとして あんた まだ男知らんのんか?」

沈黙が、答えになった。

藤井の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。


部屋を出た瞬間、堪えていたものが一気に崩れた。

壁にもたれ、顔を覆う。

涙が止まらない。


ホールに戻ると、現実は何事もなかったかのように賑やかだった。

笑い声、グラスの音、音楽。

その中で、幸子はふと足を止める。

視線を落とす。

白いドレスの股関に、赤い染みが広がっていた。

頭が真っ白になる。

慌ててハンカチを押し当て、逃げるようにトイレへ駆け込む。

その一部始終を、エマは静かに見ていた。


営業が終わり、人がはけたホールは、急に冷えたように静まり返る。

そこに現れた藤井の言葉は、追い打ちのようだった。


「逃げたら、怖いお兄さんがどこまでも探しに行くしな」

その一言で、体中の血液がスーと引いて行った。

エマが近づいてくる。


「大丈夫?」

その声だけが、少しだけ温かい。

「びっくりしてしもて メンス始まったんやろ?」

幸子はうつむいたまま、小さくうなずく。

「女の身体って デリケートやもんな」

その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。


エマは煙をくゆらせながら、自分の過去を語り始めた。

「見てわかる通り うちは GIベビー 子供ん時から 黒んぼ 黒んぼって言われて育ったし こんな暮らしには慣れてるけどな」

軽く言う。

あまりにも軽く。

けれど、その言葉の一つ一つが、幸子の胸に重く落ちていく。

「そうなんや……」

それしか言えなかった。

エマは、もう一度煙を吐き、視線をどこか遠くへ向ける。

「小学校の時 インデアン処刑とかゆうて木にくくり付けられて 髪の毛 燃やされた事もあるんよ」

一瞬、時間が止まったように感じた。

幸子は思わず顔を上げる。

エマは、変わらない調子で続けた。

「どうせ ちじれてるから 大丈夫やろって」

笑う。

けれど、その笑いは乾いていた。

燃える匂い。

子供たちの笑い声。

逃げられない身体。

そんな光景が、言葉の裏から滲み出てくる。

「先生は 助けてくれへんかったん?」

思わず口をついて出た。

エマは、鼻で笑った。

「先生は しょせん 日本人 それと 警察もな」

淡々としている。

責めるでもなく、怒るでもなく。

ただ、事実を述べるように。

幸子は、何も言えなくなる。

エマは灰を落としながら、続ける。

「やっとこさ 中学卒業しても どっこも雇てくれんと やっと 工場こうばに就職できたっと思たら そこでもイジメにおうて」

煙が、ゆらりと天井へ昇っていく。 

「ケンカして辞めさされて 結局こんなとこで働くしかないようになって……」

の言葉の「こんなとこ」に、すべてが詰まっていた。

幸子は、少しだけ間を置いてから尋ねる。

「家族は?」

エマは、一瞬だけ視線を落とす。

ほんのわずかな沈黙。

けれど、それまでのどの言葉よりも重かった。

「おとんは誰かわからんし」

さらりと言う。

まるで、どうでもいいことのように。

「おかんも うち捨てて 若い男と どっかに行きよった」

言い終えて、また煙を吐く。

その横顔は、相変わらず笑っているように見えるのに、どこにも寄りかかる場所のない人間の顔だった。

幸子は、ただ黙っていた。

何を言えばいいのか、わからなかった。

慰めの言葉は、きっと届かない。

同情も、きっといらない。

ただ一つだけ、わかることがあった。

この少女もまた、ここから逃げられない場所に立っているということ。

差別。孤独。居場所のなさ。

淡々としているのに、その一つ一つが重い。


「リリーは 京都 好き?」

その呼び名に、幸子に懐かしさが蘇った。

——リリー。

それは、幸子のこの店での名前だった。


「うちは 大嫌いや、こんな街、空襲で燃えたらよかったんや!」

エマは笑う。けれど、その目は笑っていなかった。

「うちは リリーの味方やさかい」

その一言が、胸に落ちる。

優しさなのに、なぜか切ない。

立ち上がる。

ここにいたら、壊れてしまいそうだった。


「死ぬなんて考えんときやー!」

背中に投げられた声に、足が一瞬止まりそうになる。

けれど、止まらない。

夜の外気が、頬を打った。

涙が、また溢れる。

走る。

涙の奥に木屋町の赤や青のネオンが滲んだ。


逃げたい。

消えてしまいたい。

でも。


「さっちゃん!」

その声に、はっと顔を上げた。

雅幸が、そこにいた。

幸子は、その場に崩れ落ちた。

声をあげて泣く。

彼の隣で。

恥ずかしげもなく。

高瀬川の水面に、ネオンが揺れている。

何も言えないままの時間。

それでも、隣に誰かがいるというだけで、少しだけ呼吸ができた。


は思い切って顔を上げて言った。

「なあ デートしいひん?」

自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからない。

ただ——明日が欲しかった。

ほんの一日でいい。

 “普通の女の子”でいられる時間が。

だから、笑う。

無理やりでも、笑う。

「明日」

その一言に、すべてを賭けるように。

夜の木屋町を歩きながら、幸子は、自分がまだ壊れていないことを、必死に確かめていた。


 ——リリー。

ふと、その名前がまた胸をよぎる。

それが自分を指すものだと、まだ完全には受け止めきれないまま——。





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