第96話 東方への書状
二者は支配、三者は交渉。
その言葉を口にしてから、半年近くが経つ。
構想は、あの日から動いていない。
動かせなかった。
三つの都市の再建。
あの男との、決着。
そして、日々の政務。
外へ手を伸ばす余力が、この国にはなかった。
だが、今は違う。
戴冠が決まった。
国婚が決まった。
国の形を、外に見せる時が来た。
執務室。
私は白紙を前にしていた。
東方通商連合への、最初の書状。
国家から国家への書状では、ない。
相手は、国ではないからだ。
商人の連合体。
王を持たず、卓を持つ者たち。
「難しいか」
殿下が聞く。
「言葉選びが、です」
私は正直に答えた。
「威厳を出せば、警戒されます。へりくだれば、値踏みされます」
「なら、どうする」
「事実だけを、書きます」
私はペンを取った。
我が国の交易量。
北方ルートの現状と、増強の計画。
関税の一覧。
監査制度の仕組み。
飾らない。
誇張しない。
数字と、記録。
この国が積み上げてきた、そのままを。
「これが、我が国の名刺です」
書き終えた書状を、殿下が読む。
長い沈黙。
やがて、一言。
「口説き文句が、一つもないな」
「はい」
「だが」
彼は書状を置いた。
「相手が商人なら、これが一番の口説き文句だ」
書状は、その週のうちに発った。
返事を待つ間も、政務は止まらない。
戴冠式の設計。
婚儀の席次。
北方ルートの増強予算。
王太后さまの「教育」も、始まった。
歩き方。
視線の置き方。
噂の受け流し方と、受け流してはいけない噂の見分け方。
書類より、疲れた。
返書は、三週間後に届いた。
差出人の名は、ナディル。
東方通商連合、首席使節。
開封の場には、殿下と外交官たちが揃った。
私が、読み上げる。
「――貴国の書状、拝読した」
「数字は、確認した。裏も、取った」
外交官の一人が眉を上げた。
「裏を取ったと、書いてきますか」
「正直な相手です」
私は続きを読む。
「――貴国と卓を囲む用意がある」
部屋の空気が、わずかに動いた。
半年越しの構想が、初めて前に進んだ音だった。
「――ただし、条件が一つ」
一度、言葉を切る。
全員が、次の一行を待っている。
「――戴冠式に、席を」
沈黙。
書状は、そこで終わっていた。
署名と、印。
それだけ。
「……式に、来ると?」
「来る、ではありません」
私は書状を卓に置いた。
「席を、です」
どの席か。
誰の隣か。
ルーデンの使節より、上座か。下座か。
それを決めるのは、こちらだ。
つまり。
最初の交渉は、もう始まっている。
式の当日ではない。
席次を決める、その瞬間から。
結婚が交渉になった、と私は思っていた。
違った。
戴冠も、婚儀も。
式のすべてが、盤面だった。
この時の私は、「席」という一文字の重さを――
まだ、半分しか理解していなかった。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
次話、祝いの言葉とともに、あの男が戻ってきます。
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