第95話 結婚が交渉になった
婚儀の支度は、思ったよりも静かに始まった。
採寸。
布地の選定。
マリエルは、楽しそうだった。
「白は白でも、七種類あるのよ」
「知りませんでした」
「でしょうね」
彼女は笑う。
「あなた、書類の紙の白なら七種類言えるのに」
「……言えますね」
「褒めてないわよ」
久しぶりに、声を出して笑った気がする。
だが、その温かさは長くは続かなかった。
午後。
婚儀の招待名簿の草案が届いた。
一枚目をめくった瞬間に、分かった。
これは、名簿ではない。
外交文書だ。
どの国の使節を呼ぶか。
誰を、呼ばないか。
誰を、どの席に座らせるか。
東方通商連合の名前がある。
ルーデン王国の名前も、ある。
呼ばないという選択は、ない。
呼ばないことも、言葉になるからだ。
結婚が。
私の結婚が、交渉になった。
「面白い顔をしているわね」
声がした。
顔を上げる。
扉のところに、その人は立っていた。
王太后エレオノーラ。
お会いするのは――あの引見以来だ。
国を預けるなら、壊さない者がいい。
そう言った人。
「王太后さま」
立ち上がろうとして、手で制された。
「楽にして」
同じ言葉だった。
あの日と、同じ。
彼女はゆっくりと部屋を横切り、招待名簿を一瞥した。
「気づいたようね」
「はい」
「これは名簿ではなく」
「外交です」
即答すると、彼女は少しだけ目を細めた。
「合格」
窓辺に立つ。
「婚儀の後見は、私が務めます」
思わず、顔を上げた。
「表には出ない方だと、伺っていました」
「ええ。出ないわ」
「今回もね」
彼女は微笑んだ。
「後見は、表に出る仕事ではないの」
「席の並びと、噂の流れ方を設計する仕事よ」
この人は。
この人も、政治の人だ。
「一つ、教えておくわ」
エレオノーラさまは、窓の外を見たまま言った。
「式で一番狙われるのは、王ではないの」
振り向く。
「花嫁よ」
静かな声だった。
だから、余計に重かった。
「王を撃てば、戦になる。誰もそこまではしない」
「だが、花嫁を崩せば」
「式が、崩れる」
「……式が崩れれば」
私は、続きを引き取った。
「均衡が、崩れます」
「そう」
彼女は頷いた。
「刃で狙うとは限らない。噂で狙う。席次で狙う。祝辞の一言で狙う」
「あなたはもう、狙われる側の中心にいるの」
招待名簿の上に、彼女は指を置いた。
「王妃教育は、受けたわね」
「はい」
「あれは、王妃になるための教育」
こちらへ歩いてくる。
「これから私がするのは」
目の前で、止まる。
「王妃で在り続けるための教育よ」
明日の朝から始めます、と彼女は言った。
断る余地は、どこにもなかった。
そして、不思議と。
断りたいとも、思わなかった。
夜。
名簿の草案に、最初の朱を入れる。
席次の一つ一つが、盤面の駒に見えた。
この盤面で、間違えてはいけない。
花嫁である前に。
私は、この国の交渉者だ。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
次話、東方への最初の書状。「二者は支配、三者は交渉」が、ようやく動き出します。
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