第93話 閑話 言えなかった言葉 ―ルシアン視点―
その報せが届いたのは、都市の一つが崩れかけていた、あの時期だった。
政変の余波、旧派閥の抵抗、そして民の不安。国は、いくつもの綻びを同時に抱え込み、俺と彼女は連日、その一つ一つを塞ぐことに追われていた。徴税を拒む地方、扇動される民衆、隣国の様子見。どれ一つとして、猶予のある問題ではなかった。
危機の渦中で、俺が最も恐れていたことが、静かに現実になろうとしていた。
彼女を、政敵が狙い始めた。
「第二王子の補佐官は、断罪された女だ」
「王太子に見限られた者を重用するとは、あの王子の目は節穴だ」
「あの女がいるかぎり、王宮の正統性は揺らぐ」
そうした声が、意図的に流されていた。
俺への攻撃が、彼女を経由して行われている。彼女の過去を蒸し返し、その存在そのものを、俺の弱点として叩く。予想していたことだった。予想していて、なお、防ぎきれなかった。人の悪意は、いつも最も柔らかいところを狙う。そして、俺にとって最も柔らかいところが、いまや彼女であることを、政敵は正確に見抜いていた。
噂は、やがて、紙の形をとった。
王都のあちこちに、一枚刷りの怪文書が撒かれた。断罪された令嬢が、王太子に捨てられたのちに、その弟をたぶらかして王宮に返り咲いた――そう書かれた、下劣な絵入りの紙だった。事実は一つとして正しくない。だが、事実であるかどうかと、人々が面白がるかどうかは、別の話だ。紙は、瞬く間に王都を巡った。
その日、彼女が城の回廊を歩いていると、数人の下級貴族が、行く手を塞いだ。
俺がその場に駆けつけたときには、彼らはすでに、あの紙を彼女の足元に投げ捨てていた。嘲笑と、聞くに堪えない言葉。それでも彼女は、俯かなかった。あの夜会の日と同じように、背筋を伸ばし、ただ静かに、その侮辱を受け止めていた。
俺の中で、何かが、音を立てて軋んだ。
「――そこまでだ」
声を張ったつもりはなかった。だが、その一言で、回廊は静まり返った。無能と侮られてきた第二王子の、聞いたことのない声だったからだろう。貴族たちは、青ざめて散っていった。
彼女は、俺を見て、小さく頭を下げた。
「お手を煩わせました。……私は、大丈夫です」
大丈夫なはずが、なかった。
俺は、足元の紙を拾い上げ、握り潰した。潰したところで、撒かれた紙が消えるわけではない。彼女に向けられた悪意が、消えるわけではない。俺は、そのとき初めて、自分の無力を、はっきりと味わった。彼女を守るための力が、いまの俺には、まだ足りない。
執務室に戻ってからも、俺の指先は、まだ震えていた。怒りだった。あの紙を撒いた者たちへの、そして、彼女をこんな目に遭わせている自分への。
「ルシアン様。もう、お忘れください」
彼女は、いつもと変わらぬ声で、そう言った。俺の震えを、とうに見抜いた上で。
「あの程度の紙で崩れるほど、私は、柔ではありません。断罪の夜に比べれば、どうということはございません」
なんでもないことのように、彼女は言う。
その平静さが、かえって俺の胸を抉った。この人は、こうやって、いくつもの侮辱を「どうということはない」と処理して、生き延びてきたのだ。痛みを、感じないふりをすることで。感じてしまえば、立っていられないから。
「……忘れなくていい」
俺は、絞り出すように言った。
「君が受けた侮辱を、俺は忘れない。君が忘れてやる義理もない。――怒っていい。怒れないなら、俺が代わりに怒る」
彼女は、驚いたように俺を見た。
それから、ほんの少しだけ、目を伏せた。何かをこらえるような、そんな伏し方だった。長いあいだ、誰も、彼女の代わりに怒ってはくれなかったのだろう。怒る資格を持つ者は、みな、彼女を切り捨てる側にいたのだから。
「……ありがとう、ございます」
その声が、わずかに湿っていたことに、俺は気づかないふりをした。
その数日後だった。
彼女が、静かに切り出したのは。
「ルシアン様」
いつもの、感情を抑えた声だった。だが、その声が、ほんのわずかに硬いことに、俺は気づいた。
「私が、身を引いたほうがよいのではありませんか」
その一言に、俺は、手にしていた書類のことも、抱えていた案件のことも、すべて忘れた。
「私がここにいることが、あなたの足を引っ張っています」
彼女は、俺を見なかった。
俺の顔を見ずに言うことでしか、口にできない言葉だったのだろう。窓のほうへ視線を逃がしたまま、彼女は続けた。
「辺境へ行けば、あなたは、余計な攻撃を受けずに済みます。私は、そこでも仕事はできます。あなたのために働いた経験は、無駄にはなりません。……これは、感情ではなく、損得の計算です。私がいなくなるほうが、あなたの継承には有利です」
淡々と、筋道立てて、彼女は自分を切り離そうとしていた。
それが、彼女なりの誠実さだと分かった。俺の負担にならないための、合理的な結論。国のために最善を尽くす、いつもの彼女の思考。自分を勘定の外に置いて、盤面だけを見る、あの静かな手つき。
そのとおりだ、と頭の一部が言った。
彼女がいなくなれば、政敵は攻撃材料を一つ失う。継承戦は、いくらか楽になる。合理的だ。正しい。彼女の言うことは、いつものように、一分の隙もなく正しい。
だが、俺は――。
「行かせない」
気づいたときには、そう言っていた。
彼女が、初めて顔を上げた。驚いた目で、俺を見た。
俺自身も、自分の声の強さに驚いていた。あの、いつも冷静な観察者であるはずの俺が、これほど余裕のない声を出したことは、記憶にない。十年、無能の仮面の下で、どんな挑発にも眉一つ動かさずにきた俺が。
「……ルシアン様。これは、感情の問題ではありません。政務の――」
「そうだ。感情の問題ではない」
俺は、遮った。そして、遮ってから、続ける言葉を探した。
政務の問題として、彼女を引き止める理屈なら、いくらでもあった。彼女の代わりはいない。この危機を彼女なしで乗り切るのは不可能だ。それは事実だった。
だが、俺の喉元まで上がってきていたのは、その理屈ではなかった。
――君がいなくなったら、俺は。
この国がどうなるか、ではない。
俺が、どうなるか。
あの夜会の柱の陰で「もったいない」と思った日から、俺の日々には、彼女という温度があった。彼女の書く文字。わずかに緩む口元。机一つ分向こうの、ペンの音。それらが消えた世界を想像したとき、俺の胸を貫いたのは、政務家の損得ではなかった。
もっと単純で、もっと剥き出しの――喪失の予感だった。
俺は、そのとき、ようやく理解した。
名前をつけなかった、あの火の正体を。
これは、評価ではない。信頼でも、敬意でもない。
俺は、この人に、隣にいてほしいのだ。政務のためではなく。国のためでもなく。俺自身が、この人のいる世界で生きていたいのだ。彼女のいない王座など、手に入れて何になる。
理解したとき、同時に、俺は口を噤んだ。
いま、それを言葉にしてはいけない。
この危機の最中に、追い詰められた彼女に告げれば、それは告白ではなく、束縛になる。「あなたが必要だ」と迫られた彼女は、断れない。断れば、俺を見捨てることになると、彼女の律儀さが、そう思わせてしまう。
彼女が兄から奪われた「自分で選ぶ権利」を、こんな形で、俺が奪ってはならない。追い詰められた末に頷かせた「はい」など、俺の欲しいものではなかった。俺が欲しいのは、彼女が、何にも脅かされず、自分の意志で選び取った答えだけだ。
だから俺は、言えなかった。
いちばん言いたい言葉を、いちばん言ってはいけないときに、飲み込んだ。喉が、焼けるようだった。
代わりに、俺は言った。
「君を守れないような立場なら、俺は、王になどならない」
初めて、彼女の前で「俺」と言った。
取り繕う余裕が、なかった。無能の仮面も、王族の威も、そのときの俺には、どうでもよかった。
「攻撃されるのが嫌で、君を手放すくらいなら、はじめから何もかも、俺は間違えている。政敵が君を狙うなら、その手が届かない場所まで、俺が上りきる。君の価値を、誰にも揺るがせない場所まで。――だから、それまで、隣にいてくれ。逃げるな。君は、逃げて生きる人じゃないだろう」
それは、告白ではなかった。
まだ、告白にはできなかった。だが、精一杯の――約束だった。飲み込んだ言葉の、輪郭だけを、かろうじて差し出した。
彼女は、しばらく、何も言わなかった。
やがて、その目に、かすかに光るものが滲んだ。彼女が、俺の前で感情を見せたのは、あるいはそれが初めてだったかもしれない。断罪の夜にも見せなかった涙を、いま、こらえている。
「……はい」
小さな、けれど、確かな声だった。
「隣に、います。あなたが、そう望んでくださるなら。――私も、逃げたくは、ありませんでした。本当は」
俺は頷いた。頷くことしか、できなかった。
もし口を開けば、飲み込んだ言葉のすべてが、堰を切ってあふれてしまう。それだけは、いまはまだ、してはならなかった。
その夜、彼女が退出したあと、俺は一人、執務室に残った。
机の上には、彼女が半ばまで書き上げた、都市再建の案が広げられていた。崩れかけた街を、どう立て直すか。徴税を、どこまで猶予するか。彼女の几帳面な文字が、危機の只中でなお、一片の乱れもなく並んでいる。この人は、身を引くと言ったその口で、明日も国のために手を動かすつもりだったのだ。
俺は、その紙にそっと指を置いた。
机一つ分の距離。俺が守り続けてきた、この距離。それは、彼女を守るための距離であると同時に、いつか、俺自身の手で詰めるべき距離でもあった。守るために遠ざけ、遠ざけたぶんだけ、上りきる。そうして、彼女の隣に立つ資格を、俺は自分の力で勝ち取らなければならない。
窓の外、王都の灯が、いくつも瞬いていた。
その一つ一つの下に、人の暮らしがある。彼女が守ろうとしているものが、確かにそこにある。俺が守りたいものも、いま、その灯のどれかの下で、静かに眠りについているはずだった。
――待っていてくれ。
声に出さず、俺は呟いた。
必ず、言葉にできる場所まで、俺は行く。施しでも、束縛でもなく。ただ、一人の男として、君に問える場所まで。
言えなかった言葉は、まだ胸の奥にある。
この戦が終わり、彼女が誰にも脅かされない場所に立ったとき――そのときこそ、俺はきちんと、順序を守って、彼女に問おう。施しでも、束縛でもなく、ただ一人の男として。
これからも、俺の隣にいてくれるか、と。
その問いを、ふさわしい形で差し出せる自分になるまで。
俺は、まだ、上り続ける。
窓の外、崩れかけた都市の向こうに、朝の光が滲み始めていた。
夜は、まだ明けきっていない。国の綻びも、政敵の影も、消えたわけではない。
だが、確かに、明けようとしていた。
思えば、俺が彼女に惹かれたのは、憐れだからでも、美しいからでもなかった。
あの断罪の夜、すべてを奪われてなお、背筋を伸ばして歩いた、その強さにだった。誰にも見られない仕事に、手を抜かなかった、その誇りにだった。俺が守りたいのは、弱く庇護すべき令嬢ではない。俺の隣で、俺と同じ高さの景色を見られる、対等な一人の人間だ。
だからこそ、俺は、彼女を憐れみで縛ることを、何より恐れた。守るという名の檻に、彼女を閉じ込めたくはなかった。俺が望むのは、彼女が、自分の足で立ったまま、それでも俺の隣を選んでくれることだった。それ以外の「隣」に、意味はなかった。
いつか、この戦が終わる。
政敵が沈黙し、彼女の価値を、もう誰も揺るがせなくなる日が来る。そのとき、俺はようやく、あの飲み込んだ言葉を、正しい形で差し出せる。恩でも、立場でも、危機でもない。ただ、一人の男が、一人の女に。
これからも、俺の隣にいてくれるか、と。
その日、彼女が何と答えるかを、俺はもう、うっすらと知っている気がした。
あの夜、震える声で「隣にいます」と言った、その先の答えを。
だが、それを知っていることと、正しく問える資格を得ることは、まったくの別物だった。俺には、まだ、上るべき道が残っていた。
――言えなかった言葉は、いつか必ず、言う。
そのために、俺は今日も、この人の隣で、国を立て直す。机一つ分の、あの距離を守りながら。いつか、その距離を、俺自身の意志で詰められる日のために。
それが、無能と呼ばれた第二王子が選んだ、たった一つの生き方だった。
番外編・第1弾(ルシアン視点 閑話)、全4話をお読みいただきありがとうございました。
本編で描かれた二人の「その後」に至るまで、ルシアンの側にも、
言葉にできなかった長い時間があったのだと感じていただけましたら幸いです。
本編の結末(第85話以降、ルシアンが「これからも、俺の隣にいてくれるか」と問う場面)へと、
静かに繋がっていく4話でした。
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