第92話 閑話 隣に置く距離 ―ルシアン視点―
彼女が、俺のもとで働くようになってから、季節がいくつか巡った。
王宮の空気は、少しずつ変わっていた。
無能と呼ばれていた第二王子の管轄が、いつのまにか、最も安定した部門になっている。監査は透明で、収支は健全で、綻びは生じる前に塞がれている。監察官が抜き打ちで帳簿を検めても、数字はいつも、寸分の狂いもなく揃っていた。
誰の手柄か、宮廷の人間は薄々気づき始めていた。だが、口には出さない。無能の王子と、断罪された令嬢。その組み合わせを認めることは、これまでの自分たちの目の節穴を認めることに等しかったからだ。長年、彼女を「地味で冷たい令嬢」と嗤ってきた者ほど、いま口を噤んでいた。
俺は、それでよかった。
目立たないほうが、彼女を守れる。
彼女と机を並べて働く時間は、俺にとって、奇妙なほど心地よかった。
俺が問い、彼女が答える。
彼女が案を出し、俺が決裁する。
言葉が少なくても、思考が噛み合った。同じ資料を見て、同じ綻びに気づき、同じ順序で優先順位をつける。「北部の税は、段階的に」と俺が言いかけると、彼女はもう、その移行表を書き始めている。そんな相手に、俺はこれまで出会ったことがなかった。
彼女は、笑わなかった。
少なくとも、めったには。だが、たまに――こちらの読みが正しかったとき、あるいは、こちらが彼女の意図を過たず汲んだとき、その口元が、ほんのわずかに緩むことがあった。氷が、ひとかけらだけ溶けるような、そんな微かな変化だった。
俺は、いつのまにか、その一瞬を待つようになっていた。会議の資料より、決裁の判より、その口元の緩みのほうを。
監察官が、抜き打ちの監査を終えて、報告に来たことがある。
この国の帳簿を、誰よりも厳しい目で検める男だ。その男が、めずらしく感嘆の色を隠さずに言った。
「殿下の管轄は、どこを開いても、綻びがございません。恐れながら、これほど整った帳簿は、王宮のどこにもございませんでした。……いったい、どなたの手腕でございましょうか」
俺は、退屈そうに答えた。
「さあな。優秀な者に、任せているだけだ」
その言葉を、俺は、部屋の隅にいた彼女に、聞かせるつもりで言った。名は出さない。出せば、彼女を噂の的にする。だが、彼女には、届く。俺が、あなたの仕事を、正しく評価している――その一点だけは。
監察官が去ったあと、彼女の口元が、ほんのわずかに、緩んでいた。俺が名を伏せた意図まで、彼女は正確に汲み取っていた。言葉にせずとも通じる。それが、俺たちのやり方になっていた。
誇らしかった。
だが、その誇らしさを、俺は誰にも見せられなかった。彼女の手柄を声高に讃えれば讃えるほど、宮廷は、二人の関係を勘繰る。だから俺は、彼女の最大の理解者でありながら、その理解を、いつも影に隠しておかねばならなかった。
それが、危険な兆候だということには、気づいていた。
俺は、自分に許した感情の範囲を、注意深く見張っていた。
同志としての信頼。政務家としての敬意。そこまでは、認めていい。だが、その先へ踏み込むことを、俺は自分に禁じていた。
理由は、いくつもあった。
一つは、彼女の立場だ。
いま、彼女はようやく、自分の力で自分の居場所を築きつつある。誰かに拾われた憐れな令嬢ではなく、実力で王宮の歯車を回す協力者として。その評価は、彼女が血の滲むような仕事で勝ち取ったものだ。
もし俺が、彼女に想いを向けていると知れたらどうなる。宮廷は、たちどころに噂を組み立てるだろう。「第二王子の寵愛を得た女」「色仕掛けで成り上がった元令嬢」――彼女の仕事の成果は、そうした囁きの下で、あっけなく色を失う。
兄が彼女から奪ったのは、名義だった。俺の感情が彼女から奪いかねないのは、正当な評価そのものだった。それは、兄のした仕打ちより、たちが悪い。
もう一つは、王位継承の局面だ。
王太后エレオノーラに引見されたあの日から、事態は静かに動き始めていた。
あの人は、俺と彼女のやり取りを、じっと見ていた。俺が「最終責任は、私にあります」と言い、彼女が黙って頭を下げたあのわずかな間を、王太后は見逃さなかった。そして、ぽつりと言ったのだ。「いい関係ね」と。
その一言が、賞賛なのか、警告なのか。俺には、両方に思えた。
「国を預けるなら、壊さない者がいい」
退出する間際の、あの人の呟き。宣言でも約束でもない、ただの視線の行き先。だが、その行き先が、俺に向きつつあることを、俺は感じていた。継承争いから外れていたはずの第二王子が、いつのまにか、盤の中央に引き出されようとしている。
王になるかもしれない者が、断罪された令嬢に想いを寄せている。
それは、政敵にとって、これ以上ない攻撃材料だ。彼女は、俺の弱点として利用される。人質に、あるいは醜聞の的に。俺の感情が、彼女を戦場の真ん中に立たせることになる。せっかく築いた彼女の居場所を、俺の私情が、崩す。
――守るために、遠ざける。
その矛盾を、俺は毎日のように噛みしめていた。
隣に置きたい。だが、隣に置くほど、彼女は危うくなる。
だから俺は、机一つ分の距離を、決して詰めなかった。それが、いまの俺に許された、精一杯の誠実さだった。書類を渡すとき、指が触れそうになれば、俺のほうが先に手を引いた。
ある日、一人の廷臣が、俺のもとを訪ねてきた。
中立派の重鎮で、風向きを読むことに長けた男だった。継承の潮目が俺に傾きつつあることを、いち早く嗅ぎつけている。世間話を装いながら、男は、探るように切り出した。
「殿下は、あのルヴェールの令嬢を、ずいぶんと重く用いておられる」
俺は、退屈そうな顔を崩さなかった。無能の仮面は、こういうときにこそ役に立つ。
「便利だからだ。数字に強い」
「便利、でございますか。……なるほど。しかし殿下、口さがない者は、あれこれと申しますぞ。断罪された女を側に置くとは、と。継承をお考えなら、傷になりかねませぬ」
男の目が、俺の反応を、じっと窺っていた。
俺が彼女を庇えば、そこに感情を読み取るだろう。俺が動揺すれば、弱点を見抜くだろう。この男が知りたいのは、政務の話ではない。エリシアが、俺にとって何であるか――それだけだ。
俺は、ゆっくりと、心を凍らせた。
「傷になるなら、切り捨てるまでだ」
我ながら、冷たい声だった。
「私が側に置いているのは、あの女の頭であって、あの女ではない。使えなくなれば、それで終わりだ。――そう伝えておけ、口さがない者たちに」
男は、しばらく俺の顔を見て、それから、拍子抜けしたように笑った。
「これは、失礼を。……殿下は、噂ほど甘い御方ではないようだ」
男が去ったあと、俺は一人、執務室の窓辺に立った。
いま口にした言葉が、喉の奥に、苦く残っていた。あの女ではない、頭だけだ、使えなくなれば終わりだ――彼女が聞けば、どんな顔をするだろう。あるいは、静かに頷くかもしれない。それが正しい割り切りだと、彼女なら理解してしまうかもしれない。それが、なおのこと、苦かった。
守るために、心にもないことを言う。
守るために、いちばん遠い言葉を、自分の口で放つ。
これが、俺の選んだ距離の、本当の代償だった。
継承会議を控えた、ある夜のことだ。
派閥の動きは複雑を極めていた。旧王太子派の残党が、地方の徴税権を盾に抵抗し、中立派は日和見を決め込んでいる。一つの判断の誤りが、致命傷になりかねない局面だった。俺たちは、灯りを絞った執務室で、遅くまで派閥ごとの利害を洗い出していた。
王位継承は、剣で決するものではない。数字と、大義と、信頼で決するものだ。
誰が地方をまとめられるか。誰が国庫を健全に保てるか。誰が、乱を招かずに国を引き継げるか。王太后エレオノーラが見ているのは、まさにそこだった。「国を預けるなら、壊さない者がいい」――あの言葉の意味を、俺は日ごとに重く感じていた。壊さない者であることを、証明し続けなければならない。一つの帳簿の綻びも、一つの失政も、そのまま俺の資格への疑問符に変わる。
その証明の、半分以上を、彼女が支えていた。
彼女の整えた数字が、俺の大義を裏打ちする。彼女の設計した制度が、俺が「壊さない者」であることの、動かぬ証拠になる。皮肉なことだった。俺が王座に近づくほど、彼女は俺にとって不可欠になり、不可欠になるほど、政敵にとっては、格好の的になっていく。
だから、急がねばならなかった。彼女が的にされきる前に、彼女を守れる高さまで、上りきらねばならなかった。
ふと顔を上げると、彼女が、ペンを持ったまま、わずかに目を閉じていた。
眠っていたわけではない。疲労を、意志の力で押し返している顔だった。あの夜会の日と、同じ顔。崩れそうな自分を、背筋の一本で支えている顔。
「少し、休むといい」
俺は言った。
「大丈夫です。もう少しで、終わりますから」
彼女は目を開け、すぐにペンを走らせ始めた。
その横顔を見ながら、俺は思った。この人は、どうしてここまで自分を追い込むのだろう。誰に見られていなくても、誰に褒められなくても。辺境へ送られていたなら、しなくてよかった苦労だ。俺が呼んだせいで、彼女はまた、こうして夜を削っている。
――違う。
答えは、すぐに分かった。
彼女は、自分自身に見られているのだ。手を抜かないことが、彼女が彼女であるための、最後の砦なのだ。すべてを奪われても、それだけは奪われなかった。奪わせなかった。断罪の夜、あの広間で背筋を伸ばして歩けたのは、その砦があったからだ。
その強さに、俺は――どうしようもなく、惹かれていた。
言葉が、喉元まで上がってきた。
君は、もう十分に証明した。もう、そんなに張り詰めなくていい。俺が、君を――。
俺は、その言葉を、飲み込んだ。
いま、それを言ってはいけない。
継承戦の最中に、彼女を俺の私情の側に引き込んではいけない。彼女がここにいる理由は、俺の感情であってはならない。「必要とされたから」――彼女が王太后にそう答えたことを、俺は知っていた。野心も、打算もなく、ただ必要とされたから応えた。その答えの潔さを、俺の告白で濁らせるわけにはいかなかった。
だから俺は、ただ、こう言った。
「……ありがとう。君がいてくれて、助かっている」
政務の言葉に、かろうじて偽装した本音だった。
彼女は、少しだけ手を止め、それから、静かに答えた。
「私も、です。ここに、居場所をいただきました」
その一言の意味を、俺は深く問わなかった。問えば、飲み込んだ言葉が、あふれてしまいそうだったから。居場所、という言葉の温度に、俺は気づかないふりをした。
机一つ分の距離の向こうで、彼女は再びペンを走らせ始める。
紙を滑る、静かな音。その音が、いつのまにか、俺の夜に欠かせないものになっていた。この音のある夜と、ない夜とでは、同じ執務室が、まるで違う場所に思えた。彼女が辺境へ行っていたなら、俺はこの静けさを、永遠に知らずにいたのだ。そう思うと、あの日、柱の陰から動いた自分の脚を、俺は初めて、褒めてやりたい気持ちになった。
俺は、その音を聞きながら、自分に言い聞かせた。
――まだだ。
この戦が終わるまで。彼女が、誰にも脅かされない場所に立つまで。彼女の価値が、俺の隣にいることと切り離されて、それでも揺るがなくなるまで。
それまでは、この距離を、守り抜く。
灯火は、消えなかった。
むしろ、日を追うごとに、静かに、確かに、その熱を増していた。
俺は、その熱を抱えたまま、盤の中央へと歩み出ようとしていた。彼女を、その戦火から遠ざけるために。




