第91話 閑話 選んだ理由 ―ルシアン視点―
彼女を呼び出すと決めてから、実際に使いを出すまでに、俺は三日を費やした。
三日という時間は、俺にしては長い。
迷っていたわけではない。彼女の力が必要だという判断は、あの夜会の柱の陰で、すでに固まっていた。俺が費やしたのは、決断のための時間ではなく、言葉のための時間だった。
どう伝えれば、彼女を傷つけずに済むか。
断罪されたばかりの女に、都合よく手を差し伸べる。それは一歩間違えれば、兄がやったことと変わらない。相手の価値を、自分の都合で値踏みする――その傲慢さにおいて、俺と兄は紙一重だ。差し出す手が、施しに見えた瞬間、彼女は必ず、それを拒む。あの誇りは、憐れみを最も嫌うはずだった。
だから、言葉を選ばなければならなかった。同情に聞こえてはいけない。憐れみに聞こえては、なおいけない。
俺は、机の上に、彼女が過去に手がけたと思われる資料を並べた。南方交易路の再編案。関税率の見直し。地方監査の報告。名義はすべて兄のものだ。だが、その一枚一枚に、彼女の思考の指紋が残っている。俺は、それを証拠として突きつけるのではなく、鏡として差し出すつもりだった。あなたのしてきたことを、私は見ている、と。
彼女が守り抜いたものは、誇りだ。
その誇りを、俺の言葉で汚すわけにはいかなかった。
三日目の夕刻、俺はようやく、使いを出した。
面会の場に、俺は華美な装いを避けた。王族としての威圧は、いまは邪魔でしかない。人目につかない奥まった応接室を選び、椅子を二つ、向かい合わせに置かせた。上座も下座もない、対等の配置に。侍従を下がらせ、部屋には俺一人で、彼女を待った。
鼓動が、わずかに速いことに気づいて、俺は苦笑した。
――面接だ。感傷を挟む場面ではない。何度も、自分にそう言い聞かせた。
扉が、控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
その声を聞いた瞬間、言い聞かせたはずの鼓動が、また跳ねた。
彼女は、想像していたとおりの人だった。
俯かず、媚びず、かといって刺々しくもない。ただ、必要な距離を保って一礼する。断罪の翌々日とは思えないほど、静かに整った佇まいだった。喪服のように地味な装いの下で、背筋だけが、あの夜と同じようにまっすぐ伸びていた。
整えている、のだ。
崩れそうな自分を、意志の力で。
それが分かってしまって、俺は少しだけ、胸が痛んだ。
「突然呼び出して、すまない」
言葉を交わしながら、俺は決めていた順番どおりに話を進めた。
まず、あの夜の彼女の振る舞いを否定しないこと。次に、俺が彼女の仕事を知っていると伝えること。そして最後に――提案を、同情ではなく評価として差し出すこと。
「君が反論しなかったことも、声を荒げなかったことも、私は理解している。君は、あの場で品位を守った」
彼女の目が、わずかに揺れた。
肯定されるとは思っていなかったのだろう。少なくとも、王族からは。
その反応が、俺の胸のどこかを、静かに締めつけた。この人は、どれだけ長いあいだ、正しく理解されないまま働いてきたのだろう。褒められることも、労われることもなく。ただ、綻びだけが、彼女の元へと運ばれ続けた歳月を。
「君がこれまで、どんな仕事をしてきたかも、私は知っている」
筆跡の話をすると、彼女の顔から、初めて表情らしい表情が消えた。
逃げ場のない事実を突きつけられた者の顔だ。誰にも見られないと思っていた努力を、他人の口から言い当てられる。それは、暴かれることであり、同時に――報われることでもある。
その二つのあいだで、彼女は言葉を失っていた。
俺は、机の上の資料を、一枚ずつ指し示した。南方交易路。関税率。どれも、あなたの思考だろう、と。彼女は、否定しなかった。否定できなかったのだ。事実だったから。
だが、この瞬間、暴かれていたのは、彼女だけではなかった。
これらの資料を読み込み、行間の思考を読み解き、その主が誰かを言い当てる――そんな真似ができる時点で、俺はもう、無能ではありえない。十年かけて被り続けた仮面を、俺はいま、彼女の前で、自らの手で外していた。この人になら、見せてもいい。俺はそう、覚悟していた。
それが、どれほどの賭けだったか。
俺の正体を知る者が一人増えることは、俺の命が一人ぶん、危うくなることでもある。無害な余りものだと侮られているうちが、俺の安全だった。その安全を、俺は、彼女一人のために、投げ出そうとしていた。
彼女は、賢い人だ。俺が資料をこれほど読み込んでいる事実の意味を、すぐに悟ったはずだった。目の前の第二王子が、噂どおりの無能などではないことを。そして、それを悟ってなお、彼女は何も問わなかった。ただ、静かに、俺の目を見返した。
――秘密を、預けられた者の目だった。
この人は、俺の仮面の下を見た。
俺も、この人の仮面の下を見ていた。
その一点だけで、俺たちはもう、この宮廷で誰とも結べなかった何かを、結んでしまっていた。
「君は、不要だったのではない」
俺は、はっきりと言った。
この一言のために、三日を費やしたのだと言ってもいい。
「使えなかっただけだ。第一王兄が」
彼女が、息を呑む音が聞こえた。
俺は、兄を庇うつもりも、貶めるつもりもなかった。ただ、事実を言った。
価値のないものは、捨てられても仕方がない。だが、彼女は違う。価値がなかったのではない。その価値を、使う側が、使えなかっただけだ。責められるべきは、道具ではなく、道具を持て余した手のほうだ。名匠の道具を鈍らと嘆く、その未熟な手のほうだ。
それを、彼女は、生まれて初めて聞いたような顔をしていた。
「辺境へ行く前に――私のもとで、働いてみないか」
提案を口にした瞬間、俺は自分の内側を、注意深く観察していた。
これは、同情か。
いや。同情なら、辺境行きの費用でも用立てて、それで終わりにすればいい。俺が欲しいのは、彼女の境遇への慰めではない。彼女の頭脳であり、その手が残す結果だ。
これは、正しい評価だ。俺はそう、自分に言い聞かせた。
言い聞かせた、という時点で、本当はもう、そう単純ではなかったのかもしれない。
「それは、同情ではありませんか」
彼女は、慎重に、そう問うた。失礼だと分かっていて、なお確かめずにはいられない――そんな声だった。二度と、同じ轍を踏むまいとする者の、必死な警戒。
「違う」
俺は、即座に否定した。
「私は、同情で人を側に置かない。君を呼んだのは、結果を知っているからだ」
偽りではなかった。だが、あのとき俺の内側にあったのは、評価という言葉だけでは足りない、もっと落ち着かない何かだった。この人を、辺境へ行かせたくない。その感情の輪郭を、俺はまだ、正確になぞることができなかった。
「私を、部下として扱うおつもりですか」
彼女の問いに、俺は少しだけ考えた。部下、という言葉は、正しくない気がした。
「正確には、協力者だ。上下ではなく、役割として」
そう答えると、彼女は、また息を止めた。
上下ではない。役割として。――その言葉が、彼女にとってどれほど遠いものだったかを、俺はあとになって知ることになる。これまでの彼女は、常に支える側で、対等という椅子を、一度も与えられてこなかったのだ。
「……もし、私が失敗したら」
「修正する。私も、君も。完璧な人間などいない。だからこそ、補い合う」
俺は言った。それは、彼女を口説く言葉ではなかった。ただの、俺の政務観だった。だが、口にしながら、俺は気づいていた。「補い合う」という言葉を、これほど誰かに向けて言いたいと思ったのは、初めてだということに。
そして、俺は一つ、心に決めていた。
この人に、二度と「拾われた」と思わせない。
施しで側に置かれた者は、施しを与えた者に、頭が上がらなくなる。恩を返さねばと自らを縛り、対等の口をきけなくなる。それは、俺の望む関係ではなかった。俺が欲しいのは、頭を垂れる部下ではない。俺の誤りを、誤りだと言ってくれる人間だ。玉座に近づけば近づくほど、誰も俺に真実を言わなくなる。だからこそ、真実を言える人間を、対等の場所に置いておかねばならない。
彼女が、いつか俺に向かって「それは違います」と言える日が来るなら――そのときこそ、俺がこの人を側に置いた意味が、証明される。彼女は、拾われたのではない。選ばれたのだ。そして、選んだのは俺だが、その価値を作ったのは、彼女自身だ。その順序だけは、何があっても、履き違えまいと思った。
「君に、即答を求めるつもりはない」
俺は、席を立った。距離を詰めない。決断を迫らない。彼女が兄から奪われた「自分で選ぶ権利」を、今度は俺が奪うことだけは、してはならなかった。
「一つだけ、伝えておきたい」
扉の前で足を止め、俺は振り返った。
「君が断ったとしても、私は君のこれまでを否定しない。君の価値は、誰かに選ばれることで決まるものではない」
それは、彼女に向けた言葉であると同時に、俺自身への戒めだった。
――俺が選んだから、彼女に価値があるのではない。彼女に価値があるから、俺は選んだのだ。順序を、間違えるな。この順序を守れなくなったとき、俺は兄と同じ場所に堕ちる。
応接室を出て、俺は長い廊下を一人で歩いた。
窓の外、王都の空は、いつもと同じように広い。
名前をつけなかった感情は、胸の奥で、小さな火のように灯り続けていた。
消せばいい、と思った。消せるはずだ、とも。政務のための起用に、私情を混ぜてはいけない。彼女を側に置くのなら、なおのこと、俺はその火を、飼い慣らさなければならない。
この火は、彼女を照らすためだけに使う。決して、彼女を焼くためには使わない。そう自分に誓うことでしか、俺はこの感情と、共に生きていく術を知らなかった。あの人に、対等の場所を約束したその口で、あの人を欲するなど、許されるはずもなかったから。
だが、その火が、これからどれほど長く俺を照らし、そして焦がすことになるのか――
このときの俺は、まだ知らずにいた。
彼女の返事が届いたのは、それから数日後のことだった。
辺境行きの荷を、すでに半ば解いた――そう一言だけ添えられた、短い書状だった。飾りも、感謝の言葉の羅列もない。ただ、承諾の意思と、初出仕の日取りだけが、彼女らしい簡潔さで記されていた。俺は、その紙を、しばらく机の上に置いたまま、動けずにいた。
勝った、と思ったのではない。
安堵、とも少し違った。
あの誇りが、辺境の土に埋もれずに済んだ――その事実に、俺は、自分でも意外なほど、深く息を吐いていた。
初出仕の日、彼女は、約束の刻限より早く現れた。
案内の侍従を先に帰し、執務室の扉の前に、一人で立っていた。地味な、しかし手入れの行き届いた装い。背筋は、あの夜会の日と同じようにまっすぐで、けれど、その目には、あの日にはなかった光が、ひとかけら宿っていた。
「本日より、お世話になります」
深く一礼する彼女に、俺は言った。
「世話をするのではない。共に働くんだ。――座ってくれ。君の席は、そこだ」
机一つ分を隔てて向かい合う、その席を、俺は指した。
彼女が椅子に腰を下ろし、初めての書類に手を伸ばす。その所作を見ながら、俺は胸の内で、ひそかに一つの線を引いた。この机一つ分の距離を、俺は守る。この人が、自分の足で立ち続けられるように。
――そのときは、その距離が、これほど長く俺を苦しめるとは、思ってもいなかった。




