第90話 閑話 観察者 ―ルシアン視点―
俺が無能と呼ばれるようになったのが、いつからだったのか、もう覚えていない。
覚えていないふりをしている、と言ったほうが正確かもしれない。
第二王子。王位継承争いから外れた、余りものの王子。宮廷の誰もがそう扱い、俺はその評価を、否定せずに受け入れてきた。むしろ、丁寧に育ててきたとさえ言える。
何もしなければ、無能と呼ばれる。
何かをしようとすれば、警戒される。
その二つのあいだで、俺が選んだのは前者だった。
無能でいるほうが、都合がよかったからだ。警戒されない者の前では、人は油断する。油断した者は、本音を漏らす。だから俺は、退屈そうな顔で会議の隅に座り、あくびを噛み殺すふりをしながら、誰も見ていないものを見ていた。
誰が、この国を実際に支えているのか。
誰が、どの派閥に借りを作り、どの数字を粉飾し、どの綻びから目を逸らしているのか。
王族の会議というのは、言葉より沈黙のほうが雄弁だ。誰が発言の前に誰の顔色を窺うか。誰が数字を諳んじ、誰が資料を読んでいないか。俺は、その一瞬の視線の往復を、十年近く観察し続けてきた。無能の仮面は、そのための最良の隠れ蓑だった。誰も、退屈そうな第二王子が、自分たちを値踏みしているとは思わない。
その仮面を、俺がいつから被り始めたのか。
それだけは、はっきりと覚えている。
幼い頃、俺は、聡明な子供だった。数字を読み、書物を諳んじ、大人の議論の綻びを、無邪気に指摘してみせた。周囲は、それを喜ばなかった。第二王子が賢しいということは、王太子の兄にとって、脅威でしかなかったからだ。ある夜会で、俺が兄の失策をそうと知らず言い当てたとき、兄の派閥の視線が、一斉に俺へ向けられた。あれは、賞賛ではなかった。値踏みだった。この子供を、いつ、どう摘むか――そういう目だった。
子供心に、俺は理解した。
この宮廷で、第二王子が生き延びる道は、二つに一つ。兄を脅かす有能な弟として、いつか排除されるか。あるいは、誰の脅威にもならない無能として、忘れられるか。
俺は、後者を選んだ。
以来、俺は、賢さを隠すことに、賢さのすべてを使った。
会議では欠伸をし、書物には興味のないふりをし、政務を振られれば適当にしくじってみせた。宮廷は安堵し、俺を「無害な余りもの」の棚に片付けた。そうして俺は、命と引き換えに、孤独を手に入れた。誰にも本当のことを言えず、誰とも本当の話ができない。仮面の下で、俺はいつも、一人だった。
だから、彼女の文書を読むことは、俺にとって、密かな慰めだった。
この宮廷に、もう一人、仮面の下で生きている人間がいる。声高に語らず、手柄を求めず、ただ静かに正しさだけを積み上げている人間が。俺が無能を演じることで生き延びたように、彼女は、感情を殺すことで生き延びていた。方向は違えど、同じ孤独の匂いがした。
書類には、必ず癖が出る。
署名の名義がどれほど立派でも、行間に宿る思考の指紋までは偽れない。俺は宮廷に出回る政務資料を、暇にあかせて読み込んできた。交易路の再編案。関税率の見直し。地方監査の報告。冗長な前置きを削ぎ落とし、問題の核だけを静かに指し示す――そういう文書が、決して少なくない数、宮廷を流れていた。
そのすべてから、同じ思考の匂いがした。
派手さがない。声高な主張もない。ただ、綻びを一つずつ塞いでいくような、静かで的確な手つき。名義はいつも、第一王兄――王太子アルノルトのものだった。
だが、あの兄にこの緻密さはない。俺はそれを、誰よりもよく知っていた。兄は、決断を演じることには長けているが、決断の根拠を組み立てる根気を持たない。華やかな結論だけを、誰かが用意した土台の上で読み上げる男だ。
では、その土台を組んでいるのは、誰か。
答えにたどり着くのに、そう時間はかからなかった。
王太子の婚約者。ルヴェール公爵家の令嬢。エリシア。
「地味で、冷たい」
宮廷では、そう評されていた。
感情を表に出さず、社交の華やぎに欠け、笑わない令嬢。王太子妃としては物足りない、と陰口を叩かれる女。舞踏会でも壁際に控え、扇の陰で談笑することもなく、ただ静かに場を観察している――そんな姿ばかりが噂の種にされていた。
俺は、その評判を一度も信じたことがなかった。
冷たいのではない。無駄がないだけだ。
彼女の書く文章には、一片の私情も混じっていない。誰に評価されるかを計算していない。ただ、国が正しく回るために必要なことだけが、過不足なく並んでいる。
一度、南方交易路の再編案を読んだことがある。表向きは兄の名義だった。だが、その第三項――反発の大きい地域の税を、あえて段階的に据え置く一文に、俺は目を留めた。短期の収支だけを見れば、そこは一気に引き上げたほうがいい。だが、その一文を書いた者は、数字の向こうにいる人間の反発と、それが半年後に生む政治的損失まで、見通していた。
冷徹な計算の中に、人を折らないための余白がある。
それは、冷たさではなかった。
それは、誰にも見られないと知りながら、それでも手を抜かない者の――誇りだった。
俺は、その誇りを、遠くから見ていた。
声をかけることはしなかった。俺のような立場の者が近づけば、彼女の立場を危うくするだけだと分かっていたからだ。無能の第二王子に目をかけられた王太子妃候補、などという噂は、彼女にとって毒にしかならない。
だから、見ているだけでよかった。
この国のどこかに、正しく仕事をする人間が一人いる。その事実だけで、俺の退屈な日々には、かすかな温度があった。名前も呼ばず、言葉も交わさず、ただ、同じ資料の同じ綻びに、別々の場所で気づいている――それだけの、細い糸のような繋がり。
一度だけ、議場で、彼女を間近に見たことがある。
王太子が主宰する財務評議の場だった。俺はいつものように、末席で退屈そうに欠伸を噛み殺していた。兄は、居並ぶ重臣を前に、来期の予算案を朗々と読み上げていた。数字が流れ、賛辞が並び、誰もが満足げに頷いていた。
その、玉座の斜め後ろ。書記の列に紛れるようにして、彼女は控えていた。王太子妃候補という立場でありながら、前に出ることもなく、ただ手元の帳面に目を落としている。
兄が、ある数字を読み上げた瞬間だった。
彼女の睫毛が、ほんのわずかに震えた。俺以外の誰も気づかない、小さな動き。誤りに気づいた者の、反射だった。北部の歳入の見込みが、前年の徴税実績と噛み合っていない。兄の読み上げた数字は、机上で膨らませた、都合のいい幻だった。
だが、彼女は、何も言わなかった。
その場で兄の顔を潰すことを、しなかったのだ。代わりに、俺は後で知ることになる。翌日、修正された正しい数字が、兄の名義で、静かに評議に差し戻されていたことを。誰にも気づかれず、誰の面目も潰さず、ただ国庫の穴だけが、塞がれていた。
――そういう人だった。
正しさを、手柄に変えない人。誤りを、他人を貶める道具にしない人。あの一瞬の睫毛の震えを、俺はなぜか、長く覚えていた。
――そのはずだった。
あの夜会の報せが届くまでは。
「王太子殿下が、婚約を破棄されたそうです」
側仕えの声を、俺は最初、理解し損ねた。手元の書類の文字が、意味を結ばなくなった。
「……誰の」
「ルヴェール公爵令嬢の、婚約でございます。夜会の、衆目の前で」
手にしていた書類を、俺は静かに置いた。
置いた、というより、置くことでかろうじて手の動きを制御した、というほうが近い。指先が、わずかに冷えていた。
大広間へ向かう足は、自分でも意外なほど速かった。
急いでどうする、と頭の隅で冷静な自分が呟く。俺が飛び込んだところで、何ができるわけでもない。婚約の破棄は王太子の権限だ。第二王子が口を挟める領分ではない。割って入れば、俺が十年かけて築いた無能の仮面が、一瞬で剥がれ落ちる。
それでも、俺は行った。
理屈より先に、身体が動いていた。
広間の入り口、柱の陰。俺はそこに立ち、中を見た。
シャンデリアの光の下、着飾った貴族たちの視線が、一点に集まっている。その中心に、彼女はいた。
エリシア・フォン・ルヴェール。
「お前は、いつも冷たく、機械のようだ。私の隣に立つ者として、ふさわしくない」
兄の声が、広間に響く。
その隣で、男爵令嬢のセリーナが、勝ち誇ったように微笑んでいた。可憐な、と誰もが言うだろう笑みだ。だが俺の目には、その笑みが、他人の十年を踏みにじって咲いた花にしか見えなかった。
「あなたのような冷たい人、王太子妃には向いていないわ」
セリーナの甘い声が、追い打ちをかける。
俺は、彼女の顔を見た。
断罪される側の、エリシアの顔を。
取り乱すだろうと思った。せめて、反論するだろうと。あれだけの仕事をしてきて、その名義さえ奪われてきた女が、最後にすべてを否定されて、平静でいられるはずがない。あの兄の口から出る言葉のことごとくが、彼女自身が塞いできた綻びの成果を、そうと知らずに踏みにじっているのだ。
だが、違った。
彼女は、背筋を伸ばしたまま、静かに一礼した。
「わかりました。仰せの通りに」
声は、震えていなかった。
好奇と侮蔑の視線の中を、彼女はまっすぐ前を見て歩いた。振り返らず、俯かず。まるで、これが自分で選んだ道であるかのように。すれ違う貴族たちの囁きも、扇の陰の嘲笑も、その背に一切届いていないかのようだった。
立ち去る彼女の背に、兄の声が飛んだ。
「お前の代わりなど、いくらでもいる」
その一言に、俺は――柱を掴む手に、力がこもるのを感じた。
代わりなど、いない。
この国のどこを探しても、あの手の代わりは、いない。それを知らないのは、いま彼女を捨てたその男だけだ。愚かさにも程がある。持っていたものの重さを、失う瞬間まで一度も量らなかった男。
その背中を見送りながら、俺は――息をするのを忘れていた。
美しい、と思ったのではない。
哀れだ、と思ったのでもない。
――もったいない。
最初に胸を突いたのは、その言葉だった。
この国は、いま、途方もないものを捨てようとしている。誰もそのことに気づかないまま。兄も、あの令嬢も、拍手を送る貴族たちも、誰一人。
あの手が塞いできた綻びは、これから誰が塞ぐのか。
あの誇りは、辺境の土の下で、朽ちていくのか。
俺は、柱の陰で拳を握っていた。
それが政務家としての惜しみなのか、それとも別の何かなのか――そのときの俺には、まだ区別がつかなかった。ただ、胸の奥が、これまで感じたことのない熱を持っていることだけは、確かだった。
その夜、俺は自室の窓辺に立ち、長いあいだ王都の灯を見下ろしていた。
辺境行きが決まった令嬢に、第二王子が手を差し伸べる。
それが何を意味するか、分からないほど俺は愚かではなかった。無能の仮面を、自ら脱ぐことになる。兄の派閥を、正面から刺激することになる。長年かけて築いた「無害な余りもの」という安全な立場を、俺は手放すことになる。
やめておけ、と理性が言った。
いままでどおり、観察者でいろ。誰の目にも留まらない場所で、静かに国を見ていろ。手を伸ばせば、お前も泥をかぶる。十年守ってきた安全を、たった一人の令嬢のために捨てるのか、と。
もっともな声だった。
彼女を呼べば、俺の平穏な日々は終わる。無害な余りものの仮面は剥がれ、兄の派閥の警戒が、俺に向く。命の危険すら、現実になるかもしれない。それだけの対価を払って、俺が得るものは何だ。一人の政務家。それだけのはずだった。それだけの、はずだった。
だが、あの背中が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。
振り返らずに歩いた、あの誇り高い背中が。
そして、いつかの議場で見た、あの睫毛のわずかな震えが。誰にも気づかれず、誰にも報われず、それでも正しさだけを選び続けた、あの静かな横顔が。
俺は、もう、見ているだけではいられなくなっていた。
自分の中で、長いあいだ動かなかった何かが、静かに、しかし確実に――動き始めていた。
窓の外、夜はまだ深い。
だが俺は、その夜のうちに、決めていた。
彼女を、呼ぼう。辺境の土に、あの誇りを埋めさせはしない。




