第60話 均衡の代償
王宮の会議室に、新しい報告が届いた。
宰務官の顔は、昨日よりもわずかに硬い。
「北方ルート、動き始めています」
机に地図が広げられる。
王都から北へ抜ける陸路。
そして南方港から外洋へ出る航路。
「輸送は開始」
「ただし」
言葉が少し重くなる。
「コストが高い」
当然だった。
既存のルーデン経由ルートは、長年かけて最適化されている。
新ルートはまだ未整備。
効率が悪い。
「上昇率は?」
ルシアン殿下が問う。
「初期段階で三割増」
静まり返る。
三割。
商人にとっては致命的になりかねない数字。
「……許容範囲か」
殿下が低く言う。
私は首を横に振った。
「いいえ」
「このままでは長く持ちません」
利益が出なければ、商人は離れる。
国家の保証にも限界がある。
つまり――
時間との勝負だった。
「ルーデン側の動きは」
殿下が続ける。
宰務官が答える。
「さらに圧力を強めています」
「通関遅延の拡大、保険料の再引き上げ」
想定通り。
向こうも本気だ。
私は地図を見つめる。
そして静かに言った。
「均衡です」
殿下がこちらを見る。
「何だ」
「侯爵の言葉です」
私は続ける。
「国家は均衡で保たれる」
ルーデンは今、その均衡を崩しに来ている。
こちらもまた、均衡を作らなければならない。
「具体的には」
殿下が問う。
「第三の相手を入れます」
沈黙。
「第三?」
「はい」
私は地図のさらに外側を指した。
「東方諸国」
あまり交流のない地域。
距離がある。
文化も違う。
だが――
ルーデンの影響が及びにくい。
「リスクが高いな」
殿下が言う。
「ええ」
「ですが」
私は答える。
「二者だけの関係は支配になります」
「三者になれば交渉になります」
それが均衡だ。
侯爵の思想。
それを、逆に利用する。
その時、扉がノックされる。
カイルが入ってきた。
「報告です」
「王都の市場で、物価が上昇しています」
やはり来た。
私は目を閉じる。
外交の影響は、すぐに民衆へ届く。
「上昇率は」
「主要品目で一割前後」
まだ小さい。
だが確実に広がる。
「……時間がないな」
殿下が呟く。
私は頷いた。
外交は盤面の戦いだ。
だがその裏で、生活が削られていく。
その夜。
ドミニク侯爵の屋敷。
報告が届く。
「北方ルート稼働」
「物価上昇」
侯爵は静かに頷く。
「均衡が崩れた時」
ゆっくりと言う。
「最初に揺れるのは民だ」
窓の外を見る。
「そして政治は、そこで試される」
王宮。
私は一人、窓の外を見ていた。
灯りが揺れている。
あの一つ一つの中に生活がある。
制度。
外交。
国家。
すべては正しい。
だが、その正しさが
人を苦しめることもある。
「……ここからですね」
小さく呟く。
制度を守るか。
生活を守るか。
その両方を守れるのか。
均衡の代償は、
すでに始まっていた。
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