第117話 王妃の最初の署名
祝祭は、三日続いた。
四日目の朝、王宮は日常に戻った。
戻れることが、良い国の証だと思う。
執務室の扉を開けて、気づいた。
机が、変わっていた。
私の机が、あの人の机の隣に移されている。
机一つ分の距離は、もうない。
二つの机は、端と端を接して並んでいた。
「昨日のうちに、運ばせた」
先に来ていた陛下が、素知らぬ顔で書類をめくった。
「約束したからな」
「……執務の効率は、落ちるかもしれませんよ」
「なぜ」
「隣にいると、時々、仕事の手が止まりますので」
陛下の手が、実際に止まった。
私は、少しだけ勝った気分で席に着いた。
午前の政務は、報告から始まった。
「文書院より、月次の報告です」
カイルが読み上げる。
「写字部門の作業量、前月比で二割の改善」
「新任の写字生の指導が、的確だそうです」
新任の写字生。
その几帳面な字を、私は思い出した。
罪は、まだ償いの途中にある。
だが、腕は正しい場所で使われている。
それでいい。
「それから、面会の申し込みが二件」
「一件目は、グレイヴンの商会主の方々。北方ルートの件で御礼を、と」
「御礼は要らないと、お伝えして」
「そう言うと思いまして」
カイルは、少し笑った。
「『御礼ではなく次の商談だ』と言い直されました」
「……お通しして」
商人は、正しい。
御礼は一度きりだが、商談は続く。
続くものの方が、国を支える。
「二件目は」
カイルの声が、柔らかくなった。
「フェルドから。親子のお客様です」
応接の間に、あの母子がいた。
子供は、背が伸びていた。
もう、母親の後ろに隠れる背丈ではない。
「王妃さま」
母親が、深く頭を下げた。
「ご成婚、おめでとうございます」
「町のみんなで、これを」
差し出されたのは、押し花の額だった。
フェルドの野の花。
あの焚き火の夜に、灰の中で見た町の。
その野に、もう花が咲いている。
「町は、どうですか」
「橋が直りました。市も、戻りました」
「学校も」
子供が、口を挟んだ。
「学校も、できた。おれ、字が書けるようになった」
「そう」
「王妃さまの名前も、書ける」
胸の奥が、静かに温かくなった。
切り捨てられた、と言われた町で。
子供が、字を覚えている。
私の名前を、書けるという。
これ以上の勲章を、私は知らない。
午後、最初の裁可書類が回ってきた。
王妃としての、最初の署名。
書類は、緊急対応規則の改訂案だった。
三年前に作った、人命優先の規則。
その適用範囲を、災害から経済危機まで広げる改訂。
あの買い占めの教訓を、紙に畳んだもの。
「王妃としての一枚目が、これでいいのか」
陛下が、隣の机から言った。
「華のある一枚を、選ばせることもできるが」
「これが、いいのです」
私はペンを取った。
「私の一枚目は、華より」
署名する。
エリシア。
新しい署名を、初めて公文書に。
「――人が、いいので」
墨が乾くのを、隣の机の人と二人で待った。
窓の外は、穏やかな午後だった。
こういう穏やかな日の夜は。
なぜだか、あの部屋を確かめに行きたくなる。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
次話、第2部最終話です。あの夜の執務室に、もう一度。
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