第115話 戴冠
式の前夜。
殿下は、一通の封書を開いていた。
飾りのない封書。
王宮外の、小さな仮邸から届いた一通。
私は、席を外そうとした。
「いい」
殿下が言った。
「お前も、読んでくれ」
便箋は、一枚だけだった。
短い文面。
『弟へ』
『明日は行かない。俺が列席すれば、それが政治になる。お前の式を、俺の詫びの舞台にはしない』
『俺が言えることは、一つだけだ』
『止めるな』
『お前たちが始めた改革を、途中で止めるな。それだけが、俺の敗けた意味になる』
『アルノルト』
署名の字は、力強かった。
昔の、傲慢さの抜けた力強さだった。
「……行かない、と」
「ああ」
殿下は、便箋を丁寧に畳んだ。
「兄上らしい。一番、正しい欠席だ」
「返事は、書かれますか」
「いや」
彼は、首を振った。
「明日の式が、返事だ」
戴冠の朝は、晴れた。
大聖堂の鐘が、王都に響く。
沿道は、人で埋まっていた。
あの三年を越えてきた人々の顔で。
大聖堂の中。
各国の使節。
貴族。官僚。騎士団。
ナディルの席が、あった。
アルトマンの席が、あった。
侯爵は、地方連盟の席の中央にいた。
イザベラは、監査官の列に。
カイルとマリエルは、側近の席に。
そして、空けられた一席。
王族の席の、一番端。
誰も座らない、その席を。
殿下は、そのままにさせた。
欠席もまた、記録に残る。
あの人の選んだ形の、まま。
陛下が、玉座の前に立つ。
一年前、譲位を告げた時と同じ立ち方で。
「ルシアン」
「はい」
「三年前、儂はお前に三つの物差しを与えた」
「壊さないこと。修正できること。記録が残ること」
「お前と、お前の隣の者は、それを守った」
「守った上で――儂の物差しに、一つ書き足した」
陛下の目が、わずかに緩んだ。
「人が生きるためのものであること」
「その物差しごと、この国を渡す」
王冠が、掲げられる。
光が、走る。
「受け取るか」
「受け取ります」
王冠が、下ろされた。
鐘が、鳴る。
大聖堂の鐘に、王都中の鐘が続く。
その音の中で、彼は立ち上がり、一同へ向き直った。
ルシアン・フォン・グランディール。
もう、殿下ではない。
陛下。
この国の、王。
「即位に際し、一つだけ約束する」
新しい王の、最初の言葉。
「私は、完璧な王にはならない」
ざわめきかけた場が、続く言葉で静まった。
「間違える。だから、修正する」
「隠さない。だから、記録に残す」
「そして、迷った時は必ず――人を、選ぶ」
「国家とは、人が生きるためのものだ」
「この一行だけは、決して壊さない」
拍手が、鐘の音に重なった。
私は王妃候補の席で、その背中を見ていた。
無能と呼ばれていた第二王子。
柱の陰で、断罪の夜会を見ていた人。
その人が今、王として立っている。
――俺が言えることは、一つだけだ。止めるな。
仮邸の一通を、思い出す。
大丈夫です、アルノルト様。
あなたの敗けた意味は、いま。
この国の、一番高い場所で誓われました。
三日後。
同じ大聖堂の鐘が――今度は、私のために鳴る。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
次話、三日後。今度は、私の番です。
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